【中編】現代語で読む 神武東征の真相!!


熊野への進軍と高野での苦戦、新羅軍は毒煙を使用

狭野の命は、五瀬の命が亡くなった場所に仮宮を築いたので、ここを狭野の里といいます。

全国に散っていた皇族たちを招集すると、みんな驚いてここに集まってきます。

大久米の命だけは、伊勢津の多気の宮に残って、敵の逃げ口を塞ぎます。

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第71代を中心に、狭野の命を大将として、ここから熊野に進軍しようとしたとき、地元の豪族たちが集まってきて、こう申し上げました。

「ナガスネヒコと新羅人を倒すのであれば、自分たちは道をよく知っていますので、案内しましょう。」


熊野の村に出たとき、高野に賊どもが何人も集まっていたので、千筋矢を放ったところ敵も応戦してきたので、接戦になりました。


このとき、黒雲のような煙が立ち登って風に吹かれて拡散し、多くの人が戦死しました。

これは新羅人のまいた毒煙であることが分ったため、しばし後退します。

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⇒現代ならば、大量破壊兵器である毒ガスを使用したということで、国連から非難されてもおかしくない。


狭野の占いと無念の久米歌

悩んで病気になってしまった狭野の命が、神に祈ると、夢の中に誰か分らない神様が出てきて、こう告げます。


「天の香具山の埴土で杯を80枚つくり、これに酒をついで、厳瓮をつくって餅で満たし、8昼7夜のあいだ神々に祈り続ければ、敵を滅ぼす方法が自ずから見つかるだろう。」


ここに、宇陀の国主が登場してこう報告します。

「ナガスネヒコの兄も合流したので、説得しましたが聞きませんでした。

また磯城の国主と、高市の国主も、外国人と結託して、天皇を殺してナガスネヒコを天皇にしようと謀議しております。

だから天の香具山の埴土を採る使節を送れば、必ず殺されるでしょう。」

「そなたに考えはあるか?」と聞くと

「あります」と答えます。


そこで狭野の命は、

「ナガスネヒコは新羅人と組んだ。

だから散々人民を殺している。

これは国の仇であり、兄の仇である」

と宣告し、有名な「久米歌」を、涙ながらに歌い始めます。


ミヅミヅシ クニメノコラガ・・・・・・瑞々し 国芽の子らが

カキモトノ アワフニハ・・・・・・・・・柿下の 粟生には

カミラチチトモ ソノガモト・・・・・・・神ら父とも そのが下

ソネメツナキ ウチテシヤマム・・・・・・嫉めつなぎ 討ちてし已まむ

 

⇒この一節だけしか書かれておらず、古事記とは異なる。

⇒また「クメノコ」ではなく原文は「クニメノコ」であり、翻訳を間違えているようなので右は私の独自解釈。

(つまり、「若々しい子孫代々の子供たちよ、柿の木の下に自然と粟の芽が出るように、神や父の下、恨みの芽をつないで、仇を討って報いよう!」という意味になる)

⇒これは単なる歌ではなく、呪文を意味するので、後代の征服者たちが恐れをなして封印したか?

 

そこで、そのお心を酌んだ珍彦の命(出発時に合流した水軍の長)が、

自ら破れ衣を着て、破れ笠を被り、柴刈りの翁の姿になって、

また弟の倉下の命は柴刈りの婆の姿になって、

大通りをフラフラと歩いてゆくと、敵が立ち塞がって斥侯ではないかと疑われましたが、

この二人を見て大笑いして「なんと醜いジジババか」と、道をあけたので、

無事に埴土を採ることに成功しました。

(これが宇陀の国主の作戦だったのです。

 

狭野の命は喜んで、さっそくおまじないを始めます。

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神のお告げと八咫烏たちの先導

この神事が終わって、厳瓮を丹生川に流したところ、たちまち魚たちが元気になって泳ぎ始めます。

これは、皇軍にとっては吉兆でした。


病に伏していた狭野の命のもとに、伯父の高倉下の命が太刀を持って現れ、これを狭野の命に渡します。


その理由を聞くと、

「私の夢に、天照大御神と高御産巣日の大神の二神が現れて、

建甕槌の命を呼んで、

『日本国はたいそう騒々しく、私の御子たちも悩んでいる。汝は降臨してお告げを伝えよ。』というと、

建甕槌の命は、

『私が降臨しなくてもすでに佐士布都の神という太刀を、高倉下の屋敷の天井から落としてあります。』と答え、

さらに私のほうを向いて『汝は今臥している狭野にこの太刀を与えよ』と告げました。

夢から覚めると本当に太刀があったので、ここに持ってきたのです。」といいます。

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さらに、高御産巣日の大神のお言葉で

『ここから奥に入るではない。荒ぶる神どもが集結している。

だから今、八咫烏たちを集めた。

その八咫烏の飛ぶ後を追いかけよ。』

とのお告げがありました。

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そこで、皇軍は雄たけびを上げながら、高野に向かって進軍したところ、

山からまた黒煙(新羅軍の毒煙)が立ち登ったので、

大久米の命が佐士布都の太刀を抜いて左右に振ると、

その刃から真風が噴き出して、敵は自分の煙を自分で吸って全滅してしまいました。

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第71代、日高に本陣を置き、一族に指示

ここに第71代は、伊勢津の多気の門から、湯の港に駆けつけ、陸道というところに仮宮を建てて一族を集めたので、ここを日高といいます。

ここで、一族に下記の指示を出します。


日高狭野の命は、大久米の命、以下計26柱を伴って、宇陀の国見に向かい、ナガスネヒコとその一族をことごとく撃破すべし。


高倉下の命、稲飯の命、御毛野入野の命、以下24柱は、牟婁の鬼山に向かい、外国人の鬼どもがやってきて、三木山に駐屯しているので、一人残らず殺し尽くせ。

そうしないとまた外国に逃げ帰って大変なことになる。

取り逃がしたらおまえたちの大きな罪だぞ。

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ここに狭野軍は、戦の装束を調えて出発しますが、名草、日根、石川あたりの住民たちも馬を差し出して協力し、自分たちもお供しました。


花坂という所に差し掛かったとき、八咫烏が飛んできて「こちらへ、こちらへ」とさえずるので、その後を着いてゆくと、吉野川に網代をかけて魚を取っている人があり、この川魚を奉納するというのです。

名前を賀名生五郎といい、「おまえはこの辺の領主たちの魂胆が分るか?」と聞くと

「よく分かるので、悪い新羅人を見つけてこの川原に連れてこようと、ここに参りました。」というので、

合流させ先に行かせることにしました。

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高倉下軍と新羅軍の激戦

その頃、高倉下の命が率いる軍勢が、山にさしかかったところ、何百人もの新羅人があちこちの山や野に分散して隠れており、矢を放ち、煙を放ち、仰々しい様相で威嚇してきたので、高倉下の命が「久米歌」を歌います。(省略)


高倉下が、天から授かった剣を抜いて振ったところ、風が巻き起こり、新羅人はみんな病気になってしまいました。


いったん、鬼山に追い詰めますが、三木浦に逃げ出し、ここで援軍も加わってねばります。


また、南側に廻った小隊が、五瀬の命の仇・ナガスネヒコを討つため曽根に赴いたところ、丹敷浦や鬼山に隠れていた新羅人が、この6人に襲いかかってきます。

この部隊が善戦したため、新羅人はすっかり戦意を喪失してしまいます。


そこで本隊も合流して、最終的には皇軍側の犠牲者は20人、新羅人の死体は山のようになりました。

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稲飯と三毛入野の海戦と、海神のご加護 【丹敷の海戦】【周三見の海戦】

【丹敷の海戦】

 

一方、稲飯の命と三毛入野の命などは、曽根の港で軍船を造り、海峡に停泊して丹敷の浦を攻めました。

 

⇒三重県熊野市二木島町は、古くは「牟婁崎」と称し、二木島湾は別名「丹敷浦」と呼ばれる。

ここに、稲飯の命を祀る「室古神社」と、三毛入野の命を祀る「阿古師神社」が、湾を挟んで対峙する位置に鎮座する。

こここそが、二人が停泊して二木島湾を東西から挟み撃ちにして、新羅船団を追い詰めた場所である。

(陣地跡であり、没した場所ではない)

近隣には曽根坂があるので、ここで軍船を造らせたか?

阿古師神社で行われる二木島祭=「関船競漕」の神事は、当時の軍船を復元して、この海戦を再現したものであり(上記の写真参照)、熊野水軍とは豊後海部族が遠征したものである。

近くの岬には、「神武天皇遭難の碑」があったが、とんでもない捏造である。神武天皇は宇陀を攻めていたのでこの地を訪れていないし、遭難もしていない。(新羅勢力によるもみ消し工作か?)強いていえば、「新羅軍遭難の地」であろう。

 

ここに、新羅の軍艦50隻を追い詰めて、これを討とうとするとき、

 

斎部若道の命という人が馬で駆けつけ、こう申し上げました。

「私も船を作って参戦したく思います。」

 

ところが、天孫たちはこう言って断ります。

「あいつらの50艘の大船に、我々はわずか6艘の小船で戦って、しかも全滅させなければならない。

だから全員死ぬ覚悟だ。おまえは来るな!」

 

すると、「私にも覚悟はできております。私を何者だとお思いですか?

いま私には五瀬の命の霊が降りております。」といい、しばらく経つと7隻の船を建造してきました。

 

ところがこの間に、敵の50隻の船が逃げ出して一隻も居なくなってしまいました。

 

稲飯の命は大いに嘆いて、

「私の祖先は、ワダツミの神の娘(豊玉姫)であるのに、いま新羅人を追い詰めて全滅させようとしているときに、なぜ海から見逃してしまったのか。早く疾風を吹かせて船を帰させてくれ。私が海に入って奴らを追いかけよう!」と、太刀を抜いて海に飛び込んで、サイモチの神(海獣の姿をした海の神)となりました。

三毛入野の命ら6人も、全員海に飛び込んでサイモチの神となります。

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江戸時代に歌川国芳が描いたオオワニ
江戸時代に歌川国芳が描いたオオワニ

【周三見の海戦】

 

ところが、翌日の朝から大風となり、波も激しくなってきたので、皇軍の船も大島(場所不明だが潮岬付近か?)の風下に避難していました。

 

すると、敵の50艘の船が、この大風に煽られて、フラフラと沖合いに漂流してきたので、よく見ると、なんと七匹の大鰐(=サイモチの神)が船の後から追いかけているではありませんか。

 

そこで皇軍は、大波を乗り越えて新羅の船に飛び込み、手当たり次第に切り殺していると、七匹の大鰐たちも船底を食い散らかしており、とうとう50艘全てが浸水して、新羅人たちは全員海に投げ出されてしまいました。

 

これを見た皇軍の将軍や軍人たちも全員が海に飛び込んで戦いますが、不思議なことに溺れた人は一人もいませんでした。

 

このあたりの島々が動いて、浅瀬まで届けてくれたのです。

だから、この地を周三見=スサミといいます。

 

その島々を見れば、みんな大鰐の背中のような形をしています。

だから、ここにサイモチの神を祀って、スサミの大神と呼びます。

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⇒ここで、狭野の命が皇位を継いだ理由が明らかになる。つまりそれ以外の兄弟は全員戦死した。

 

熊野諸手船神事(渡辺崋山画・模写・東京海洋大学岩淵研究室蔵)
熊野諸手船神事(渡辺崋山画・模写・東京海洋大学岩淵研究室蔵)


後編へと続く・・・・・

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