宇佐神宮とウガヤ王朝との密接な関係

 
宇佐神宮には、もともと天照大神が祀られていた。
八幡神は、のちに大神氏が持ち込んだものだ。
だから、緒方惟栄も、大友宗麟も、怒って焼き討ちにした!

いまだに謎の多い宇佐神宮だが、『ウエツフミ』がこの謎を説明してくれている。

 


<もともとの宇佐神宮>
天照大神のご神体である八咫鏡(やたのかがみ)が、ここにあった。
その巫女たちが宗像三女神である。(と、ウエツフミに書かれている)

ご存知のとおり、八咫鏡は天照大神からニニギの命に手渡された、正統な天皇の証である。

ニニギは、この鏡を持って祖母山に降臨し、のちにこれを持って大分に遷都した。

そして、宇佐神宮にこの鏡を置いて大切に守っていた。つまりウガヤ王朝の氏神様である。

 

もともとの宇佐神宮があった場所は、現在の南大分の障子岳にある宇曽嶽神社ではないか?と考えている。(ウエツフミに、このあたりに天つ神を祀る社を建てたという記録があるからだ)

 >>>宇曽嶽神社についてはこちらから。

あるいは、柞原八幡宮かもしれない。 どちらにせよ、この2つの神社が、「大分の宮」を守るように、真北と真南に配置されているのは興味深い。

 

<景行天皇の来襲>
ところが、ここに景行天皇が攻めてきた。
このとき、神夏磯媛=カムナツソ姫(ウガヤ王朝最後の女王?)が降伏して、八咫鏡を景行天皇に渡してしまったようだ。(「日本書紀」より)

なお、このくだりは現在の御用学者たちは曖昧にしている。

現代語訳などをみると「単なる鏡」と書かれていることが多いが、漢文の原文には、はっきりと「八咫鏡」と書かれているのだ。(こちらにある原文の「十二年秋七月」を参照
宇佐神宮のご神体は、このときからコモ枕(正確には真菰=マコモという植物で編んだ枕)に変わる。

 >>>景行天皇についてはこちらから。

 

<大神氏の時代 571年>
大神比義の時代に初めてこの地に八幡神が降臨し、天照大神はヒメガミという名前であいまいにされてしまう。
なぜ違う神を合わせて祀る必要があるのか?

しかも、それを命じたのは、百済出身の帰化人・蘇我馬子であるという。

馬子の命を受けた大神比義は、大和三輪山の地からやってきて、それまで宮司を務めていた宇佐氏を追い出してしまう。

なお大神氏系図によると、比義は「どこの国人か知らず」と書かれており、大分から発祥した大神一族とは全く関係ないようである。
その辺に何かモヤモヤとした、ウガヤ王朝の痕跡を抹消しようとする陰謀的なものを感じるのだが・・・。
ただし、現在でもヒメガミの社殿が中央に配置されている。

 

<辛島氏の時代>
辛島氏は秦氏の一族で、大神氏の引き立てにより(というより大神氏と結託して)宇佐神宮の宮司におさまる。
秦氏は、ユダヤの失われた8部族だといわれており、秦の始皇帝にも仕えていた。
つまりピラミッドの建設職人の集団である。
八幡神は、古代ユダヤ教のヤハウェともいわれている。

(少なくともユダヤ人はそう主張しており「日ユ同祖論」を展開している)

 

716年、辛島氏は神殿を小山田の地に移転させる。 (宇佐神宮御宣託集より)

719年、これに反発したためか、大隈・日向連合軍が反乱を起こす。つまりウガヤ王朝の残党が蜂起。

720年、多分この反乱により藤原不比等が暗殺された。(このあたりは正史には全く残っていない)

 

<緒方惟栄の焼討ち 1184年>

源平合戦の時代、辛島氏の後継者の宇佐氏(これもニセ宇佐氏?)が、このご神体を担いで平家方に味方した。

そこで、源氏方の重臣だった緒方三郎惟栄は、宇佐神宮を焼討ちにした。

単にぶち壊したのではない。「ご神体を取り戻しに行った!」というのだ。

緒方氏は、ウガヤフキアエズ王朝の正当な後継者であり、さらに緒方郷は宇佐神宮の荘園でもあったからだ。

このとき、ご神体がどこに行ったかは謎のまま。

 

<大友宗麟の焼討ち 1561年>
戦国時代には、大内氏とその後継者・毛利氏が、豊前の国と宇佐神宮を管理していた。
大内氏は、自分でも認めているとおり百済系の帰化人で、この頃から八幡神は朝鮮の神様であるという解釈がされ始める。

 

1461年「宇佐宮より奈多八幡宮へ神宝を送る。」と宇佐神宮の正史に書かれている。

つまり豊前国の宇佐から、豊後国の杵築に、ご神体を移したらしいのだ!

現在でもご神体を入れ替えるときは、この2つの神社を行ったり来たりするらしい。なぜ?

私の解釈では、大内氏=毛利氏に気づかれないように、こっそりご神体を豊後の国に持ち帰ったのではないかと、考えている。

 

その後、大友宗麟が宇佐神宮を焼き討ちにした。

ちなみに、大友氏一族は『ウエツフミ』を秘蔵していたので、本来「宇佐神宮」を守るべき立場にあるのだが、宗麟はキリスト教に改宗してから、領内の神社仏閣をことごとく破壊しはじめたのだ。

私は、これが大友氏滅亡の最大の原因だと考えている。 >>>詳しくはこちら

 

<現 在>

現在は、八咫鏡は伊勢神宮と、皇室にそれぞれ安置されているという。

あれれれれ???  いつから八咫鏡は2個になったのでしょうか?

Wikipediaの説明

「複製を作りました・・・・・」では済まされない話である。

なぜなら天照大神のご神体なのだから。

 

実は、本物は天皇家には渡っていなかったのだ!

(だから道鏡の事件が起こったとき、伊勢神宮に聞かず、宇佐神宮まで来る必要があったのだ。神夏磯媛=カムナツソ姫やるじゃん!

「ウエツフミ」には、八咫鏡は最初から2個あったと書かれている。

このことは重要なので、章を改めて、後日じっくり説明します。

 

 

以上、ざっと見てきましたが、ほぼこの流れだと思います。

つまり、宇佐神宮の歴史は、日本の古い神様と外国の神様との、「ご神体争奪戦」の歴史でもあったのです。

コメント: 3 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    Misaki-1167 (水曜日, 06 8月 2014 13:49)

    「飛騨の口碑」日本は乗鞍の麓が最初に海から隆起し原日本人は飛騨に発生した。(途中省略)今から2400年程前、飛騨政権(高天原)と出雲の2大国があった。九州は火遠族、火照族、塩土族の外国3部族が渡来し三つ巴の争いをし地元民を苦しめていた。それで当時の政権の天照大神と高御産巣日神(=髙木命)、そして天照大神の夫で髙木命の息子の神産巣日神らは飛騨の民を天の安川原(高山市安川通り辺り)に集め、次の決定がなされた。①国内を一つにまとめる②九州の外国3勢力を平定する③飛騨から奈良橿原へ遷都することが決定された。
    出雲は元々飛騨の山下住水分命の子孫が開拓した土地で「意宇国」と言ったが、出雲と飛騨は政略結婚で和睦し国を一つにまとめることで一致していた。伊邪那美は飛騨の伊邪那岐に嫁ぎ、天照大神と素戔嗚命の姉弟が生まれた。素戔嗚命は出雲に婿に行き、大国主命が生まれた。そして、天照大神の長女多紀理姫が大国主に嫁ぎ、阿遅志貴高日子根命と下照姫が生まれた。(途中省略)
    しかし、大国主の飛騨への裏切り行為で飛騨は出雲国を飛騨に返還させ、大国主と側室の子事代主を幽閉所(現出雲大社)に幽閉した。
    出雲の件は武力衝突もなく無事に終わり、飛騨は圧倒的な軍を引き上げた。これが最大の大失敗になったのだが・・・
    次に安川原での決定通り、天照大神の孫の饒速日命が若い男女を多数率いて、奈良橿原御諸山周辺へ大和国開拓に向かった。(御諸山とは後に少彦名らに改名された三輪山のことである)
    橿原大和朝廷の開拓準備をしたのは兄の饒速日命である。
    そして少し遅れて弟の邇邇芸命(瓊瓊杵尊)が大軍を率いて九州平定に向かった。先ず、長良川沿いに岐阜まで迎えに来ていた猿田彦の船で、鈴鹿の山ノフモト住命の子孫の地まで行き、徒歩で大阪まで行きそこからまた船で愛媛大三島の大山祇命の所に寄ったりして、九州苅田の浜に上陸した。邇邇芸命の妃木花咲耶姫は大山祇命の娘であり、苅田の浜で鵜萱葺不合命(サヌ命=神武天皇の父)が生まれた。これが天孫降臨の事実である。高千穂を通り鹿児島の笠沙岬の塩土族の地へ向かった。
    この時の遠征には天照大神の3姫も同行した。(大国主幽閉前に多紀理姫は飛騨に逃げ戻っていた)3姫は遠征前に九州偵察と外交に行き、飛騨に戻り再度案内役として同行していたのだ。宗像神社の祭神となっているのはこの地を訪れていたからであり、更に厳島神社にも立ち寄ったので三姫として祭祀されている。
    宇佐神宮にも祭祀されていたが、途中で大神氏(出雲新羅神)が秦氏八幡神を合同祭祀した。本来は宇佐神社は飛騨の神社だったのだ。
    では何故八幡神が祭祀されたかというと、「出雲がお国の飛騨返還の報復手段として飛騨の天穂日命が統治していた出雲を穂日命を殺害し乗っ取った。そして出雲新羅神崇拝教と言う新興宗教で全国の神社の祭神をすり替えたり、出雲神のみにしたりして宗教で先ず飛騨にしっぺ返しをした」のです。
    大国主は新羅に渡り11年間に新羅の「ソ氏」などの娘達に181人もの新羅の子達を産ませていたのです。そしてその子達が出雲に父を訪ねてきて「幽閉されている父大国主」を見て、後に領主天穂日命を惨殺し、子孫の千家に神官をさせ、少彦名、大国主が全国の神社の祭神としてすり替えられていったのです。そして、奈良橿原大和の饒速日命の勾玉と剣わ崇神天皇の時代に盗み、天照大神の八咫鏡をも奪取し皇位さえ奪おうとしたのです。それが蘇我蝦夷、馬子の時に絶頂期でした。用明天皇・皇后、大臣、聖徳太子らすべて新羅人というありさまでした。全国の神社は飛騨の氏神様から出雲新羅野神にすり替え、または合祀、乗っ取りされています。出雲大社は新羅神の総本山です。

  • #2

    Misaki-1167 (水曜日, 06 8月 2014 15:10)

    「飛騨の口碑」では、天照大神と思兼命の子は上から天穂日命(出雲へ)、天津日子根命、活津日子根命(新潟へ)、熊野久須毘命(出雲へ婿入り後変死)、天忍穂耳命(饒速日命=奈良橿原大和開拓、天火明命=飛騨に残る、邇邇芸命=九州平定=天孫降臨の3人兄弟の父親)そして多紀理姫、市寸島姫、多岐都姫の5男3娘が生まれました。高御産巣日神は飛騨市古川町太江の高田神社の祭神高木神で思兼命は神産巣日神といい髙木命の息子です。これが飛騨政権の3神で天照大神は初代飛騨皇統スメラミコトの35代目に当たります。天照大神の孫の饒速日命が奈良大和を開拓下準備をし、邇邇芸命が九州平定をし、愛媛大三島の大山祇命の娘木花咲耶姫との子鵜萱葺不合命が、鹿児島笠沙岬に勢力を置く塩土族(インド南端タミール語族)の娘玉依姫と結婚し、五瀬命、稲氷命、御毛沼命、神倭伊波禮毘古命(サヌ命=後の神武天皇)が生まれました。後にサヌが九州平定が叶い、邇邇芸命の兄饒速日命が開いて待っていた橿原へ入ります。邇邇芸命は九州でなくなりサヌが橿原入りすることは明記されていますが、鵜萱葺不合命についての詳細は今の所分からない。しかし、サヌ命は3男御毛沼命に九州邪馬臺国(ヤマトコク)を託し、五瀬命らと橿原入りの為日向を経ったとあります。そして、サヌは橿原入りの時に飛騨の長スネ彦と交戦となり、兄五瀬命は矢に当たり亡くなります。そして長スネ彦は「殺した事にして」津軽に兄安日彦と共に渡ります。そして、津軽大和国(アラハバキ王国)を建てます。
    このように奈良橿原大和、九州大和、津軽大和と飛騨政権の大和国は3つあったのです。従って鵜萱葺不合王国と言うものがあれば邇邇芸命亡きあとサヌが九州を絶つまでの30年弱の間の九州飛騨政権をいうのでしょう。それは御毛沼命に受け継がれたかも知れません。
    よく分からないと思いますが、要約すると、①日本人は飛騨に先ず発生した単一民族である。②その内に大淡上方様(初代飛騨スメラミコト)、淡上方様(15代飛騨スメラミコト)らの子孫が全国の海岸線防護と開拓に散らばって行った。➂35代天照大神(ヒルメムチ)の御代に出雲返還、九州平定(天孫降臨)、橿原大和建設がなされた。④九州を平定したサヌ命が橿原入りし、飛騨の位山の先祖から皇位の板(後の笏木)を賜り初代日本国の天皇に即位し、飛騨政権はここに幕を閉じた。出雲では新羅人の少彦名=五十猛が天穂日命を惨殺しその子孫千家を神主に落とし、新羅神を祀らせるようにした。
    ⑤新羅神崇拝教出雲は大和朝廷に近づき、側近を取り込み、天皇周辺にも近づき側室に三輪山(饒速日命の一の宮だったが乗っ取り、大神神社とした)の神官大田タネコ(新羅人)の血を入れた。後にこの子孫から「蘇我氏」が出て朝廷の実権を握り、飛騨天孫族をエッタ、エタに落として行く。そして全国の神社を出雲新羅神で乗っ取って行った。
    余談ですが、藤原氏、中臣氏は天児屋命、忌部氏は布玉命、物部氏は宇摩志摩遅命という具合に飛騨の政権幹部達が後の貴族め豪族の子孫となります。当初は全国の神社の祭神は全てこれら飛騨の人達だったのです。それを乗っ取ったのが出雲新羅崇拝教という日本初めての新興宗教だったのです。詳細をお知りになりたい方は山本健造著「日本起源の謎を解く」「明らかにされた神武以前」、山本貴美子著「暴かれた古代史・・・二千年の涙」等福来出版版をご覧になられることをお勧めします。

  • #3

    Misaki-1167 (日曜日, 10 8月 2014 18:24)

    天皇の証などと言われる「三種の神器」だが、日本皇統の祖=飛騨皇統スメラミコトでさえ、そんなものは誰も持っていなかった。天照大神の「八咫鏡」と饒速日命の勾玉の首飾りと剣(草薙の剣ではない)が御霊代とされるくらいだ。
    日本の初代天皇である神武天皇でさえ「三種の神器」など持っていなかったのだ。いつからか三種の神器が天皇の象徴のようになってしまったのだろう。
    出雲蘇我氏新羅神崇拝教が最後まで略奪しようとしたのは天照大神の「八咫鏡」である。これこそが日本の天皇の象徴物なのだ。
    ちなみに饒速日命の御霊代は10代崇神天皇の時に、出雲新羅神崇拝教により盗まれた。現在も何処にあるのか分からない。
    素戔嗚が八岐大蛇退治の時彼らから奪った鉄製の切れ味のいい剣が高天原飛騨の天照大神に献上され、最初叢雲の剣と言われたが、どういうわけか後に日本武尊命の手に渡り、賊に囲まれて火を付けられた時、草を薙ぎって難を逃れたことから草薙の剣といわれるようになり、現在熱田神宮所蔵となっている。
    これも本物かどうか疑わしいが・・・