初代ウガヤフキアエズの勢力範囲

首都=二上の大宮のあった場所について

ウエツフミには、王朝の首都は「二上(ふたのぼり)の大宮」であると書かれています。

通説では、これは現在の高千穂町であろうと解釈しています。

 

ただし、ひとつ不思議なのは、王族が船を使って旅をするときは、必ず臼杵から出航しており、逆に旅先から高千穂に帰るときは、臼杵に上陸⇒大野の宮(現在の豊後大野市)⇒直入の宮(現在の竹田市)を経由して、「二上(ふたのぼり)の大宮」に入っていることです。

つまり現在の国道57号線沿いに、高千穂に向かっているのです。 (下記の地図参照)

 

地元の人ならほぼ全員が納得するはずですが、竹田と高千穂の間には祖母山という険しい山が横たわり、ケモノミチのような登山道しかありません。

大名行列が越えられるような広くて平坦な道路は、現在でも存在しないのです。

にもかかわらず、なぜ、船を延岡あたりに着けなかったのでしょうか?

 

このことから、「二上(ふたのぼり)の大宮」とは、高千穂のことではなく、「祖母山の北側にあったのではないか?」と考えるようになりました。

 

これを裏付ける根拠としては、

 

◆「二上(ふたのぼり)の大宮」に都を置くことになった際の、周辺の景色に関する描写です。このことは前にも書きましたので、興味のある方はこちらから。

 

◆この都があった地名「くしふるたけ」からは、どうしても祖母山のギザギザした稜線を連想させます。そして「ふたのぼりの峰」とは、尾平の盆地から祖母山を見上げたときの二つの頂だとも読めるのです。

 

◆さらに「日本書紀」によると、「一説」として、天孫降臨の地とは「日向の襲の高千穂の添(そほり)の山の峯〈第六、一書〉」であると書かれています。「そほりの山」とは、明らかに「祖母山」のことと思われます。

つまり、このころから既に論争があったようなのです。

 

◆高千穂町には、三田井一族という人たちが住んでおり、現在も「三田井」という地名で残っていますが、この人たちは大分県側の緒方町から出た大神氏=緒方一族の末裔なのです。しかもこの人たちが「岩戸神楽」を伝える中心勢力でした。お神楽も大分県側で創られた可能性が高いのです。

(ちなみに、812年大神惟基が高千穂の天岩戸神社を再興しています。)

 

◆高千穂町と臼杵市の両方に存在する「臼杵」という地名ですが、これは単なる偶然でしょうか?

いまでも臼杵氏という名前を持つ人たちは強い団結力を誇っており、「臼杵祭り」と呼ばれる講が残っています。

(ちなみに第15代と第72代の天皇の名前にも「臼杵」という字が入っています)

つまり、山の南側と北側で、同じ一族が祖母山を守っていたことになります。

 

これらの事実から、「彼らの信仰対象は祖母山そのものであり、その祭殿としての二上の大宮は、祖母山の北側=つまり大分県側にあった!」という結論に至りました。

 

そして、大分と高千穂は最初はひとつの国だったのです。

 

現在の大分(豊日別)と宮崎(くしひね別)に分かれたのは、初代ウガヤが行政単位を定めてからなのです。(下記参照)

ちなみに、どういうわけか「古事記の国生み」では、宮崎と熊本がくっついて「タケヒムカヒトヨクジヒネワケ」と表記されています。

(明らかな誤記、またはウガヤ王朝を抹消するための意図的な改ざんと思われます)

  

それでは、現在の「高千穂町」とは何なのか?というと、これは聖地の南側にある「下宮」であり、神代に起こったイベントを分かりやすく展示したテーマパークだと考えています。

なぜならば、天上界で起こった事件の現場である「天の岩戸」や「天安河原」が、地上界に存在するのはおかしいからです。

 

また、霧島連峰にも高千穂という地名が存在しますが、これは明治時代になってから「薩摩学派」と呼ばれる人たち、つまり当時の体制派が、強引に誘致した可能性が高いのです。(霧島神社の由来についてはこちらから

 

※城原神社あたりが「二上の大宮」であったとする私の仮説はこちら


初代ウガヤフキアエズの勢力範囲

さて、ニニギの命はここ大分の地から全国に巡幸して、日本列島をほぼ勢力範囲に治めました。

といっても、実際に書かれているのは「○○地方を訪れて盛大なもてなしを受けた」という程度で、そこにどんな交渉があったのか?あるいは戦闘があったのか?は、全く分かりません。

 

ただし、ニニギの孫の初代・ウガヤフキアエズが即位したときには、全国を統治する体制がほぼ固まったようで、各地に建(タケル)と呼ばれる領主が置かれました。

この役職が設置された地名は下表のとおりとなります。

実際に任命された人の名前まで正確に書かれていますが、ここでは省略します。

 

この配置を見る限り、九州を中心に西日本はほぼ現在の都道府県の単位と一致します。

近畿から東については、とびとびでしか国が存在していませんが、これは実際にそうだったようです。

つまり、まだこの時代には人口がそこまで多くなかったと考えられます。

 

そして、ウガヤ王朝は、北海道と沖縄を除く、ほぼ日本全国を掌握していたことが分かります。(後代になって北海道と沖縄も王国に組み込まれてゆきます)

 

 

明治発刊の「上記鈔訳」にある「上代全国ノ図」※上下が逆になっている
明治発刊の「上記鈔訳」にある「上代全国ノ図」※上下が逆になっている

初代ウガヤフキアエズの定めた行政単位一覧表

地方 漢字表記 正式表記 現在地 特徴的な地名 ●は宮のあったところ
九州 奇日の国 くしひのくに 宮崎+大隈 高千穂、くしふる岳、●二上の大宮
  建日の国 たけひのくに 鹿児島県  
  速日の国 はやひのくに 熊本県 阿蘇
  狭手依の国 さてよりのくに 対馬 天之香具山
  天之一津柱の国 あめのひとつはしらのくに 壱岐 第四代になってから唐津城の国が登場
  白日の国 しらひのくに 福岡県 彦岳
  豊日の国 とよひのくに 大分県 ●大分、宇佐、国東、御宝山(霊山)
        ●臼杵、●大野、●直入
         
中国 穴門の国 あなとのくに 山口県 ●熊毛国佐奈伎山
  天之忍許呂国 あめのおしころくに 隠岐  
  吉備津根国 きびつねこく 岡山・広島 ●笠の国八木山
  出雲国 いづもくに 島根県 ●伊農国大根山
  丹波国 たにばくに 兵庫県北部 ●何鹿(いかるが)の国 みなたびの山
         
四国 愛媛の国 えひめのくに 愛媛県  
  飯依の国 いいよりのくに 香川県  
  大宜津国 おおけつくに 徳島県  
  建依国 たけよりくに 高知県  
         
近畿 草木根国 くさきねくに 和歌山+摂津 ●伊都の国のおえめの大道
  秋津根国 あきつねくに 奈良・京都・大阪 ▲吉野山の深谷間(地元豪族の宮?)   
  淡海根国 あわみねくに 滋賀+愛知  
  伊勢津国 いせつくに 三重県 サルタヒコの降臨地=いすず川
         
中部東海 狭依科国 さよりしぬくに 信州 ●駒山のにやり室
  遠津海国 とおつみやくに 静岡県  
         
関東 无邪津海 むさつみ 東京・神奈川・千葉 ●久良門の国大蔵山
  野陸 ぬちぢ 栃木・群馬 ●くらどの国ぼくらど国の座山
  常陸国 よちぢくに 茨城 ●新治の国河内山
         
東北 陸奥の国 ちじのくに 福島・宮城・岩手 ●刈田の国あうゐ山
         
北陸 越根の国 こしねのくに 新潟・富山・石川・福井 ●砺波(となみ)の国まきの山
         
離島 両児国 ふたごくに 佐渡  
         
コメント: 2 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    大分県宇佐市在住の通りすがり (月曜日, 04 8月 2014 00:21)

    古代史はごっそり抜けおちているのではないかと思ってきました。古代文字を調べ、ウガヤ朝に興味が有り、貴殿のブログに辿りつきました。国東の石彫文字等、日本に残る文字は貴重だと思います。古代文字は、明治維新から破壊されて少なくなっているそうです。日本人にルーツや歴史を知らせたくない人達がいる様です。

  • #2

    Misaki-1167 (日曜日, 10 8月 2014 16:33)

    「暴かれた古代史・・・二千年の涙」山本貴美子著
    抜粋・・・(P.116~) 出雲が国を飛騨に奉還して一件落着すると、飛騨ではいよいよ筑紫(九州)でした。筑紫へ三つの民族が上陸してきており三つ巴の戦いをして乱れており、それを平定する為に邇邇芸命を総大将にして大勢の若者達が筑紫へ行ったのです。これが天孫降臨です。
     筑紫(九州)は広く邇邇芸命、鵜萱葺不合命と二代かかってなんとか平定の見通しが立ちました。
     邇邇芸命の筑紫への降臨についても、「記紀」は海幸彦・山幸彦とお伽話化されて書かれているだけです。何の為に筑紫に降臨したのかを全然書いていません。しかし平定に行った事はちゃんと知っていたのです。何故なら、話は戻りますが天照大神の三人の娘の内、大国主に嫁いで裏切られて出戻りして来た長女の多紀理姫は博多湾の豪族の嫁に行きました。そしてあとの二人の妹、市寸島姫と多岐都姫は国奉還の談判の時に、天照大神と素戔嗚が約束した通りに運ぶと決めた事は既に述べました。天照大神の二人の娘はそれぞれ素戔嗚の息子二人と結婚させて博多湾を守ったのです。博多湾の近くの宗像大社に天照大神の三人の娘・三妃が祀られています。
     ですから出雲の幹部達は飛騨が国奉還の談判の後筑紫平定の大仕事をし、その後大和へ戻って大和朝廷を開いたことをちゃんと知っていたのです。知っていながら出雲に都合が悪い為に「記紀」に書かなかったのです。
     「記紀」は筑紫平定をお伽話化して誤魔化してありますが、その中に隠された真実が読み取れます。
    飛騨では出雲に軍隊を残さずに出来るだけ多くの軍を筑紫へ派遣しました。しかし筑紫平定は武力で叩いて行ったのではないのです。
     筑紫に上がって来た外国勢は武力を持っており、三つのグループが互いに戦をしておりました。特に二つのグループは殺人、略奪なんでもござれの大暴れをしており昔から住んでいた日本人は困り果てていました。人間をまるで大根を斬るようににして切った、とその残虐性を飛騨に伝えています。この暴れ者を牽制する為に、飛騨は圧倒的に強い武力で臨んだのです。
     人柄の一番優しいグループと政略結婚で仲良くしました。そしてあとの二グループとは、相手が暴力ではとてもかなわないと観念したところを、すかさず、両雄とも飛騨を親にして親子盃させ、次に両雄同士に兄弟盃をさせ、親子、兄弟の親戚関係を結んだのです。こうして皆と手を組んで仲良くなびかせて、日本文化になじませて混血、融合したのです。この両雄は共に神として九州に祭祀されています。筑紫平定はこうしてなされたのです。
     この平定について「日本書紀」は、「邇邇芸命の時代は太古の時代で、まだ明るさも十分ではなかった。天孫が降臨されてから百七十九万二千四百七十年余年になる」と、とてつもない長い年月が書かれている。約百八十年前というと、やっと人類の原人が登場した頃で、嘘もたいがいに・・・です。
     邇邇芸命が筑紫平定の為に天孫降臨してサヌ命=神武天皇が大和へ帰って来るまで四,五〇年しか経っていないのです。サヌの祖父邇邇芸命は天照大神の孫であり事代主とは又従兄弟なのです。それを「日本書紀」は飛騨王朝の筑紫平定の時期を太古と誤魔化して飛騨の大仕事である筑紫平定を隠しているのです。
    ・・・抜粋終わり。