熊野信仰のルーツは【神武東征】で新羅軍と戦った英雄たちだった!

最近、世界遺産にも登録されて大人気となっている「熊野古道」ですが、

ここに、新たな発見がありましたので、ご報告します。


先日、ウエツフミに書かれている『神武東征』のストーリーを現代語に訳してみたのですが、これまで日本人には全く知らされてこなかった数々の新事実が浮かび上がってきたのです。


そして、この歴史的大事件が起こった場所を地図上にプロットしてゆくうちに、ある奇妙な一致に気づきはじめました。


それは、

熊野古道の散策ルートと神武東征の行軍ルートとが、ピッタりと一致している。

ということです。

まず、下記にある左右の地図をじっくりと見比べてみてください。


つまり、「熊野古道」とは、神武東征の際の皇軍の進軍ルートであり、

「熊野信仰」の神々とは、新羅軍と戦って散っていったわが国の英霊たちだったのです。


だから、このルートを散策する旅とは、この事件の起こった現地を訪れて、英霊たちの活躍を偲ぶ「聖地巡礼の旅」である、とも言えます。

 



ウエツフミが伝える新事実とは?

まず、「神武東征」に関する『ウエツフミ』の記述が、『古事記』『日本書紀』とは大きく異なっている点をあげてみます。

 

◆紀伊半島の東側に、新羅軍が上陸した。(牟婁の三木とあるので、現在の尾鷲市三木里駅付近と思われる)

◆新羅の王が、地方の豪族にすぎなかったナガスネヒコをそそのかして、反乱を起こさせた。

◆この反乱で、まず神武天皇の長兄の五瀬の命が犠牲になる。

◆皇軍は、この地(和歌山の竈山神社)から反撃を始めた。

◆神武天皇=狭野(三男)軍は、陸路、ナガスネヒコの本拠地のあった奈良県宇陀市を攻める。

◆高倉下(叔父)、稲飯(次男)、三毛入野(四男)らは、新羅軍の本拠地のあった尾鷲から那智勝浦あたりに向かう。

◆ここで、新羅軍と皇軍とのあいだに、二つの大きな海戦があり、稲飯、三毛入野らが犠牲になる。

◆つまり、神武天皇の兄弟は、本人を除いた全員が、お国のために散っていった。

 

私は、この2つの海戦を【丹敷の海戦】と【周三見の海戦】と名づけました。

そこには、実に感動的なストーリーが展開されているのですが、詳しくは、こちらの【中篇】でご覧ください。

 

ところが、『古事記』『日本書紀』からは、この二つの海戦の記述が見事に削除されているのです。

それどころか、新羅軍の“シ”の字も出てきません。

稲飯や三毛入野たちが海神になって大逆転するというストーリーも完全に捏造されており、「理由も無いのに勝手に海に飛び込んで死んだ」と、書かれています。

 

これは、いったいなぜでしょうか?


熊野信仰のルーツとなった本当の神々のお姿とは?

<熊野本宮大社とは?>

 

そのルーツは、神武天皇=狭野軍が、吉野山中を行軍しているときに現れた大きなであり、実は熊の姿に身を変えた“山の神(地神)”だったのです。(推測)

だから熊の名前が付いて、“熊野権現”などとも呼ばれるようになりました。


この熊は、山中で道に迷った狭野軍の前に突然現れて、その行く手を遮ろうとするのです。

不審に思った皇軍でしたが、実はその前方に新羅軍の掘った大きな落とし穴があり、その穴に新羅の兵隊が隠れていることを教えてくれたのです。

そして、自らこの穴に飛び込んで、新羅の兵隊を食い散らかして退治してくれます。


だから、この地神に感謝するために、この神社が建てられたのです。


ところが、『古事記』では、この熊は、皇軍を気絶させてしまう“まがつ神”に変えられており、誰の味方で、何のためにそんなことを行ったかの説明も無く、誠にチンプンカンプンなストーリーとなっています。


つまり、この熊を恨んでいる人たちが『古事記』を書いたということでしょうね。

誰とは言いませんが、既にお分かりでしょう?


あるいは、稲飯の命(古事記では稲氷命)の別名が、天津熊野武の命(あまつくまぬたけのみこと)と称することから、ここから熊野神社となった可能性もあります。

この別名はウエツフミだけが伝えるもので、古事記・日本書紀にはありません。

 


<熊野速玉大社とは?>


ここに関しては、『ウエツフミ』に、はっきりと記録が残っています。

つまり、

◆【丹敷の海戦】と【周三見の海戦】との二つの海戦で、

◆海神(サイモチの神)に姿を変えて新羅の船団を滅ぼした、

◆稲飯や三毛入野をはじめとする七柱の英雄たち

◆彼らを祀る神社を新たに建てたので、これを『新宮』と呼び、この地を『和田津』という

と、書かれているのです。


この七柱たちは、第71代ウガヤフキアエズの命(父)から、「絶対に取り逃がしてはならぬ」ときつく指示されていたにも関わらず、【丹敷の海戦】で、新羅の50隻の船団を見失ってしまうのです。つまり逃げられたということです。


それを嘆いた次男の稲飯の命は、

『豊玉姫をはじめとする海神の子孫であるこの私が、よりにもよって得意なハズの海戦で、敵の新羅軍を取り逃がしてしまうとは!』と嘆いて、海に飛び込み、自らシャチ(サイモチの神)の姿になって船団を追いかけます。


そして四男の三毛入野の命と重臣たちもこれに続き、ついに敵の船団を周三見の海岸まで追い詰め、これを食い散らかして全滅させます。


だから、のちに神武天皇を初めとする皇族たちがここを訪れて、兄弟たちの活躍を称え、海神のご加護に感謝して、新しいお宮=新宮を作ったのです。


ところが、明治政府はどういう訳かこの海神が大嫌いだったようで、「廃仏毀釈」=「神仏分離令」の名のもとに、海神の痕跡をことごとく抹消してしまい、現在に至っています。

だから、熊野信仰の本当のルーツも“不明”となったままなのです。

 


なぜこれらの事実が消されてしまったのか?

それでは、もう一度、私の主張を整理してみますと・・・・

 

◆『古事記』と『日本書紀』からは、新羅軍と戦った記録は全て削除されている。

◆その英雄たちの活躍も無視され、皇軍への協力者たちも正反対の悪者へと書き換えられている。

◆明治政府は、海神とその信仰を弾圧して、他の神に書き換えてしまった。

 

これらの事実をつなげると、恐ろしい図式が浮かび上がってくるのです。

 

つまり、

新羅軍=記紀の作者=明治政府=ウガヤフキアエズ王朝と海神信仰を否定する勢力

ということになります。

 

あとは、ご想像にお任せします。証拠が無いからです。

ただし、何らかの巨大な陰謀が動いていることは、なんとなく推察できます。

 

しかし、日本人が本当に大切にしていた“心の故郷”を消されてしまうのは、

実に悲しいことだと思うのは、私だけでしょうか?

 

私の故郷である大分県にも「熊野神社」は、沢山あります。

なぜ遠く離れた和歌山の神様が、九州の山奥に祀られているのか?

全く理解できなかった私ですが、これで全ての謎が解けたような気がします。

逆だったのです。

熊野の神様たちは、大分から遠征して、和歌山で神になったのです。

 

ぜひ一度、私が現代語に訳した『神武東征の真相』を読んでみてください。

 

私たち日本人の祖先が素晴らしい人たちであったことに、あなたもきっと感動するはずです。

 

そして、正しい歴史認識を取り戻すことこそが、祖先たちの供養につながると思うのです。



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