新羅国を建国したのは日本人の稲飯命である!

その五世孫が天之日矛で、八幡神とは稲飯命のことか?


ある日、但馬国に伝わる『国司文書 但馬故事記』を読んでいると、興味深い記述が目につきました。

 

新羅国王子天日槍帰化す。

「われは鵜草葺不合命の御子、稲飯命の五世孫なり」

 

この一文を読んで、私のなかで全てが解決しました。

 

さてさて、稲飯(イナヒ)命といえば、神武天皇(ヒダカサヌ)の兄が有名ですが、早合点しないで下さい!

実はもうひとり、同じ名前の人物がはるか昔に存在していたのです。

 

それが、朝鮮半島にまで攻め入って、当時の三韓諸国を降伏させて、初代三韓国王に就任した日向族の大将軍・稲飯命。

 

この人物が活躍したのは、第15代ウガヤフキアエズの命(ウスキネヒコ)の治世だといいますから、私の推測では紀元前500年頃のこと。

 

『ウエツフミ』によると当時の三韓は、下記のような状況でした。

 

◆新羅国・・・・サイテニキが国主で、独身の一人娘が居た。

◆加羅支那国・・・・中国人が支配する国で新羅とは同盟関係にあった。おそらく楽浪郡あたりのことと思われる。その使者・ヨナシムキが友軍として参戦。

◆高麗国・・・・トシウドが国主だったが、新羅が日本人に占領されたのを見て、降伏して日本の属国となる。

◆百済国・・・・マリトユリが国主だったが、同じく日本の属国に。

◆(任那国)・・・・当時はまだ存在していない。

⇒原文は、こちら。

http://amabe.oita.jp/uetufumidata/uetudata.php?tno=26&sno=5

 

この戦に負けた新羅国主・サイテニキは、「重臣たちすべてを日本国の牛飼いとして差し出すこと」を誓い、さらに「自分の一人娘を稲飯命に嫁がせ」「稲飯命が三韓の新国王として君臨すること」を提案します。

 

ところが、この和睦条件に異論を唱えたのが、なんとスサノオの命だったのです。

阿蘇山に降臨したスサノオは、

「アマツヒツギ(天照の子孫のこと)である稲飯命を、異国に放って、貴重な御種を下すとはなにごとか! やめよ!」

と、髪を振り乱し顔を真っ赤にして怒り狂います。

 

ちなみに、このスサノオのご神託は誠に正しい判断でした。

すなわち、稲飯命亡きあと、外戚関係にあるサイテニキが権力を取り返して、日本人勢力を追い出し始めることは火を見るより明らか。

このやり方で、仲哀天皇や藤原鎌足など、何度も家督が乗っ取られていることはご存知のとおりです。

 

そこで稲飯命が、重臣たちを集めて対策会議を開いた結果、鈴木岩室の命という方が、(稲飯命の)代理人として新羅国主の一人娘の婿となります。

 

ここまでが、『ウエツフミ』に描かれた、稲飯命の戦勝談です。

 

読者のみなさんは、ここまで読んで、何かに気づきませんか?

そうですよねえ、これは神功皇后の『三韓征伐』のストーリーにそっくりですよねえ。

すると、神功皇后は稲飯命のサクセスストーリーを盗用したのでしょうか?

 

実はそのとおりなのですが、まあまあ、先を急がずじっくりと最後までお読みください。

 


稲飯の子孫=ヒボコ族の正しい系図

私は、この稲飯命の子孫たちを、便宜上「ヒボコ族」と呼ぶことにしました。

つまり、朝鮮半島に渡った由緒正しい日向族の皇族の子孫たちということです。

 

その系図を、今度は年代順に並べて、もう一度おさらいしますと・・・・。

 

【BC 5世紀】初めて三韓を統一して、三韓国王に君臨したのが稲飯命

⇒ちなみに稲飯命自身は、第12代ウガヤフキアエズの命(ヤヒロトノツクリ)の孫で、第15代に仕えてイクサノカミ(総大将)として活躍した。

 

【BC 5世紀】その家臣で、新羅国主の一人娘を貰って新国主に就任したのが鈴木岩室の命

 

【BC 340年】その稲飯命の五世孫で、孝安天皇53年日本に帰化したのが、天之日矛(アメノヒボコNo.1)

⇒『国司文書但馬故事記』によるが、通説では垂仁天皇の御世と伝える。いずれも年代が合わず。

⇒ちなみに、BC 340年と断定したのは、『ウエツフミ』の解説も手掛けた吾郷清彦氏。

⇒この年代が合わない理由のひとつに、『但馬故事記』自体に多くの記述が存在し、統一されていないことがあげられる(下記のサイト参照)。

『ヒボコはいつ頃の人なのか?』

 

【BC 27年】垂仁天皇の時代に、第二の天之日矛(アメノヒボコNo.2)が帰化する。

⇒つまり私は、No.1とNo.2は別人物で、後代の人が混同したか、No.2が勝手にNo.1を名乗ったのではないかとみている。

 

【AD 1世紀】その天之日矛(No.2)の四世孫が田道間守(垂仁天皇にヒヒカカという柑橘類を奉納した人物)。

 

【AD 3世紀】その天之日矛の子孫で、仲哀天皇の皇后となったのが神功皇后

 

ここで、やっと神功皇后が登場して来ます。

 


【神功皇后とヒボコ族の正体】

以上の推論は、『ウエツフミ』『国司文書但馬故事記』の記録を合体させた結果得られたものですが、もしもこの推測が正しいとすると、下記のことが分かってきます。

 

◆神功皇后は、ウガヤフキアエズ王朝のDNAを受け継ぐ皇族であるが、母方が日本人なので、通常であれば天皇に即位することは出来なかった。

そこで、他の部族を従えて強引に天皇として即位した。

そのシナリオを描いたのが、中国王朝に通じた武内宿禰ら秦氏である(下記参照)。

⇒ちなみに、大正天皇が皇位をはく奪して皇后に降格した。

 

◆彼女が信仰する「八幡神」とは、自分たちヒボコ族の始祖である稲飯命のことである。

 

◆従って宇佐神宮の中心に祀られた「比売大神」とは、「姫大神」のことではなく、「秘め大神」のことであり、一般人には伏せられている男神=稲飯命である。

⇒この稲飯命を削除したのは、おそらく武内宿禰(のちの秦氏)であり、その目的は同族同士を争わせて、中国による間接支配を実現することであろうか? 奈良時代になると中国傀儡政権が誕生することはご存知のとおり。

 

◆そもそも「八幡(ヤハタ)」の語源は、「八本の旗」のことであり、これは稲飯命の兵法として伝わる「味方有利の戦況を、野戦で奮闘中の兵士たちにこっそりと伝える合図」であって、この八本の旗が上がると、兵士たちは「イクサの神が降臨した!」と、どっと沸き上がったことによる。

 

◆のちにヒボコ族から派生した源氏も、騎馬戦術を得意とし、この「八幡神」を信仰した。

 

さてさて、さらに私の邪推は続きます。

 

◆そもそも武内宿禰は、『九鬼文書』によると中国系帰化人のオオタタネコの子孫だと伝わる。

⇒藤原鎌足も同族であるとする。

 

◆もしもこの記述が正しいとすると、ヒボコ族の神功皇后は、皇位を略取するために、中国系帰化人(=秦氏)の武内宿禰を利用したことになる。

 

◆つまり、北九州・山口を本拠地とするヒボコ族と、河口湖畔の富士宮王朝を本拠地とした徐福の子孫である秦氏が、結託して日本の皇室を転覆させたということになる。

 

◆この事実を、ウエツフミの編集者の一人である僧・信瞬はこのように証言している。

(『ウエツフミノクドキ』より)

「熊襲は外国人と組んで皇室を転覆させた」

 

◆同じ事実を、推古天皇もこう証言している。(『先代旧事本紀 大成教』序文より)

「四夷化して朝と成る」 (つまり外国人たちが皇室を乗っ取って朝廷となった)

 

ここで、誰しもが陥りがちなトリックのひとつが解決したことになります。

つまり、神功皇后を出したヒボコ族と、武内宿禰を出した秦氏とは、別民族であるということ。

 

さらにさらにややこしいのは、全く別のあの部族が関係してくることです。

それが、熊襲族隼人族

 


熊襲族と隼人族の違い

のちのち混乱するので、私の結論から先に書いておきます。

 

熊襲族とは、九州・阿蘇地方の先住民で、火の神・ニギハヤヒ(別名ホノアカリ)を信仰していた縄文人であり、のちに物部氏と呼ばれた。

 

隼人族とは、半島に渡ったヒボコ族を中心に結成された軍事部隊で、その中心戦力が「八幡騎馬隊」である(その隊長が景行天皇ことオオタラシヒコ)。皇族となった日本人ヒボコ族(タラシ系天皇)と区別するため、半島出身者だけにこの名称が使われた。

 

つまり、神功皇后は【ヒボコ族】【秦氏】【熊襲族】【隼人族】の四つの部族を支配下に収め、その頂点に立った訳で、その意味でのちの推古天皇の指摘「四夷化して朝と成る」の例えは、誠に適切な表現であるといえます。

 

熊襲族と隼人族には、それぞれ別のルーツがありますが、一時期同盟関係を結び一緒に行動していたのです。

このことの説明は非常にややこしいので、下記の解説をよくお読みください。

◆九州の阿蘇山を中心に、火山と火の神・ホノアカリを信仰する熊襲族という一族が居たことは事実です。

⇒神武天皇(ヒダカサヌ)の最初の奥方も熊襲族の娘・アイラツ姫だか、その息子・タギシミミは(熊襲の血を引くので)皇位を継承できなかった。腹違いの次男・カムヌナガワミミ(綏靖天皇)が即位したので反乱を起こしたが、鎮圧されて阿蘇の根子岳に祀られた。(ウエツフミによる)

⇒縄文人の信仰するホノアカリ(ホアケ)が弥生人神道と習合して、ニギハヤヒと呼ばれるようになった可能性大。

 

◆このあと、前稿でも紹介したとおり『宇佐八幡御託宣集』によると、神武天皇が退位した後に、八幡神を信仰するヒボコ族の景行天皇・神功皇后(明治維新までは天皇)・応神天皇らが皇位を継承します。

⇒全員が武内宿禰つながりですよねえ!つまり仕掛人は秦氏か?

 

◆これに先立ち、景行天皇(オオタラシヒコ)とその息子たち大碓・小碓が鹿児島に攻め入り、そこに居たクマソタケル(熊襲族の王様という意味)を殺害して、小碓が「熊襲歩兵隊」の隊長に就任し「ヤマトタケル」と改名します。

⇒大碓は広島で病死したので、のちに神武天皇として祀られたとするのが『宇佐家口伝』。

⇒確かに『古事記』でも、小碓ことヤマトタケルは「兄を殺害して簀巻きにして捨てた、云々」とある。

 

◆このとき景行天皇=ヤマトタケルの主力戦力は、

(1)朝鮮半島から渡来したヒボコ族の騎馬隊(八幡騎馬隊)と、

(2)鹿児島から参戦した熊襲族の歩兵の混成部隊でした。

⇒この組み合わせどこかで聞いたことありませんか?そうです「明治維新」のときの薩長同盟と全く同じ組み合わせですよねえ。つまり歴史は繰り返す?

 

◆景行天皇・ヤマトタケルに連れて行かれた熊襲族は、もともと人の好い九州人なのですが、心ならずも同族を虐殺するという残虐な行為を強制されます。

 

◆熊襲族は、過去のこの行いを深く反省し、のちに「ヒボコ族」に対して反乱を繰り返します。

 

◆そこで、神功皇后はかつて自分たちの仲間であった熊襲族を虐待し始め、大量虐殺を行います。

つまり使い捨てにした訳です、おお怖わ!

⇒『宇佐八幡御託宣集』によると、神功皇后は彼らの恨みを回避するため「放生会(ほうじょうや)」という行事を始める。つまり大量虐殺の大罪を他の動物の命を救うことにより軽減させるという仏教的な(景教的な?)おまじない。

 

◆逆に仲哀天皇は熊襲征伐には消極的だったので武内宿禰に暗殺されます。

⇒『宇佐家口伝』『八幡愚童訓』などが、この暗殺説を採る。

 

◆そしてこのあと、ヒボコ族から天皇が出たことにより、当時の皇室に対する社会的な批判を免れるため、もとは熊襲=隼人の混成部隊であった軍事組織のうち、半島から参加した朝鮮人傭兵たちに「隼人族」という名前を付けて、日本人ヒボコ族とは別の部族であることを強調しました。

 

以上の経緯から、もともと熊襲族と隼人族は別部族であったのに、のちに至るまで大混乱が続き、現在も解決されてない、というのが私の解釈です。

 


結び

それにしても、恐るべきかな神功皇后!

四つの部族を服従させ、利用すべきは利用し、切り捨てるべきは切り捨て、混乱の『倭国大乱』を終焉させて、あたかも女帝の如くに自分と自分の息子を崇拝させ、神にまで昇り詰めようとした凄まじいエネルギー!

 

このあと、息子の応神天皇が半島や大陸への門戸を開放して、日本国内は帰化人であふれかえります。

⇒私の過去記事『漢民族が大挙してやってきた3世紀!』参照。

 

さらに武内宿禰らによる宗教改革、歴史改ざんが相続き、暗黒の「古墳時代」が幕を開けます。

 

そもそも日本人は、外圧に関しては寛容といおうか、むしろ無頓着でした。

自分たちだけでは決して実現できない大変革を、外圧をうまく利用して具現化してきた“摩訶不思議な民族”であるということができます。

 

どんなに蹂躙されようが、どんなに略奪されようが、日本人が日本人であり続けることができる秘訣。

それは、聖徳太子のつぎの言葉に集約されています。

 

(そもそも日本人とは・・・・)

神代(かんよ)の旧事(ふるごと)を失はずして、

而も神鎮(ましますかみ)に事(つか)へまつりて、

神道(かんみち)を修(おこ)なふに在り。