奴国の女王ヒミコが倭国の大王になった!

『後漢書東夷伝』を読み込めば邪馬台国論争は終焉する。

いわゆる『邪馬台国論争』が、いまだに解決されていない最大の原因のひとつは・・・・

「倭国」「邪馬台国」「ヤマト国」「奴国」「女王国」の五つが混同されて、これを書いた中国人さえもゴッチャになっているのではないか?・・・・・という仮説です。

 

さらに、「王」と「大倭王」との違い、「卑弥呼」の定義についても、実にいいかげんな解釈が乱れ飛んでいることも否めません。

 

『後漢書東夷伝』を丹念に読み込んだ結果、私の結論を先に書くと、

 

卑弥呼は奴国(=九州)という小国の女王にすぎなかったが、

邪馬台国(=畿内)との抗争を解決するため、

両国が話し合って、

卑弥呼を統一日本国(=倭国)の「大倭王」にすることで合意した。

大倭王は、畿内の邪馬台国で即位し統治した。

 

そう書いてあるとしか思えないのです、私には!

 

つまり、「大倭王」としての実権は奴国の女王・卑弥呼が握るが、首都は邪馬台国(ヤマト国)に置く、という内容で合意が整ったのではないでしょうか?

 

もし、私の仮説が正しければ、「畿内説」も「九州説」もどちらも正しいという結果になり、いわゆる『邪馬台国論争』は終焉します。


東夷伝の記述を素因数分解すると


この仮説を証明するために、まず『後漢書東夷伝』に書かれた記述のうち、日本国とその王様に関連する部分だけを抽出して、私流に意訳してみました。

すると、こんな感じです。

 

『後漢書東夷伝』の記述内容

 

<最初は倭国全体について>

◆倭国は100余国に分かれており、そのうち30ばかりの国が漢に朝貢している。

◆その30国には、それぞれが居り、みんな正当性を主張している。

◆(このうち)「大倭王」は「邪馬台国」に居る。

⇒つまり100余国の王たちのトップである「大倭王(倭国の大王)」は、ヤマト国で即位して統治したという意味である。

 

<ここから奴国だけの話題>

◆建武中元二年(AD57年)に、「倭国」のうちの「奴国」が朝貢した。

◆ここは「倭国」のなかでも南の極みに位置する国である。

⇒明らかに九州のことを指している。

◆光武帝は、ここに印綬を賜った。

⇒いわゆる「漢倭奴国王」の金印のこと。

⇒漢に朝貢した30国のうち、奴国だけに言及しているのはいかにも不自然だが、この国から「大倭王」が出た重要拠点だからと考えられる。

 

<また話題は倭国全体に戻る>

◆桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、ヤマト国とナ国はお互いに攻撃しあって、ずっと大王が居なかった。

⇒いわゆる「倭国大乱(AD2世紀)」のこと。

◆卑弥呼という女性を、共に立てて統一国王とした

⇒この統一国王のことを、漢では「大倭王」と呼んだ。

⇒当然、邪馬台(ヤマト)国の王は大倭王とは別に居る。

 

<ここから奴国のことを女王国と呼ぶ>

⇒以降「女王国」という表現に変わるのは、作者が『魏志倭人伝』を参考に書いたので、自信が持てなくなり判断を放棄したものと考えられる。

女王国より東に海を渡ること1000里で、拘奴国がある。

(四国徳島のことか?)

女王国より南に4000里で、侏儒国がある。

(首里国=沖縄のことか?)

◆侏儒国より東南、船で一年の距離に裸国、黒歯国がある。ここまでは交流可能。

(フィリピンやタイのことか?)

 

もうわかりましたよねえ。

「邪馬台国」で即位した統一国王の役職名を「大倭王」といい、

「卑弥呼」は「奴国」の女王にすぎなかったが、

倭国大乱が発生したので、両国は話し合い、

【共に】卑弥呼を「倭国」の統一国王(=大倭王)とすることで合意した。

 

ここで、重要なのは【共立】という二文字。

⇒原文には「於是共立為王」とある。

 

「共立」とは、「どこかの国が単独で・・・」ということではなく、「お互いに合意して・・・」という意味であり、ほとんどの人がこの二文字を見逃しているのでは?

⇒ただし、その合意に参加した国は「ヤマト国」と「ナ国」の2国だけなのか、それとも100余国全てが合意したのか、どちらにも取れる。

 

いま私の言っていることを図解すると、こんな感じでしょうか?


奴国は九州のどこなのか?


以上のとおり、「邪馬台国」は「ヤマト国」であり、その存在場所は畿内の大和地方であったとすれば、

もともと卑弥呼が統治した「奴国」は、一体どこにあったのでしょうか?

 

私は、宮崎県の西都原古墳だと考えています。

そう、女狭穂塚古墳に祀られた被葬者こそ、卑弥呼だったのです。

⇒私の過去記事『邪馬台国のあった場所は西都原古墳!』参照

 

なぜ「福岡県」でもなく、「佐賀県」でもなく、「宇佐」でもなく、「宮崎県」なのかというと、『後漢書東夷伝』に書かれた下記の3つの記述に注目しました。

 

(1) 奴国が漢の光武帝に朝貢した時期

AD57年という説が有力ですが、この頃の日本の歴史を解説した古文書が残っています。

そう、それが私の研究する『ウエツフミ』。

その記述から・・・

◆この頃は、まさに第73代・ヒダカサヌが東征した時期で、「大分の佐賀関から出航して、関西のナガスネヒコと戦った」という記述は、「邪馬台国と倭国が戦った」という記述と完全に重なる。

⇒もしかしたらヒダカサヌは、漢(記紀ではニギハヤヒと表現された)に支援を求めるため朝貢し、のちにその後継者の女帝が「大倭王」になったのではないか!

◆ウガヤ王朝には女帝が多いこと。

◆ウガヤ王朝の本拠地は、阿蘇山⇒九重山⇒由布岳・鶴見岳を結ぶ“火山ライン”からだったこと。

◆この頃、福岡の中心集落は「オカダ」と呼ばれており、そんなに大きな街ではなかったこと。

◆さらに「佐賀」と「長崎」には全く言及しておらず、ウガヤ王朝の管轄外だったこと。

⇒ここは徐福一族の支配する土地だった可能性が高い。

◆天皇のことを「日嗣の御子」(アマテラスの血を引く正当な子孫という意味)と称しており、これが「卑弥呼」に変化したものと考えられる。つまり「ヒミコ」は役職名である。

 

(2)「犯法者没其妻子」という記述

つまり、「犯罪者の子供は取り上げられて、(矯正のために)他人の元で育てられる」という刑事罰。

これこそ『ウエツフミ』に描かれた「コトリオ」という、日向族だけの独特な法律(=カミヅテ)に違いなと判断できる。

 

(3) 奴国の周辺にある国々の記述

女王国より東に海を渡ること1000里で、拘奴国がある。

女王国より南に4000里で、侏儒国がある。

この記述から、女王国=奴国の東側と南側は海であったことが分かる。

残念ながら、「福岡県」も「宇佐」も、南側に海は無い。

特に、太平洋に面していることが重要であり、大漢帝国でさえも容易に近づけないような東南アジア諸国に渡るには、奴国⇒沖縄という補給ルートが必要不可欠だったことが分かる。


卑弥呼とは神功皇后のことか?


さてさて、九州から発祥して、次々と辺りの国を平定して、ついに西日本を統一した大女王様といえば、『古事記』『日本書紀』にも描かれた神功皇后のことを指しているのではないか?

・・・・と考えるのは、私だけでは無いと思います。

 

でも、私の最終結論は「No」です。

時期が全く違います。

 

私の結論を先に書いておきますと。

 

◆AD 57年 南九州の奴国の王・卑弥呼は、漢に朝貢して「漢倭奴国王」の金印を授かる。

⇒この史実は『後漢書東夷伝』に記録された。

◆AD238年 北九州の神功皇后は、自称「卑弥呼」と偽り、魏に朝貢して「親魏倭王」の金印を授かる。

⇒この史実は『魏志倭人伝』に記録された。

 

もうお分かりですよねえ。

卑弥呼は2人居た訳で、その生存時期にも約180年の誤差があります。

 

先の卑弥呼が本物の「日嗣の御子」であり、おそらくウガヤフキアエズ王朝・ヒダカサヌの後継者でしょう。

 

後の卑弥呼は、古の故事にならってどうしても天皇になりたかった、「ヒボコ族」のオキナガタラシ姫のことでしょう。

 

三韓をどうしても恭順させたかった神功皇后は、その背後に居る強大国・魏にまず挨拶して、自分を由緒正しい皇族として認めさせます。

 

まさか、「武内宿禰との不義密通により、7歳にして母国・新羅を追い出された、住所不定・無国籍のオキナガタラシと申します(宇佐家口伝による)。私を日本国の大王として認めてください。」とは、魏の皇帝に対しては口が裂けても言えなかったでしょうから・・・・。

 

このことを裏付ける証言や記述は多く残っています。

 

◆出雲王家の末裔・富家に伝わる口伝によると、神功皇后は新羅発祥の「ヒボコ族」の末裔で、残忍非道で多くの日本人を虐殺した。

◆記紀でも、神功皇后の異常なほどの日本の古代神信仰が語られている。豊玉姫にあやかろうと潮満珠・潮干珠を探させたり、神武天皇にならってカワラケで“戦勝祈願の占い”を行わせたり、宇佐神宮のご神体(本来は宗像三女神)と入れ替わったり・・・、と。

 

以上のとおり、『後漢書東夷伝』に登場する卑弥呼と、『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼は別人であり、多くの学者や専門家たちが、この二人を同一人物だと誤認したのが悲劇の始まりだと思います。

 

しかし、ここからもうひとつの悪夢が始まります。

 

「卑弥呼」を語った神功皇后は、おそらく魏の支援を取り付けるために、交換条件を提示したのでしょう。

それが、「日本国内の領土割譲と漢民族の大量受入れ」

⇒私の過去記事『漢民族が大挙してやってきた3世紀!』参照。

 

これにより、なんとか「大倭王」に即位できた第15代・応神天皇は、「外国人の受入れ」という禁断の扉を開くことになります。

そして「古墳時代」という、古代日本の国際化が幕を開けたのでした。

 


結びにかえて


以上、どうでしたか?

 

3世紀に書かれた『魏志倭人伝』

のちの5世紀に書かれた『後漢書東夷伝』

⇒記述対象の時期と、それを記述した時期が、逆転していることに注目!

 

それぞれの記述内容が食い違っているとすれば、それはあとから書かれたものが、先に書かれたものを参考にしたということであり、さらに精度を増したと考えるほうが自然です。

 

いずれにせよ、両者の記述には、それぞれの王朝の思惑が入っており、それぞれの作者の勘違いもあり、これにより日本の歴史学者が振り回されているとすれば、憂慮すべき事態です。

 

私の最終結論をもう一度書いておきましょう。

 

奴国の女王ヒミコが倭国の大王になった!

その180年後に登場した神功皇后も、ヒミコと名乗って自分の正統性を魏に主張した。

 


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コメント: 3
  • #1

    ウサ (水曜日, 11 10月 2023 23:10)

    三輪山の奈良県桜井周辺が魏志倭人伝に記載されている邪馬台国です。卑弥呼とは外国人が日本の皇族に使える巫女の蔑称であり役職名で総称であり、何代も近畿の地で仕えています。卑弥呼の墓は著墓古墳です。後漢書東夷伝の信憑性は、はてなです。うえつふみも。あしからず。

  • #2

    釋 正善 (金曜日, 26 1月 2024 22:20)

    卑弥呼は、中国の卑姓ではと思っています。初代からの天皇は、記紀の小説の様に作りものと思っています。熊襲は、中国楚の羋姓熊氏と思っています。Y染色体DNAを見ていきましたら、子孫はそれぞれそのような感じです。天照も天武天皇の時代からであり、架空の神としているようです。どうも、大唐武則天の時代からの名称ですので、つくり話と思います。九州には、多くの豪族がいたようですし、奈羅又は奈良は、河内湾から大和川上流に於いて百済関係と後漢劉氏の末裔が発展させ、堺方面は騎馬民族鮮卑の支配であったように思います。倭国のほとんどが、渡来人による国造りであったと思います。墳墓の発掘が、多くの国民が政府に訴えて早急に行う事が重要と思われます。宜しくお願いします。

  • #3

    高橋 (金曜日, 08 3月 2024 22:32)

    単純に文字を見ていました。
    倭 人偏にノ木女
    ノ木は「幣」それを女性が奉じている。
    倭の文字自体が 巫女が納めている(あるいは 首長に立っている)国だと
    解している名前だと思えます。
    すると (女性が納めていた)という説がなりたち
    それが「ひみこ」であったという説が有力になってくる
    と、思います。

    熊襲 熊(くま)と読む文字に(前)があります。
    襲(そ)は 祖 (もともと住んでいた住民・部族)と考えてみると
    前祖(くまそ)征伐と書いてしまうと 先住民を追いやろうとしているとわかってしまうため
    別文字をあてはめた気がします。