百済の製鉄には日本の木炭が不可欠だった!

ある日、『真名野長者伝説』をなにげなく読んでいると、ある一文に目が釘付けとなりました。

 

そこには、『百済国でもっと鉄を増産するためには、燃料となる木炭が必要不可欠なのだが、朝鮮半島の山には木が少ないので、それがネックとなって増産できない』と書かれていたのです。


真名野長者と龍伯の出会い

飛鳥時代に、大分県三重町に生まれた炭焼き小五郎は、仏教がとりもつ縁で、百済国の貿易商・龍伯と親しくなります。

のちに真名野長者と呼ばれた小五郎は、当時わが国では希少だった鉄を、奈良の都で売りさばいて莫大な財産を築きます。

その仕入れ先であったのが百済人の龍伯。

まさにこの2人が二人三脚となって、日本と百済の間の貿易をさかんにして行ったのです。

 

小五郎は「もっと鉄が欲しい。いくらでも売れるぞ!」と要求しますが、これに対する龍伯の答えが冒頭の一文です。

つまり鉄鉱石の増産だけでは頭打ちなので、木炭の入手先が重要だというのです。

大分県の深い山の中で7歳のときから炭焼きを本業としてきた小五郎にとって、龍伯が要求する「品質の良い炭」を供給することは、まさに“朝飯前のお茶の子さいさい”でした。

 


そもそも製鉄とは?

ご存知のように、鉄鉱石を溶かしてドロドロの銑鉄の状態にするには1,500℃という温度が必要です。

現在では、コークスという(精錬されて炭素の純度が高められた)石炭が使われますが、石炭であろうが木炭であろうが炭素(元素記号=C)の純度が高ければ、燃えやすく高温を発する良い燃料となり得るのです。

 

一般に、木炭の燃焼温度は1,200℃が限界といわれていますので、炭焼き小五郎が高温を発する木炭の作り方を知っていたのか、あるいは百済国の酸素供給技術(これがいわゆるタタラです)が優秀だったのか、今では証明できませんが、いずれにせよこの2つの技術が結合しなければ、日韓両国の経済発展は生まれて来なかったのです。

 


歴史は繰り返す

歴史家はよく勘違いします。

「当時の日本は後進国だったので、大陸や朝鮮半島から最先端の技術が持ち込まれた」のだと。

実体はそうではありませんでした。

強大国だけが一方的に弱小国から搾取するという経済モデルは長続きしません。

お互いの強み同士を持ち寄って、さらに強大なモデルを作ること、それこそが持続可能で最適なシステムなのです。

 

近年になっても、日本の工業技術と中国の安い労働力が結合して、安価で良い商品が大量に供給されて、アジアの経済発展を支えてきたことは、欧米諸国からみれば脅威だったのでしょうね、多分。

 

真名野長者と龍伯。

国籍も、人種も、生い立ちも違うこの2人が、たんに経済的な利益だけで結ばれていたとはとても思えません。

 

そういえば、2人の間にあった共通認識とは「山王信仰」でした。

山王神は「天竺、唐土、日本の統一」を説いていたのです。

だから天皇家ににらまれてスサノオ信仰に差し替えられました。

 

もしかしたら、現在マスコミが統一教会を徹底的に攻撃しているのは、アジア融合の核となり得たかもしれない思想体系をぶっ潰そうとしているのでは・・・・?

 

ナショナリズムとポピュリズム、いま私たちはこの難しいテーマに直面させられているのかもしれません。