6月は八坂神社で新型コロナ退散祈願

牛頭天王の正体?

八坂神社
八坂神社公式サイトより転載

牛頭天王について調べていたとき、たまたま京都八坂神社に伝わる【疫病祈願】に関する古文書が出てきました。

もしかしたら新型コロナにも効くのではないかと思い、みなさまにもお知らせしておきます。

『祇園牛頭天王御縁起』によると、江戸時代まで庶民のあいだでは、下記のような方法で疫病平癒の祈願が行われていたのです。

 

◆京都八坂神社に祀られている牛頭天王に

◆6月の1日から15日までの間

◆毎日7回、下記の呪文を唱えると

「南無天役神 南無牛頭天皇 厄病消除 災難擁護」

◆厄病の難から逃れることができ、息災安穏で、寿命も長くなる。

◆もし不信の輩があるならば、たちまち天王の御罰を被って、疫病を発症すること疑いなし。深くこのことを守るべし。

【原文】https://blog.goo.ne.jp/gozutennou/e/bcec8c2a67b19fbe94ac06cbdff681c7

 

現在の京都八坂神社の公式行事予定を調べてみても、6/1~15日の間はスケジュールが満載です。

【公式サイト】http://www.yasaka-jinja.or.jp/event/

 

つまり、八坂神社が疫病退散にご利益のある聖地として、現在でも庶民たちから絶大な信仰を集めていることが分かります。

 

もちろん、「これは単なる迷信に過ぎない」と考える方も多いかと思いますが、牛頭天王の正体を調べてゆくうちに、そこには、それなりの理由があることが分かってきたのです。

 


もともとはお寺だった祇園社

「八坂神社」は、もともと仏教にもとづくお寺で、「祇園社」と呼ばれていました。

これを、神仏分離令を出して「八坂神社」に改名させたのは、明治政府ですよねえ。

【公式サイト】http://www.yasaka-jinja.or.jp/about/

 

そして、その「祇園社」のご本尊とされていたのが牛頭天王であり、その正体を調べてゆくうちに、下記の事実が判明してきました。

 

◆牛頭大王とは、少なくとも平安時代の末期までは、【薬師如来】のことであった。

◆祇園祭とは、古代インドの「祇園精舎」で行われてきた祭りであり、それが東南アジア経由で日本にも渡来した。

◆比叡山に鎮座していたのは、「医王」としての【薬師如来】と、その守護武神である山王神こと【大威徳明王】であった。

 

それが、なぜ現在は「牛頭大王とはスサノオのことである」とされているのでしょうか?

単に「お寺から神社に変わったから」という理由だけではないようです。

 

私は宗教人でもなければ、歴史家でもないので、あえて私なりの勝手な解釈をご披露すると、時代とともに下記のとおり変遷してきたものと思われます。

 


平安京の鬼門を守る比叡山

まず、大切なことは京の都の鬼門はどこか?ということです。

地図を見てください。

鬼門とされる東北の方角にあるのは比叡山ですよねえ。

 

そして、八坂神社の神殿は、この比叡山を拝む方角に建てられています。

(現在の社殿はやや北向き)

つまり、比叡山こそが八坂神社の本宮であり、ここが平安京を鬼神・悪神から守ってくれているということになります。

 

この「鬼門の方角に何の神様が鎮座するのか?」ということは、ときの権力者にとっては重要な死活問題となってきます。

 


平安時代の祇園社とは?

平安時代までは、この比叡山に鎮座していたのは、衆生の疾病を治癒して寿命を延ばす【医王】こと別名【薬師如来】と、その守護武神(12神のうちの一人)であった【山王神】こと別名【大威徳明王】だったことは、下記の事実が証明しています。

 

<証拠その1>

まず、先に登場した『祇園牛頭天王御縁起』。

その原文を読み返してみると、冒頭にこう書かれています。

「浄瑠璃の教主十二の大願ををこし 牛頭天皇とあとをたれ給ふ・・・」

 

「浄瑠璃の教主」とは、薬師如来の別名で、瑠璃色の光を出して人々を救済に導くことから来ています。

「十二の大願」とは、薬師如来が示した「十二誓願」のことです。

【参考】http://kyonoreijo.sakura.ne.jp/lib/kg/libkg12dg.htm

 

つまり、この縁起では「薬師如来が牛頭天王として垂迹したので、その由来を記す・・・・」ということなのです。

 

薬師如来と牛頭天王との関係ですが、「極楽浄土にいらっしゃる薬師如来が、あるとき豊饒国という国に、人間として生まれ変わった。それが牛頭天王という実在した王様であり、さらにそれを助けたのが蘇民将来という人物であった。」と、この縁起では説明されています。

 

<証拠その2>

もうひとつの証拠は、なんと『平家物語』にありました。

 

巻第ニ『山門滅亡』のなかには、平安時代には隆盛を極めていた比叡山と天台宗が、あわれなほど荒廃して衰退してゆく様子が生々しく綴れています。

そこでは、「山門」と呼ばれていた比叡山の年中行事であった、毎月8日の薬師如来の縁日と、山王神が神として現れた4月の行事とが、ともに「幣帛を捧げる人は誰も居なくなった」とあり、まさに末法の世の中であると嘆いています。

【出典】http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/heike/02/1302.html

 

なぜ、薬師如来と山王神がペアで祀られることが多いのか?というと、山王神が薬師如来を守護する十二武神のひとりだからです。

特に山王神は、大分県の三重町に降臨したとき「我は天竺・唐土・日本の三国を守護する大王である」と宣言しており、十二武神のうちでも日本国を担当している神様だからなのです。

⇒詳しくは、こちら

 

さてさて、混乱してきた人も多いと思いますので、ここで薬師如来・牛頭天王・山王神の関係を【一覧表】にしてみました。

添付の画像を見ていただければ、複雑な関係が一目瞭然となってくると思います。


山王信仰からスサノオ信仰へ

『平家物語』を詳細に読み返してみると、前半のほとんどが「比叡山(天台宗)」と、「興福寺(藤原氏)」との宗教対立の記述が中心となっています。

 

そのきっかけは、二条天皇が亡くなった時に「額打論」という事件が起きて、延暦寺と興福寺の対立が始まります。

 

当時は、天皇の御墓所に「額」を掛けることができるお寺、つまり天皇家公認のお寺が4つありました。

1.東大寺・・・・聖武天皇が請願したお寺なので誰しも認める第一順位

2.興福寺・・・・藤原不比等が請願したお寺であり藤原氏の菩提寺

3.延暦寺・・・・興福寺が奈良にあるので、京都を代表する寺として

4.園城寺・・・・天武天皇の請願による寺なので

 

ところが、このとき延暦寺が先例を無視して2番目に額を掛けてしまったため、興福寺の僧侶が怒ってこの額を切り落としてしまいます。

 

この事件を契機として、「延暦寺とその末山である白山(越の国)」 vs 「興福寺とその末寺である清水寺」の派閥抗争が激化し、ここに天皇家や源氏・平氏の意向も加わって、まさに大混乱の「末法時代の様相」を呈してきます。

 

さらにこの対立を激化させたのが、後白河法皇が、比叡山の天台座主である明雲大僧正を解任して伊豆国に流した事件です。

つまり、天台宗と藤原氏の争いを決着させるため、天皇家が後者を支持してしまったことになります。

 

正確な記録は残っていませんが、比叡山との権力闘争に勝利した藤原氏(興福寺)が、比叡山のご祀神を大山咋神と大物主神に入れ替え、さらに牛頭天王の正体をスサノオに入れ替えてしまったのではないか?という仮説も成り立ちます。

 

そもそも、なぜこのような宗教対立が起こってしまったのでしょうか?

そのヒントは、意外なところから出て来ました。

 


八坂神社のご神紋が意味するもの

まず添付の画像をご覧ください。これが八坂神社のご神紋です。

2つの家紋が重なり合うという、全く珍しいご神紋となっています。

 

これを見ていて、ハッと気づきました。

 

その意味するところは、

「2つの信仰体系が合体して、ひとつになろうとする姿を表わしているのではないか?」ということです。

 

「三つ巴紋」は、比叡山を中心とする祇園信仰の象徴

「木瓜紋」は、スサノオのご神紋であり神道としての象徴

 

フムフム、これで複雑な「八坂神社」の成り立ちが紐解けたような気がします。

 

しかも、それぞれを信仰する2つの勢力が背後に見え隠れしています。

この2つの勢力とは?

ひとつは藤原氏であることはもうお分かりでしょう。

もうひとつの勢力について説明するためには、「大化の改新」にまで遡る必要があります。

 

とても長くなるので、また章を改めることとしますが、あとは「個人の信仰」の問題であり、どちらが正しくて、どちらが間違っているという問題では無いということです。

 

ある意味、明治政府が「神仏分離令」を出して、この2つを完全に分けようとしたことも正しかったのかもしれません。

 

ただし、6月に「疫病祈願」をされるときは、その背後に隠れている薬師如来を思い出していただいたほうが賢明です。

なぜなら、スサノオが病気を平癒してくれるという伝承は、聞いたことが無いからです。