臼杵石仏に隠された蘇我一族のメッセージ

それは真名野長者の宗教観を表現した壮大なテーマパークだった!

何からお話ししましょうか?

とんでもないものを発見してしまいました。

 

先日、フランス人のお客様を「臼杵石仏」で有名な「深田の里」に案内したときのことです。

ちなみに、ここです。https://sekibutsu.com/

 

無料のボランティアガイドさんが付いてくれることになったのですが、フランス人はフランス語しか理解できないのに、私は片言の英語しかしゃべれず、ガイドさんは日本語で説明してくれるという、全くチグハグな状況になってしまいました。

私の拙い通訳は全く通じていなかったようで、そのうちにフランス人は退屈してしまい、竹林の前で記念写真を取り始めました。

 

最後には、お客様そっちのけで私一人がトランス状態になり、ガイドを相手にベラベラしゃべり続けていると、突然、真名野長者のメッセージが下りて来たのです。

「ここが、何のために造られた、何の場所なのか?」

私の脳裏に、鮮明な画像が、まるで走馬灯のように蘇り始めました。

 

この場所こそは、真名野長者の宗教観を精密に再現した、壮大なテーマパークだったのです。

ひとことでいうと・・・・

「神仏習合」「アジアの平和」「山王信仰」「究極の理想社会=極楽浄土」の4つの重要なテーマが隠されています。

 

もしも、私が常日頃から主張しているように、真名野長者こそ蘇我稲目であるとするならば、蘇我氏が滅ぼされた理由までもが明確になってきました。

 


深田の里とは真名野長者が造った“祇園精舎”である

まず、この臼杵石仏と真名野長者との関係ですが、それは三重町に伝わる『内山記』のなかに詳細に記されています。

 

かいつまんで説明すると・・・・、

◆真名野長者の一人娘は大層な美人でしたが、お忍びで大分までやってきた用明天皇に見初められ、二人は結婚することになりました。

◆そこで真名野長者は、新婚カップルのための新居として、ここ「深田の里」を造営したのです。

◆しかし、2人の幸せな蜜月時代は長続きしませんでした。用明天皇は、生まれた子供の聖徳太子を連れて、親子三人で奈良の都に帰ってしまいます。その途中で、聖徳太子の母親・般若姫が命を落としてしまいます。(この部分は藤島説)

⇒詳しくは、こちら

◆あとに残された真名野長者夫妻は、ここを自宅とし、三重町の内山観音のある場所から引っ越してきました。つまり、ここが長者夫妻の新居となったのです。

 

その頃、真名野長者のもとには百済国からやってきた蓮城法師を始め、出身地が不詳の豊国法師(用明天皇の病気を治療しようとした)など、中国や朝鮮半島から続々と高僧たちが詰めかけており、この「深田の里」こそが、世界のなかの仏教の聖地、つまり【祇園精舎】となったのです。

 

ここで、ちょっと説明が必要ですが、もともと【祇園精舎】は、お釈迦様が生まれたインドとネパールの国境付近にありました。

ところが、ここは隣国コーサラ国の毘瑠璃王に攻められて、仏教を守護する釈迦族は国を追われます。

彼らは、お釈迦様の遺骨である【仏舎利】を持って、アジア各地を転々とし、いったんは百済国に【祇園精舎】が置かれることになりました。

ところが、朝鮮半島の動乱によりここも長続きしませんでした。

そこで、百済の高僧たち(釈迦族の末裔)は日本に移住し、深田の里にお釈迦様自身が自ら刻んだ持仏をご本尊として、ここを新たな【祇園精舎】と定めたのです。

 

 

大分県豊後大野市三重町に伝わる『内山記』
大分県豊後大野市三重町に伝わる『内山記』

これは私の説ではなく、『内山記』にそう書いてあります。

つまり6世紀には、こここそが世界の仏教の中心地であったということです。

そして、それはインド⇒中国⇒百済⇒大分(臼杵)というルートで日本に入ってきました。

 

このルートは、のちに重要になってきますので、よく覚えておいてください。


その仏教思想の中心にあったのが山王信仰である

本論に入る前にもうひとつ、真名野長者と【山王神】との関係について理解しておく必要があります。

『内山記』と同じく三重町に伝わる『内山山王宮縁起』によると・・・・

 

◆山王神が三重町の内山に降誕したのは、西暦319年7月のこと。(仁徳天皇の時代)

◆それは、村人に大飢饉の到来を告げるためであった。

◆山王神は、自分自身のことを「三千年間修行して成仏した猿の化身である」と述べ、また「我こそは、天竺・唐土・日本を守護している山王神である」と語っている。

◆さらに、山王神は

「今から150年後に(実際は508年)、ここに一人の長者が生まれ来る。そのものは今は唐土百済国竹林山の麓に住まう柴守長者である。七宝万宝に満ちて自由自在に振る舞い、殺生を楽しみとしている・・・・」

とあり、前世の罪を悔い改めるために日本に転生して仏教の導入役となるであろう、と予言しています。

 

つまり、真名野長者は山王神が日本に呼び寄せた「使者」であり、当然、真名野長者は山王神を深く信仰していました。

あるいは、真名野長者こそ山王神の生まれ変わりだったのかもしれません。

なぜなら、二人ともインド⇒中国⇒朝鮮半島のルートで日本にやって来ているからなのです。

 

ちなみに『内山山王宮縁起』によると、この山王信仰こそが、のちに「庚申信仰」と呼ばれるようになります。

全国各地にある【庚申塚】は、農業と牛馬の守護神である山王神を祀るためのものだったのです。

この点、猿田彦を祀る【道祖神】信仰とは明らかに別物なので、混同しないように注意が必要です。

 

さてさて、前置きが長くなりましたが、深田の里に隠されたメッセージを理解するためには、どうしても必要な情報なので、ここまでおつきあいいただきました。


仏像の配置から読み解く隠されたメッセージ

「臼杵石仏」には、約60体もの仏像が配置されています。

それがすべて、意味ある場所に、意味のある状態で、意図的に配置されているのです。

 

まず、「臼杵石仏」は、下記の4つのゾーンで構成されており、これらを順番に参拝してゆく「巡回ルート」となっていることに注目してください。

つまり、この順番に見てゆかなければ意味が分からないということです。

 

(1)ホキ石仏第二群

 ↓

(2)ホキ石仏第一群

 ↓

(3)山王山石仏

 ↓

(4) 古園石仏

 

⇒詳しい配置は、こちらから。

https://sekibutsu.com/about

なぜ、これらの4つのゾーンを順番に見てゆく必要があるのでしょうか?

 

その答えは、「ホキ石仏第一群」のなかにある、明らかに中国人風の仏像を見たときに、ピンと来ました。

「なぜここに中国人が?」

この素朴な疑問こそが、全てのメッセージを解明する重要なヒントだったのです。

 

それでは、その答え合わせをしてゆきましょう。


仏教テーマゾーンの4つのメッセージ

(1)ホキ石仏第二群----「神仏習合コーナー」

ここには、「阿弥陀三尊像」「九品の弥陀」という2つのコーナーがあります。

そしてこれこそが、初めて仏像を目にする日本人のために、「仏様と日本古来の八百万の神々は一心同体である」ことを説明するための「神仏習合コーナー」だったのです。

 

まず、「阿弥陀三尊像」

その超日本人的なお顔を見ていると、どうしてもこれが「天照大神、月読命、スサノオ」の三兄弟のお顔に見えてしょうがないのです。

まるで、「仏を拝むことは、神道の教義に反することではありませんよ」と釈明しているようです。

 

とするならば、その右脇にある「9体の仏像」とは、日本の著名な神々であり(どの仏像が何の神様に該当するのかは不明ですが)、八百万の神々の仏教的な表現であるということになります。

(2)ホキ石仏第一群----「アジアの平和コーナー」

ここには、4種類の「三尊像」が並んでいます。

しかも、その仏像の配置も、着ている衣装も、お顔の特徴もバラバラです。

なぜ、ここでは仏像を、全く異なる4種類の表現方法で、繰り返し見せる必要があったのでしょうか?

 

もうお分かりですよね。

ここは、当時日本と緊密な関係にあった諸外国、すなわち「中国」「百済」「高句麗」「新羅」の4つの国に伝わる仏教を、それぞれ視覚的に表現したコーナーだったのです。

おそらく、一番右側が「中国の仏教」(誰が見てもこれは中国風)、左から二番目の一番大きい仏像が「百済の仏教」(ガイドさんがそう解説してくれました)、その他が(どちらかは特定できませんが)「高句麗の仏教」と「新羅の仏教」だったのでしょう。

あるいは「インドの仏教」なのかもしれません。

 

つまり、アジアの4つの国が、仏教を通じてひとつになることを暗示しています。

 

そして、この3体×4組=12体の仏像の視線の先にあるのが、【山王神】なのです。

つまり、【山王神】の偉大なるお力でアジアがひとつにまとまることを教えています。

(3)山王山石仏----「山王信仰コーナー」

その山王神ですが、どこかにお猿さんの面影を残したままのおだやかな笑顔で、4か国の仏像をながめ下ろしています。

つまり、「我こそは天竺・唐土・日本の守護神である」と訴えているようです。

 

そして、これには気づいた方は少ないと思いますが、この山王神の石仏の背後には、「山王神社」が建てられています。

つまり山王神の石仏と山王神社のお社とが、背中合わせの表裏一体で配置されているのです。

これこそが、神仏習合を初めて教えた山王神の、最大の教義だったのでしょう。

 

さらに、その山王石仏の両脇には、男性らしい脇仏と女性らしい脇仏が2体鎮座しています。

これこそが、真名野長者と、その奥方・玉津姫ではないでしょうか?

 

このことをガイドさんに確認すると「玉津姫は気難しい人だったので脇を向いている」というコメントです。

つまり、私の推測が「当たった」ということでしょうか?

(4) 古園石仏---「極楽浄土コーナー」

そして、山王神のお導きにより、アジア諸国がひとつになったとき、その先にやっと究極の平和社会である【極楽浄土】が登場します。

 

それこそが人類の最終目標であり、それが実現した時に初めて姿を見せるのが、全知全能の仏である【大日如来】なのです。

 

この場所からあたりの景色を見回すと、もともとは大きな池であった平地【彼岸(ひがん、向こう岸、対岸)】が目に飛び込んで来ます。

その池の中には蓮の花も咲き乱れています。

つまり、仏道に精進(しょうじん)して煩悩(ぼんのう)を脱し、涅槃(ねはん)に達した人だけが目にすることができる究極の境地を表現しています。

 

そして、その対岸にあるのが「満月寺」。

ここは、自分が苦しんできた過去の【現世】があった場所なのです。

 

以上が、私の意識の中に降りてきた真名野長者からのメッセージです。

今度、この深田の里にある「臼杵石仏」を訪れる際は、ぜひ参考にしてみてください。


これを造ったのは一体誰なのか?

こんな凄いテーマパークを企画して、実現させることが出来たのは一体誰だったのでしょうか。

単なる、“田舎者のにわか成金”では無かったことは間違いありません。

 

私が力説しているように、真名野長者こそ蘇我稲目であり、その孫が聖徳太子だったとしたら?

⇒詳しくは、こちら

 

長者の財力と、聖徳太子の知力がみごとにマッチングして、わが国最古で最大の「仏教テーマパーク」が実現したのでしょう。

そこには、百済国を始めとする諸外国の力添えがあったからこそ、インターナショナルな【祇園精舎】が、臼杵の深田の里に突如として出現したのではないでしょうか?

 

そして、彼ら蘇我一族が目指したのは、「天皇の座を狙う」というようなチンケな野望ではありませんでした。

いわば、「アジアの統一」を目指したのであり、「山王神を頂点とするアジア・ワンワールドの実現」へと向かっていたのです。

この大胆な目論見こそが、中国や朝鮮半島を怒らせ、そして天皇家の妬みを招いて、一族の滅亡へとつながってゆくのです。

 

そして、それからさらに約150年後、聖武天皇による「仏教を国教にする」という大胆な決断は、この蘇我一族、とりわけ聖徳太子の遺志を継ぐものでしたが、そこにはもはや山王神のお姿はありませんでした。

つまり、天皇家の信仰する「盧舎那仏」を中心に、奈良の東大寺や各国の国分寺となって、全国津々浦々にまで仏教が普及してゆきます。

 

さらにいうならば、秦氏はこのアイデアを参考にして、宇佐の地に自分たちの信仰する【八幡神】を中心とするテーマパークを造りました。

 

これらの宗教対立が、ゴチャゴチャになって現在まで続いているというのが実情であり、その意味で、人類は少しも進化していません。

 


結びにかえて

ふと気が付くと、フランス人たちは動物や植物に夢中で、今度はアマガエルを見つけて大喜びです。

「いつの日か、この人たちにも本当の意味が理解できる日が来るだろう。そうしなければならない!」

 

言語の壁、人種の壁、宗教の壁、国境の壁、これこそが仏の与えた最大の試練なのであって、それを今から1500年前に、いち早く読み解いた蘇我一族こそ、真の先達(先駆者)と呼ばれるべきではないでしょうか?

そして、そのメッセージを今でも直接目にできる私たち日本人には、重要な使命が課せられているのです。