五瀬の命を殺害した犯人の正体

去る5月8日は、神武天皇の兄である五瀬の命(彦五瀬命)の命日でした。

このお方を祀る和歌山県の「竈山神社(かまやまじんじゃ)」では、現在でも「雄誥(おたけび)祭」の神事が行われているのですが、その由来が正しく伝わっていません。

【報道記事】https://www.sankei.com/west/news/180509/wst1805090019-n1.html

 

一体、五瀬の命は末期に際して何を叫んだのでしょうか?

そして、皇室のプリンスを暗殺した犯人の正体とは?

今回は『ウエツフミ』の記述から、この事件の詳細を解説しておきます。

事件の経緯

そもそも『神武東征』は、神武天皇が主人公のように誤解さていますが、そうではありません。

皇族で一番最初にナガスネヒコ(長脛彦)の土地に足を踏み入れたのは、兄の五瀬の命であり、この方が殺害されたことにより、皇軍と長脛彦軍の全面戦争へと発展してしまうのです。

 

そして、『ウエツフミ』には、この五瀬の命の辞世の言葉が記録されています。

多分、古事記や日本書紀が意図的に削除してしまったその言葉とは・・・・

 

「憂きかも 賎き奴が傷を負イて そを酬わで 生命罷らにヤ」

と云て 雄叫びて神去りたまイき

 

つまり現代語訳すると

「悔しいことだ 卑怯な奴らに傷を負わされ それに報いることもなく 命を落とすとは!」

と、雄たけびを上げて息絶えてしまいました。

 

このときの雄たけびが、現在まで「竈山神社」の「雄誥(おたけび)祭」として伝わっているのです。

【個人のブログ】https://ameblo.jp/katagiri-akihiro/entry-12460975891.html

 


五瀬に止めを刺した名草トジとは?

それでは「卑怯な奴ら」とは、一体誰のことだったのでしょうか?

それは、ずばり名草一族のことです。

この部分も、古事記や日本書紀は見事に削除してしまっています。

その理由は最後に分かりますが・・・・

 

ナガスネヒコ軍の放った矢を二の腕に受けてしまった五瀬の命は、重傷を負いながらも名草村まで逃げ延びてきて、この村の村長の家にしばらく滞在します。

この村長こそが、ナガスネヒコと通じていたのです。

 

弥生時代には、村長は「トジ」と呼ばれており、ウエツフミには「名草トジ(または名草トベ)の家に泊まった」と書かれています。

ウエツフミによると地方の族長は、その住民人口の大小により下記のとおりランク付けされていました。【出典】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=17&sno=11&lnox=23
◆大きな国の首長は、タケル(現在の県知事クラス)
◆小さな国の首長は、クズ(現在の市長クラス)
◆サト国の首長は、サトジ(現在の町長クラス)
◆ムレ国の首長は、トジ(現在の村長クラス、なお女性の場合はトベと呼ばれた可能性が高い)
◆小さいムレ国の首長は、スグリ(現在の自治会長クラス、なお住民のことをムレ子と呼ぶ)
ということは、「名草トジ」はせいぜい100人~1000人位の村の首長だったようです。

 

ここで、五瀬の命は腕の傷を薬で治しながら、何日か宿泊していましたが、ある日夕食のときにお酒を勧められます。

これに酔って気持ちよく眠ってしまった五瀬の命ですが、これこそがワナだったのです。

 

翌朝、小雨降りしきるなかまだ真っ暗なうちに、今こそチャンスとみた名草トジは、一族郎党をかき集め、わずか5騎の五瀬の命一行を闇討ちします。

5騎は善戦しますが、しょせんは「多勢に無勢」、全員が討ち死に。

 

そして五瀬の命は、丹波の国の多紀郡から裸馬で駆け付けた神武天皇(ヒダカサヌ)の腕の中で、上記の雄たけびを発して息切れるのです。

 

ぜひ下記の原文でお読みください。

【出典】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=37&sno=9

 

これで、「卑怯な奴らだ」「悔しい」と叫んだ五瀬の命のお気持ちが分かっていただけたでしょうか?

当時の日向族にとっては、このようなやり方は「武士道に反するもの」として、厳しく禁じられていたのです。

⇒詳しくは、こちら

 

それをあえて犯すのですから、彼らは当然日向族でもなければ、ましてや日本人ではありませんでした。

話は反れますが、こんな卑怯な手段を使って勝った人物は、私はあと一人しか知りません。

それがヤマトタケルなのですが、今はあまり詮索しないことにします。

 


地元伝承が伝える別のストーリー

ところが、和歌山県に伝わる民間伝承では、全く逆のストーリーが伝わっているのです。

 

要約すると、

◆名草村は、名草戸畔(または名草姫)と呼ばれる女王が統治しており、平和な良い村だった。

◆ここに突然、神武天皇が攻めてきた。

◆彼は卑怯な手を使って名草姫を滅ぼし、その遺体を三つに切り刻んで、3カ所の神社に祀らせた。

【参考】https://wakayama.mypl.net/mp/ichioshi_wakayama/?sid=37590

 

えーっ、これはどういうことでしょうか?

まるで、神武天皇こそが全くの侵略者であり、悪の化身のように語り継がれているではないですか!

 

しばらく悩んだ私は、彼ら外国人勢力の巧妙な情報操作に気づいたのです。

皆さんもよく考えてみてください。

ヒントは、「五瀬の命はなぜここに宿泊したのか?」にあります。

 

そうですよねえ、五瀬の命は名草姫を完全に信頼していたからこそ、ここに泊まったのです。

でも、なぜその名草姫が、手のひらを反すように裏切って、反乱の狼煙を上げたのでしょうか?

つまり、別人がスリ替わったとしか考えらません。

 

要するに、こういうことになりませんか?

◆平和な名草村に、突然、神武天皇と称する外国人が攻めてきた。

◆彼らは、名草姫を殺害して、自分たちが入れ替わり、五瀬の命の到着を待った。

◆何も知らない五瀬の命は、まだ味方の名草姫が生きているものと思い込み、安心してここに泊まった。

◆そして、事件は起こった。

◆のちに、この神武天皇と称する外国人勢力が政権を握ってしまったため、事実は完全にウヤムヤにされ、まるで日本人同士が争ったかのように伝えられた。

 

ということは、神武天皇ことハツクニシラスと、日向王朝出身のヒダカサヌとは、全く別人であるという結論になります。

 


ニセ名草一族は紀氏になった

ウエツフミには「名草トジの家に泊まった」としか書かれていないので、一体誰のことが分からなかったのですが、つい最近「ニセ名草姫」の正体が判明しました。

 

それを解くキーワードが、「日前(ひのくま)神宮・國懸(くにかかす)神宮」だったのです。

【参考】http://hinokuma-jingu.com/jingu.html

 

そのご由緒によると、

◆名草トジとは、名草彦と名草姫の夫婦のことであり、「中言(なかごと)神社」に祀られている。

◆その祖先は、天道根命(あめのみちねのみこと)であり、初代の紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命された。その第5代目が名草彦と名草姫である。

◆これがのちの紀氏(きいし)の祖先である。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ki_kokzo.html

 

さらに、この紀氏に関連する有名人物として、崇神天皇(第10代)や武内宿禰、アメノヒボコらの名前が出てきます。

 

さてさて、ここにあまり聞き慣れない「天道根命(あめのみちねのみこと)」という人物が登場しますが、この人物が何者かが分かれば、名草一族や紀氏の正体も明確になってきます。

 

そもそもおかしいと思いませんか?

皇室のプリンスであった五瀬の命、それを殺害した張本人がぬくぬくと生き延びて、神となり、紀州の国の国司を命じられるという大矛盾。

いったい誰が国司に任命したというのでしょうか?

 

結論から先に言いましょう。

これこそ、ニセ忌部氏の名を語り皇室に近づいてきた、徐福の一族であり、里帰り系ユダヤ人と断定してもよいかと思います。(こちらが落合莞爾先生のいう紀州ワンワールド?)

この勢力が、のちに遅れてやってきた神功皇后・応神天皇・武内宿禰らの一派(こちらが薩摩ワンワールド?)と合流して、「大和王政」という連合国家を造ります。

彼らはどうやって潜入したか?

それでは、彼らが日本国内に入り込んでくるプロセスを、順を追って説明しましょう。

 

(1) もともと大和の地は、ニギハヤヒを担ぐ「出雲族」が支配していました。

ニニギを担ぐ九州王朝=ウガヤフキアエズ王朝=日向族とは、完全な和睦が成立しており(これが天照大神とスサノオの間で交わされた誓約=ウケイ)、上手に棲み分けがなされていて、争いもありませんでした。

 

(2) ところが、この大和の地を征服した別の勢力がありました。

それが、ナガスネヒコという日本国王(倭国王ではありません)であり、東北王朝から出た縄文人の王様でした。

⇒そのナガスネヒコの子孫である富家の伝承では、彼らはアラハバキ神を信仰する縄文人であると伝える。

⇒さらにウエツフミによると、彼らはもともと福島県の亘理から出た豪族であるが、大和の地でニギハヤヒのご神宝を出雲族から奪って天皇になろうとした。これを裏から支えたのが『外国人勢力』であるとする。

 

(3) 平和な時代に終わりを告げたのは、九州全域を襲った大飢饉でした。

多分、阿蘇山が大噴火して田畑が火山灰で埋まり、農作物が出来なくなったんでしょうね。

だから、日向族は鉄製の鍬や鎌を大量に船に積んで、農耕ができる土地を全国に探し始めます。

⇒詳しい経緯は、こちら

⇒この鉄製の農機具を作った遺跡が、大分県佐伯市堅田地区から発見されています。

 

(4) この全国行幸の途中で、不幸にも五瀬の命とナガスネヒコが偶発的に衝突してしまいます。(詳しい経緯は上記に述べたとおり)

 

(5) このとき、ナガスネヒコ軍が外国人勢力と組んでしまったため、話が非常にややこしいことになります。

 

(6) この争いで仲裁に入ったのが、ニギハヤヒを担ぐ「出雲族」ウマシウチでしたが、どちらかというと「日向族」を応援したようです。

 

(7) ナガスネヒコとそれを支えた外国人勢力は完全に鎮圧され、大和の地にはいったん平和な時代が戻ります。

そこで日向族は、ナガスネヒコの居た奈良県の吉野山・宇陀地方を目指して移住を始めます。

これが「神武東遷」です。(東征ではなく東遷なのは、侵略する意図は無かったため)

 

(8) このとき、外国人勢力は二手に分かれて、日向族と東北王朝の両方を支援します。

 

(9) ナガスネヒコ自身は日向族により殺害されたのですが、その息子は無罪放免されたとウエツフミにあります。

これがアビヒコ(安日彦)であり、東北に逃げ延びて、現地のアソベ族やツボケ族を従えて、再び大和の地の奪還を図ります。

その際に、再び外国人勢力と組んでしまったことが、その後の皇室の歴史に禍根を残すことになります。

これが開花天皇を始祖とする東北王朝であり、「欠史八代天皇」であろうと考えられます。

⇒以上は、『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)による。

【参考】https://matome.naver.jp/odai/2136702011975465501

⇒この東北王朝の歴代天皇が、古事記・日本書紀に記されたということは、外国人勢力がこの東北王朝を母体として、そこに背乗りしてきた可能性を暗示している。

 

(10) 一方、日向族側に着いた別の外国人勢力は、善良な市民を装って神武天皇ことヒダカサヌに近づいて来ます。

具体的には、「神武天皇の新居を無償で建てて差し上げましょう」と提案したのです。

彼らは、徐福が引き連れてきた技術集団であり、土木建築のトップが天道根命(あめのみちねのみこと)でした。

ここでやっとつながって来ましたか?

⇒なお徐福の渡来は紀元前3世紀なので、その子孫であるニセ名草一族がこの提案を行った張本人か?

⇒天道根命はウエツフミにも登場する「住宅建築の神様」だが、ニニギの重臣なので時代が全く合わない。ここに徐福の一味である外国人が巧妙に背乗りしてきたと考えられる。

 

そして、彼らは忌部氏に外戚関係で入り込み、以降ニセ忌部氏を名乗り始めます。

さらに、紀州和歌山・徳島県・千葉県房総半島などを本拠地にして、日本国への定住を図り始めます。

このあたりの経緯は、『古語拾遺』に詳しく語られています。

⇒このことは以前にも書いていますので、詳しくはこちら

 

(11) 再びウガヤフキアエズ王朝と東北王朝の戦いが始まり、ここに出雲族や外国人勢力も参戦して、日本国中はまさにバトルロワイヤルの混戦状態となります。

これが、2世紀の『倭国大乱』です。

このとき日向族はひとたまりもありませんでした。

なぜなら、もともと自分たちの故郷ではない大和の地を本拠地としていたことに加え、ヒダカサヌの居城とでもいうべき「橿原宮」を、外国人勢力に建築させてしまったからです。

この間、何十年、何百年も日本国の天皇が定まらなかったと中国の歴史書は伝えています。

 

(12) そんな大混乱を制して、初めて武力により日本国を統一したのが、第十代・崇神天皇であり、ここから「大和王政」の時代が始まります。

つまり日本人同士に戦わせて、その間にちゃっかりと潜り込んできたということでしょうか?

 


結び

以上を総合すると、名草トジを英雄として神社に祀り、第五代の紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命したのは、崇神天皇であったということです。

 

さらに、遅れてやってきた神功皇后・応神天皇・武内宿禰らの一派(これが秦氏であるとする説もある)と合流して、「大和王政」という連合国家を造ります。

⇒のちの推古天皇は、この事態を「四夷化して朝と為す」(大成教序文より)と嘆いていますので、飛鳥時代には再び九州王朝が返り咲いた可能性大。

 

一方では、同族の安曇氏や尾張氏らを続々と高官に取り立てて、最終的には、彼ら「徐福一族の歴史」をそっくりそのまま「ニギハヤヒの歴史」として『先代旧事本紀』のなかに盛り込むことにも成功します。

⇒聖徳太子が発案したこの歴史書も、志し半ばで本人が亡くなったため、何者かが大幅に改竄した。

 

ここから、崇神天皇はハツクニシラスと名乗り、それ以前の天皇は存在しなかったことにし始めますが、何分まだヒダカサヌの記憶が生々しい3世紀のことであり、思い切って「神武東征」の時期を、紀元前660年(皇紀元年)までバックデートしてしまいます。

⇒ウエツフミによると紀元前660年はニニギが降臨した時期であり、そこから74代のウガヤフキアエズ王朝が約700年間続くが、この部分がごっそり削除されて、ホホデミ(山幸彦)と神武が短絡された。

これが古事記・日本書紀しか読まない日本の学者たちを大混乱させている最大の理由です。

 

日前(ひのくま)神宮・國懸(くにかかす)神宮」のご由緒が教えてくれているではないですか。

崇神天皇が奉献したのは天照大神のご神体「ヤタの鏡」ではない。

日像鏡(ひがたのかがみ)」と「日矛鏡(ひぼこのかがみ)」の2つの鏡であると・・・・。

このうちのどちらかが、現在伊勢神宮に安置されているヘブライ語の入ったあの鏡です。

つまり、ウガヤフキアエズ王朝が継承してきた「三種の神器」、すなわち本物の「ヤタの鏡」「天の叢雲の剣」「潮満玉・潮干玉」は、どこかに消えてしまったということです。

 

これを聞いたら五瀬の命は、さぞかし悔しがって「死んでも死に切れん!」と叫ぶに違いありません。

 

この記事を、五瀬の命の命日に捧げます。