あの和歌の作者は百合若大臣だった!

かささぎの 渡せる橋におく霜の

白きをみれば 夜ぞふけにける

 

『百人一首』にも収蔵されている有名なこの和歌ですが、その本当の作者が分かりました。

なんと、それは百合若大臣の作だったのです!

百合若大臣といえば、真名野長者の跡取りで、大分市内に「大臣塚」という古墳もある、6世紀末に活躍した大豪族です。


通説によると

この歌は、大友家持が詠んで『古今和歌集』に収録したことになっていますが、実のところ作者は不明のままだったのです。

つまり、家持は単にこの歌を選んで推薦しただだけで、本当の作者は隠されたままになっていました。

私の推測通り、百合若大臣こそあの蘇我馬子であったとするならば、その理由はもうお分かりでしょう。

そう、歴史には登場してはならない超大物だったからです。

 


根拠となる原典は

それは、ズバリ『百合若説教』のなかに書かれていました。

ただし、もともとの歌は一字違いで、下記のとおりだったようです。

 

笠さぎの 渡せる橋におく霜の

白木を見れば 夜ぞ明にけり (原典ママ)

 

百合若大臣の伝記を伝える『百合若説教』
百合若大臣の伝記を伝える『百合若説教』

あらすじ

大金持ちの真名野長者、その後継ぎ息子だった百合若大臣のもとには、何件ものお見合い話が持ち込まれました。

その数、実に99人にもおよびましたが、本人がなんだかやと理由をつけては断ってしまいます。

 

ある日、神か仏かは分かりませんが、3人の童(わらべ)が通りすがりに大臣にこう告げます。

「百合若大臣は誠に立派な人ですが、さすがに六條内裏にいる輝日の御前を口説くことは出来ますまい」と、さんざんに輝日(てるひ)の御前をほめちぎったあげく消えてしまいました。

 

これを神仏のお告げに違いないと理解した百合若大臣は、六條内裏(話の流れから皇居のことと思われる)に忍び込んで、輝日の御前にせめてラブレターだけでも渡そうと決意します。

 

なんと深夜2時ごろ、自宅の二條の御殿を抜け出した百合若大臣が、六條内裏のなかにあった輝日の御前の寝室に忍び込んでみると、二人は出会ったとたんに一目ぼれしてしまいます。

百合若大臣は15歳、輝日の御前は14歳のことでした。

このときの様子を作者はこう例えています。

「申さば比翼の鳥、地にて語らば連理の枝、千代を百夜、百夜を十夜、十夜を一夜と契らせ給いし」

まるで運命のように、二人は仲良く結ばれたということですね。

 

さすがに夜も明け始めて、帰り支度を始めた百合若大臣が、その気持ちを下記の歌に託します。

 

笠さぎの 渡せる橋におく霜の

白木を見れば 夜ぞ明にけり

 

ところが今度は、輝日の御前が泣いてすがりつき、とうとう百合若大臣は女装してお付きの者たちの目をくらまして、輝日の御前を自分の家・二條の御殿まで連れて帰ります。

つまり、駆け落ちといおうか、略奪婚といおうか、なんとも劇的な出会いだったようです。

めでたし、めでした。

 

以上、『百合若説教』に書かれていたストーリーを、私が分かりやすく意訳しました。

 


この逸話の信ぴょう性

百合若大臣が活躍したのは6世紀末のこと。

それは「真名野長者伝説」を詳細に記録した『内山記』(大分県豊後大野市三重町蓮城寺に伝わる)から明確です。

西暦562年に、欽明天皇の勅命で、百合若大臣【本名:尹利(ゆり)金政】が真名野長者の世継ぎに指名されたとあります。

一方、蘇我馬子が生きた時代は、550年から626年のこと。

 

そして、この歌が『古今和歌集』に入れられたのが、905年のこと。

その間、約300年間が経過していますが、人々の心の中には、百合若大臣伝説とともにこの和歌が生き続けていたのでしょう。

そして、それを口述で語り継いできたのが壱岐の島の巫女であるイチジョーたちで、それを正確に記録したものが『百合若説教』として、現在に伝わっています。

 

つまりこの和歌の本当の作者である百合若大臣こと蘇我馬子を封印した為政者たちも、人民の心の中までは縛ることはできなかったということでしょうか?

 

和は令よりも強し。

 

大分県豊後大野市に伝わる『内山記』
大分県豊後大野市に伝わる『内山記』