天照大神の宗教観

日本の神道で、最も重要な神様が【天照大神】であることは間違いないと思います。

 

でもなぜか『古事記』『日本書紀』には、天照大神の宗教観、つまり「人はいかに生きて、いかに死ぬべきか?」「人は死んだらどうなるのか?」については全く書かれていません。

どうやら記紀の作者たちは、“神世の時代の歴史記述”のみにスポットを当てて、宗教的な色彩を排除してしまったようです。

 

これに対して、『ウエツフミ』や『ホツマツタエ』には、スピリチュアルな世界に関する天照大神の考え方が詳細に書かれています。

 

その内容をひとことで要約すると「まるで仏教の思想と同じだ」ということです。

これはどういうことなのでしょうか?

 

それを考えるにあたり、まず『ウエツフミ』には何が書かれていたのかを見てみましょう。

 


人は死んだらお星さまになる

まず、最も大切な「死生観」に関しては、どう説明されているのでしょうか?

天照大神自身のお言葉を現代語訳すると、こんな感じになります。

 

天照大神は、人間の魂を守る役目の神様たち(天津明魂之男の命と天津明魂之女の命の夫婦神)を指名して、こう命令します。

 

◆おまえたちは、人間の魂を見守って、シコ魂(みにくい心)、ケガレ魂(穢れた心)、ネクジ魂(悪い心)を抱くことの無いよう、また幸福で豊かな気持ちになれるように導いて、

 

◆(人が)人生を終えて、臨終に臨んだならば、私の住む「高天之原」で、星の神にして、私の御前に昇天させて仕えさせよ。

 

◆もしも、真っ黒な心がある人間が居たならば、遠く「黄泉国」に追い払って消し去るように・・・・

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=3&sno=14

 

どうですか、まるで仏教が教えている「極楽浄土」と「地獄」という考え方にそっくりではありませんか?

それを「高天之原」と「黄泉国」という言葉に置き換えただけのように見えます。

 

しかも、良い人は死んだら「星(つつの)の神」になれると言っています。

ここでちょっと説明が必要ですが、『ウエツフミ』では、八百万の全ての神々が「星の神」としての別の顔を持っています。

例えば、一番分かりやすいのが「火の神様・カグツチは宇宙では火星の神様」であり、私たちも死んだら「星の神」となって、天照大神のおそばに住めるというのですから、これほどありがたい教えはありません。

 

ただし、悪いことをした人は別問題で、これは他の宗教(例えばキリスト教)よりも厳しい「永久追放」となってしまいます。

 

さらに、「あの世」に旅立とうとしている人の魂を、「この世」に呼び戻すため、『イヨブセ』と呼ばれた蘇生術が行われていました。

このことは、以前にも書いているので、興味のある方はこちらから。

この時に使われた呪文が、ニギハヤヒの伝えた『十種神宝(とくさのかんだから)』なのです。

 


死後に人を裁く神様・大国主

そして、善人と悪人を判定する裁判官のような神様、そう仏教の世界では「閻魔大王」と呼ばれているあの人ですが、それが「大国主の命」なのです。

 

もともとこのポジションは、月読命が務めていたのですが、大国主がニニギの国づくりに貢献したため、そのご褒美としてこの大役を襲名します。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=9&sno=27

 

だから、大国主は出雲大社に祀られて、「黄泉国(よみのくに)」の入り口を見張っているのです。

ここは、イザナミ・イザナギが、その入り口を岩で塞いでヤソマガツを封印した場所ですよね。

 

ちょっと話がそれますが、この大国主を祀るという大役を仰せつかったのが、アメノホヒというお方です。

そう、ニニギに先立って天孫降臨したのに、その後行方不明となってしまったあの神様です。

だから、その子孫である千家家が、いまでも出雲大社の宮司を務めているのです。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=9&sno=28

 

このように、「高天之原」とは宮崎県の高千穂地方のことでもなければ、鹿児島県の霧島地方のことでもありませんでした。

つまり「この世」ではなく「あの世」だということです。

どちらかというと、それは「宇宙空間」のような感じで、スピリチュアル系の人たちは「異次元」であると説明していますが、その説明が最も近いのかもしれません。

ここに行くことが「天昇(あぼ)す」であり、ここから地上界にやってくることが「天降(あまも)る」なのです。

 


成仏するとは神道ではどう教えてたのか?

仏教の世界では「輪廻転生」を唱えており、人の魂は死なずに「三界(前世⇒現世⇒来世)」を行ったり来たりするものである、だから修行して成仏することが大事で、これを「因果応報」というと教えていますが、やはり古神道にも似たような考え方がありました。

 

それは、大国主が相棒のスクナヒコを失った(外国に行ってしまった)ことで大いに悩み、ついに悟りを開くシーンで登場します。

 

苦悩する大国主の前に、奇魂(くしたま)と幸魂(さきたま)の二人の神様が登場して、「我々はおまえ自身の奇魂と幸魂である。一緒に国づくりを手伝ってやろう」と説くのですが、大国主はこれを聞いた途端に全てを悟り、下記の言葉を発します。

 

「眞世求来(まよまく)、此世越来(こよこく)、御世見来(みよみく)」

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=7&sno=17

 

記紀ではこの言葉を省略してしまったためその真意が伝わっていませんが、私の解釈では、奇魂(くしたま)とは過去の自分、幸魂(さきたま)とは未来の自分、そして過去・現在・未来の三位が一体となることで自分自身が変わってゆける、つまり解脱できるのだという意味に取れます。

 

すなわち「現在の自分が求めたことで、過去の自分が顕れ来て、未来の自分が見る(実現する)。」と解釈できます。

図式化すると、マヨ=現世=今の自分、コヨ=前世=奇魂、ミヨ=来世=幸魂、ということでしょうか?

 

さらに、大国主が「人民をどう導いたらよいのか?」と質問すると、奇魂と幸魂の二人の神様がこう答えます。

「人民が空しく生きているのは心が平穏でなく、不満をいうのは真心に違うからである。

(これに対して)神様は常に素直で清い心で居られるので、人民がこれを尊敬して従うのである」

このとき、大国主は「あう」と声を発して、自分の役目を悟ります。

そして、二人の神様に「おまえたちは奈良の青垣の東の山に居れ、自分は杵築の宮(出雲大社)に鎮座しよう」と、決意を表明します。

 

まるでお釈迦様が成仏するシーンをほうふつとさせるではありませんか。

このとき大国主は人民を教化する自分の役割をはっきりと自覚したのです。

もしかしたら、私たちも死んだ後に賽の河原を渡り、大国主の教えを受けることができるのかもしれません。

 


食べ物に関する教え

天照大神は、日常生活の細やかな部分にまで言及しており、衣食住のライフスタイルについて「神訓(かみこ)り」という規則を定めています。

 

このなかで最も大切なのが、「肉食禁止令」です。

このことは、以前にも書いていますので、こちらからどうぞ。

 

つまり、四つ足の動物の肉を食べると、栄養補給という面では優れているのですが、その獣の魂まで乗り移ってしまい、気がクタブれる(つまり気が狂うという意味?)ので、止めよと言っています。

 

食べた食物の精神がそのまま性格に反映されるという法則は、ある程度当たっているのかもしれません。

そういえば、肉を主食としているアングロサクソンやアーリア人たちは、好戦的で狂暴な一面を持っていました。

だから世界征服を企んだのでしょうか?

 

一方、ハラールという独特の調理法で肉の穢れを落としてから食べるというイスラム教徒は、ある意味日本人と同じ考え方をしていたのかもしれません。

 

日本では、仏教の僧侶たちは四つ足や五葷(ごくん、ニラやニンニクなど)を摂取することは厳しく禁じられており、精進料理という独特の仏教文化が発達したのです。

ただし、よく調べてみるとこれは日本独自の文化のようで、もしかしたら「肉食禁止令」は、仏教が導入される以前から我が国で行われていた可能性があります。

なぜならお釈迦様の言動を記した経典のなかには「肉食禁止」という言葉は出て来ないからです。

 

そのうち、DNA研究が進歩して食物と人種との関係が解明されてくると思いますが、「弥生人は肉食をしなかった」と覚えておいてください。

 

ちなみに、出雲王朝が滅んだ理由も、人民がこっそり肉食するのを黙認していた大国主に、大年の神の天罰が下り、イナゴの大発生による凶作となったためだと『ウエツフミ』は伝えています。

このときに「イナゴ除けのおまじない」として置かれたのが、道祖神様という、そうあの男根を象った石像でした。

 


陰陽道に関する教え

世の中の全ての事象を、陰と陽の2つのエネルギーで説明しようとする『陰陽五行説』は、中国発祥だと思われていますが、なんとこれも天照大神の説いたものでした。

 

ヲシテという神代文字で書かれた『ホツマツタエ』『フトマニ』の中には、天照大神自身が説いた、「宇宙の成り立ち」や「気の流れ」さらに「占いの方法」に関する記述があります。

これは、私の研究分野ではないうえに、最近は専門に研究されている方も多いので、あえて詳細な解説は避けますが、興味のある方は下記のサイトをご覧ください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B1

 

さらに、ウエツフミのなかにも第2代・ウガヤフキアエズの命が説いた『四元論』に関する記述がありますが、これは現代の『鍼灸治療』にも通じるものがあります。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=19&sno=16

 


結論---なぜ仏教と神道は共通点が多いのか?

さてさて以上、ウエツフミの記述を中心に、天照大神の宗教観をざっとみてきましたが、最初のテーマに戻ります。

 

一体、これらの教えが仏教の教義と共通しているのはなぜでしょうか?

 

最近、私のなかにある漠然とした答えは、下記のようなイメージです。

 

◆世界には、大きく2つの文明が起こったのではないか?

 

(1) ひとつは、アトランティス文明を中心とする、男性的で「闘争と征服」により栄えてきた文明。⇒大西洋に沈んだ。

ここから、キリスト教や儒教にみられる絶対唯一神信仰や善悪二神信仰が生まれ、ピラミッド型の社会システムが生まれた?

 

(2) もうひとつは、レムリア(ムー)文明を中心とする、女性的で「愛と共存」により栄えてきた文明。⇒太平洋に沈んだ。

ここから、仏教や神道にみられる多神信仰が生まれ、共存共栄型の社会システムが生まれた?

 

◆もともと、日本の神々とその子孫である天皇家は、(2)の女性文明から発祥している。

 

◆ところが、歴史上のどこかの段階で、(1)の男性文明に入れ替わった。

 

◆現在は、(1)の男性文明が趨勢であるが、徐々に(2)の女性文明に移行しつつあるのではないか?

 

とりとめのない結論で申し訳ありません。

 

でも、もしも私の仮説が正しいとすると、これら2つの文明は、全く同じ結末を示唆しています。

それは、人類の最終目標は(1)と(2)の融合にあるということです。

 

陽と陰が合体して全く新しい人類が誕生してゆく、そんな未来がもうそこまで来ているような気がします。