五瀬の命は死後に天皇に即位した!

神武天皇の兄である彦五瀬命(正確にはオオワタツヒコ・五瀬の命)については、記紀ではほとんど触れられていません。

 

これに対して、『ウエツフミ』では五瀬の命を、神武東征の最大の功績者として称え、詳しい記述が残されています。

⇒ウエツフミによる神武東征はこちら

 

なんといっても注目すべきは、五瀬の命が「ナガスネヒコ=新羅連合軍」との戦いで命を落としたあと、第72代・ウガヤフキアエズの命に即位していることです。

 

なぜ亡くなった人を、あえて天皇として即位させたのでしょうか?

そこには、感動的なドラマがありました。

 


戦死者を即位させた理由とは?

当時の奈良県の住民にとって、ナガスネヒコ=新羅連合軍は、農作物の横取りや人さらいなどの悪事を働いて、人民を苦しめていた【鬼畜】でした。

その鬼を退治してくれた英雄を失ったことで「五瀬ロス」の暗いムードが国内に漂っていたのです。

つまり五瀬の命こそ「正義の味方」であり「悲劇のヒーロー」だった訳です。

 

父である第71代・モモカヒウスキも「五瀬を即位させないことは天の罪である」と、自ら退位を決意し、五瀬の命が愛用していた「十握の御太刀」を御像代として「即位の儀」を執り行います。

 

もちろん、御霊のままでは具体的な政治が行えませんので、このとき同時に【摂政】が立てられました。

当時の言葉で「背手の世嚮男」と書かれていますが、「うしろで」は文字通り摂政のこと。「よさきお」は、女帝が立てられた際の配偶者(夫)のことを意味しますので、多分、五瀬の命の皇后の形式的な配偶者という立場で執務していたものと思われます。

 

それが、叔父の高倉下(タカクラジ)の命 (別名:高見香具山の命)でした。

 

このお方も神武東征に際しては先頭に立って戦い、その功績により初代・和歌山県知事(日下根国の建=タケル)に就任して、現在の和歌山市内にある「竈山(かまやま)神社」(五瀬の命が祀られている)の南側に居住しました。

つまり、あくまでも五瀬の命の代理人として、その霊を供養する役目も受け持っていたのです。

 

この五瀬の命の御魂代(みたましろ)による治世は5年間続きますが、あるとき摂政の高倉下の命が、先代(第71代)にこう提言します。

「あまり天皇不在の状態が長く続いても人民にメリットはありません。それに後任のヒダカサヌ(五瀬の弟で神武天皇とされる)も、そろそろ五十歳を迎えます。私の知る限り50代で天皇になった人はいません。」

つまり、あまり遅くなりすぎてはヒダカサヌが力を奮えないということです。

(現在の平成天皇が退位を決意した状況にもよく似ていますよねえ。)

 

そこで、先代もやっと第73代・ヒダカサヌを即位させることを決意するのです。

このとき、神武天皇ことヒダカサヌは48歳でしたが、その功績により「名誉年齢」三歳が加算され、実質51歳とみなされます。

⇒当時は、「歳をとればとるほど偉い」と考えられていたので、勲章として名誉年齢が与えられていた。

 

ところが、奈良に遷都した「九州王朝」は長続きしませんでした。

神武天皇のあとに即位した第74代・カムヌナガワミミ(綏靖天皇とされる)までで、パッタリと『ウエツフミ』の記述も途絶え、そのあと全く別人の「ニセ神武天皇」による大和王政が始まります。

 

みなさんも、よくご存じの神武天皇は、記紀に登場する「ハツクニシラス」というお方ですが、どうやら九州王朝出身のヒダカサヌとは、縁も所縁も無い人のようです。

⇒ハツクニシラスを第10代・崇神天皇と同一視する説はこちら

 


考察---それはどこのことか?

さてさてこの記述、いったいどこで起こった事件のことなのでしょうか?

この記述が正しいとすると、どこかに「五瀬の命の痕跡」が残されているはずです。

 

もうお分かりですよねえ。

五瀬の命は大分県を本拠地にしていた可能性が非常に高いのです。

その痕跡を探している私は、すでに下記の証拠を見つけています。

 

【証拠1】健男霜凝日子神社

祖母山のふもと竹田市神原地区にある「健男霜凝日子神社」

ここには、五瀬の命が「祖母嶽大明神」として祀られています。

しかも、ひっそりと目立たないように、白雉2年(650年)に建立された【下宮】に豊玉姫と並んで祀られています。

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⇒ちなみに、「白雉」は九州だけで使われていた特別な元号で、古田武彦先生はこれを「九州年号」と呼び、九州に王朝があった有力な証拠としている。

【参考】http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html

 

【証拠2】猪鹿狼寺伝承

久住山のふもとにある猪鹿狼(いから)寺の伝承から、久住山全体が五瀬の命の聖域だったことが伝わっています。

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【証拠3】御霊社

豊後大野市三重町にある「御霊社」または「祖母嶽神社」

ここは、五瀬の命の終焉の地・和歌山県の「竈山(かまやま)神社」と「健男霜凝日子神社」(本拠地?)を結ぶラインの真上に建てられていることが分かってきました。

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【証拠4】六柱神社

五瀬の命の親戚縁者や側近のうち、戦死した6人を英雄として「六柱神社」に祀ったと『ウエツフミ』は伝えています。

そこで、「六柱神社」を探してみると、大分県内では下記の3か所に存在することが分かってきました。

 

(1)大分県大分市佐賀関町285番地

http://www.geocities.jp/engisiki/bungo/bun/bng630401-02.html

 

(2)池上六柱神社

こちらは、豊後大野市千歳町にあり、正確な住所さえ不明ですが(原田地区の鎮守とされる)、中九州自動車道と大野川に挟まれた深い山中にあります。

御祀神も書き換えられたか、不明となっているようですが、ここには何か大切なものが隠されているような気がします。

⇒地図は、こちら

 

(3)竹田市植木

http://gozmez49.blog.fc2.com/blog-entry-1743.html

 

つまり、6人の英雄たちの住んでいた場所に、それぞれ「六柱神社」が建立されたのではないでしょうか?

ちなみに、「六柱の英雄たち」とは下記の6人であり「元宮は吉野の六峰の山にある」と書かれていますが、いまではその場所も不明となっています。

 

稲飯の命 (別名:天津熊野武の命)・・・・五瀬と神武天皇の兄弟

三毛野入野の命・・・・五瀬と神武天皇の兄弟

下春蟹津見の命・・・・アメノコヤネ(右大臣)の子孫

太玉七尾谷の命・・・・アメノフトダマ(左大臣)の子孫

甕椎幸彦の命

剣八重太刀の命

 

私が「六柱神社」のある場所を重視しているのには理由があります。

いわば神様でもなく、どちらかといえばマニアックな実在した人物を祀るのは、赤の他人ではなく、その近親者や配下の者たち以外にはあり得ないからです。

つまり、この神社のある場所こそ、本人たちが暮らしていた場所だということになります。

【証拠5】神武天皇の凱旋帰国ルート

『ウエツフミ』には、凱旋帰国した神武天皇の一行が家族と出会った場所が詳しく書かれています。

それが、竹田市の三宅地区だったのです。

 

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結び---さらなる決定的な証拠へと

以上、五瀬の命という人物の足取りを追跡することにより、その本拠地が浮かび上がってきました。

 

いまでは、名前さえ「彦五瀬命」と変えられて、すっかり忘れ去られようとしている「五瀬の命」ですが、意外にもこのお方が、九州王朝が存在したことを教えてくれるかもしれません。

 

私はひそかに期待しているのです、どこかにきっと、五瀬の命のお墓があるはずだと!