真名野長者とは蘇我稲目のことだった!

『御伽草子』のなかに収蔵された『烏帽子折』には、「用命天皇と真名野長者の娘との間に生まれた子が聖徳太子である」と書かれています。

【原典】https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013179/explanation/otogi_03

 

私はこのことが気になって仕方ないのです。

もしこの記述が本当ならば、

真名野長者とは、聖徳太子の祖父にあたる「蘇我稲目」のことになります!

私の目には、仏教を熱心に信仰した真名野長者の姿と、同じく仏教を導入しようとして物部氏と対立した蘇我稲目の姿が重なってくるのです。

しかも、この二人はほぼ同時代の人物です。

 

そこで、『日本書紀』と大分県に伝わる『真名野長者伝説』とを詳細に読み比べてみて、どこかに共通点が無いかを探しました。

すると、あるではないですか!

二つの記述は、仏教導入を接点にして、みごとにつながります。

つまり、真名野長者と蘇我稲目は同一人物だったのです。

 


日本書紀(左)と真名野長者伝説(右)の対比

まずこの表でおおまかな時代感覚を把握しておいてください。

蘇我稲目と真名野長者が同時代人であり、それぞれの実績がほぼ重なっていることが分かります。

詳細は、のちに解説します。

 


以上から得られる仮説

このことから得られた私の仮説を、まず先に書いておきます。

 

◆蘇我氏とは、ネパール発祥の「釈迦族」の末裔である。

◆紀元前4世紀、日本に渡来した「釈迦族」は、祖母山の山中にこもって「サンカ(山窩)」と呼ばれた。

サンカとは、サンスクリット語で「自由同盟」を意味する。

◆紀元6世紀、仏教が日本に導入されるにあたり、サンカはその推進役として真名野長者という孤児を世に送り込む。

なぜなら、仏教とは彼らが始めた宗教だからである。

◆炭焼き小五郎こと真名野長者は、蘇我大臣の娘を嫁にもらい、「蘇我稲目」と名乗る。

つまり、入り婿として蘇我姓を手に入れた。

◆真名野長者は、サンカが秘蔵していた黄金で大金持ちになる。

◆そして、その娘・般若姫と用明天皇の間に生まれた子供が聖徳太子である。

◆しかし、般若姫は物部氏らにより迫害され非業の死を遂げる。

これが、全国に建立された「般若寺」の起源であり、般若姫とは夫の用明天皇から賜った「号」である。(本名は玉よの姫)

もちろん聖徳太子も母・般若姫を厚く供養している。

◆真名野長者こと蘇我稲目の後継者は、伊利金政という高麗人で、これまた入り婿により蘇我姓を得て、蘇我馬子と名乗る。

◆蘇我一族は天皇家と外戚関係を結び、サンカの黄金を使って日本に仏教を導入してゆくが、結局は中大兄皇子、中臣鎌足らに滅ぼされてしまう。(乙巳の変)

◆その後、蘇我氏に関するすべての公式記録が抹消されたので、真相が不明となった。

◆ただし、大分県には「真名野長者」の伝説だけが語り継がれた。

 

その証拠の一部を下記に列挙しますが、なにしろ膨大すぎて、とてもここには書ききれません。

 

<通説の不自然さ>

そもそも、用命天皇の正室は「穴穂部間人皇女」とするのが通説ですが、とても信じられません。

なぜなら、この女性は用命天皇の腹違いの妹だからです。(下記の系図参照)

しかも、第30代敏達天皇、第31代用命天皇、第32代崇峻天皇、第33代推古天皇まで、全員が兄弟姉妹であるというのです。

「穴穂部間人皇女」まで入れると、5人の兄弟姉妹同士でお互いに結婚したり、仲良く天皇の座を譲り合ったりしたということになります。

このあたり、誰かが何かを隠そうとして画策した痕跡があります。

 


『日本書紀』に書かれた仏教導入の経緯

それではまず、『日本書紀』に書かれた仏教導入の経緯を振り返ってみます。

ちょっと長くなりますが、重要なので最後までおつきあいください。

 

(1) 欽明13年冬10月 (西暦539年?)

百済の聖明王が、【釈迦金銅像一体、幡蓋若干、経論若干巻】を、欽明天皇に献上します。

そこに添えられた書簡には「仏教は最高の教えなのでぜひ信奉してください」と書かれていました。

 

(2) そして、その使者として百済から訪朝したのが、ヌリシチケイという者でした。

 

(3) 欽明天皇は踊りあがって喜び、「朕は、かつてこんな有難い法を聞いたことが無い。しかし、自分で決めることはできないので・・・・」と、群臣を集めて相談します。

「隣国が献上した仏像の顔は美しく荘厳であるが、これを敬うべきか、否か?」と・・・

 

(4) すると、蘇我稲目がこう言い出します。

「西の隣国どもはみなこぞって信奉しております。日本だけが仏教を排除するというのはもはや不可能でしょう。」

 

(5) これに対して物部尾興と中臣鎌子が反論します。

「わが国の天皇は、つねに八百万の神々をお祀りすることを伝統としております。これを今改めて、外国の神を拝むならば、わが国の神々がお怒りになるでしょう。」

 

(6) そこで天皇は、「それでは、蘇我稲目に預けて、試しに拝ませてみよう。」といい出します。

 

(7)  蘇我稲目はひざまづいて受け取り、喜んで小墾田(おはりだ)の家にこれを安置しました。

 

(8) さらに、一生懸命に仏教を学び、のちに「向原(むくはら)の家」を清め祓って「お寺」としました。

 

(9) ところが国内に疫病が大流行し、人民が次々と死んでゆき、打つ手がありません。

 

(10) そこで、物部尾興と中臣鎌子が再び上奏します。

「先日、我らの忠告を無視されたので、この疫病が発生したのです。またもとに戻せば、必ず解決するでしょう。早く(仏像を)投げ捨てて、熱心に祈るべきです。」

 

(11) 天皇は、「そのとおりにせよ」と命令したので、役人が仏像を難波の堀江に流して捨てました。また、向原の寺に火をつけたので全焼してしまいました。

 

(12) ところが今度は、災いが皇居「磯城島の宮」におよび、風も無いのに大殿が焼けてしまいます。

 

(13) 翌15年5月1日(西暦540年?)

河内の国にこんなウワサが立ちます。「泉郡の海の中から、梵音が聞こえます。まるで雷のようです。太陽のようにまぶしく光り輝いております。」

 

(14) 欽明天皇は怪しんで、溝辺直(いけべのあたい)に、海に入ってこれを拾うよう命令しました。

 

(15) そこで、溝辺直が海に入ると、楠の木が海に浮かんで光り輝いていましたので、これを回収して天皇に献上しました。(主語不明?)仏師に命じて、仏像二体を作らせました。今の吉野寺にある楠像です。

 


『真名野長者伝説』に書かれた仏教導入の経緯

さてさて、それでは大分県に伝わる『真名野長者伝説』には、どう書かれているのでしょうか?

 

(16) 欽明15年(西暦540年?)

百済国の蓮城法師が、真名野長者に与えた「千手観音」と、娘の持仏である「一寸八分の観音像」の二体を併せて祀った。これが「有智山蓮城寺」開基のご由緒である。

つまり、奈良の向原の寺が焼けた翌年に蓮城寺が建立されているのです。

⇒蓮城法師とは、上記(2)のヌリシチケイのことではないのか?

⇒ほぼ同じ時期に、百済から蓮城法師とヌリシチケイの2人が渡来して、別々の人物に会ったとは考えにくい。(それは欽明天皇に対して失礼にあたる。つまり仏像は百済の日本外交の切り札だったから)

⇒要するに、奈良を追われた百済の高僧が、蘇我稲目の庇護を受けて、豊後の地に移住して仏教を教えたのではないか?

 

(17) さらに、「一寸八分の観音像」については、もっと詳しい由来が伝わっています。

「般若姫が、都へ上る途中の嵐の際に、海を鎮めるために海に投げ込まれてしまった。後、怪魚(楠?)に姿を変えて現れたのを聖徳太子がもとの観音像に変えてやり、玉絵姫に母の形見として贈った」というのです。

⇒つまり、これが上記(15)に出てくる海から回収された楠で作られた二体の仏像のうちの一体ではないのか?

⇒上記(15)の記述には、誰が仏像を作らせたのか?主語がないので、これを聖徳太子と解しても不自然ではない。

 

(18) その楠を海から回収した溝辺直(いけべのあたい)については、日本書紀では謎の人物とされていますが、『真名野長者伝説』にはさらに詳しい記述があるのです。

ひとことでいえば、真名野長者の重臣であり、般若姫が上京する際に、警護係の長を任されていました。

しかも用命天皇に直接「般若姫遭難」の報告をした7人のうちのトップなので、ただの田舎豪族とも思えません。

⇒溝辺氏が蘇我稲目の重臣であったからこそ用命天皇に直接謁見ができたし、欽明天皇の勅命で海に入ったのではないか?

 

(19) 以上を総合すると、「小墾田(おはりだ)の家」と「向原(むくはら)の寺」を次々と襲撃された蘇我稲目が、バックアップのため大分県三重町に建立したのが「蓮城寺」であり、臼杵に建立したのが「満月寺」だと考えられます。

⇒満月寺のある深田の里は、用命天皇と般若姫のために新築された「新屋敷」であり、長者本人の住んでいた旧屋敷が内山である。

 

(20) ところが、このバックアップ寺院も、物部守屋により襲撃されます。

公式な記録には一切残されていませんが、下記の伝承が伝わっています。

 

敏達6年(577年)3月上旬、守屋大臣は一門の家臣を集め、

「豊後の国に真名野長者というものが居るが、異国から沙門を招き、仏像を取り寄せ、天竺祇園精舎とやらの体を移し置くというのは、神国の敵なり。その罪許すべからず。先年、わが父尾與大臣が流罪となったのも、皆長者の所為である。帝の勅はないが、急ぎ押し寄せ平らげ、寺院を焼き払い、三類のものども残らず討ち取るべし」

 

⇒この記述から、父の物部尾興が流罪になったことが分かり、それは上記(12)~(15)の仏教導入に関する「天皇家の方針変更」に関係があるものと思われる。「帝の勅がない」ということは、その後天皇家が仏教推進派に転じたことを暗示している。

⇒これを恨んだ息子の守屋が、約30年後にあだ討ちのため豊後国を襲撃したが、追い返される。その理由は、下記の大伴の家臣の諫言から分かる。

「長者は英雄貴族を数万人持ち、さらに百済から商船三十余隻に長者の家来であるというもの2000余人乗り込んでおります。日本ではまだ聞いたことのない火矢、石火矢などの攻め道具も持っていて、たとえこちらが十万の兵を差し向けても、勝つ見込みなどありません。また、豊後の国司たる長者に、帝の勅も得ずに兵を差し向けた怒り、尋常なものではございません。ここは和睦するに越したことはございません」ということで、同年和睦が成立。

 

(21) さらにこの8年後、仏教導入をめぐる蘇我馬子と物部守屋/中臣勝海の対立につながります。

つまり親子二代にわたり、同じような抗争事件が繰り返されているのです。

 

敏達天皇14年2月(585年)

物部守屋は寺に向かい、仏殿を破壊し、仏像を海に投げ込ませた。

物部守屋は蘇我馬子ら仏教信者を罵倒し、三人の尼僧を差し出すよう命じた。馬子は尼僧を差し出し、守屋は全裸にして縛り上げ、尻を鞭打った。(wikipediaの記述より)

 

⇒このとき尼僧の面倒を見ていたのが、池邊直氷田(いけべのあたいひた)であり、上記(18)の溝部直(いけべのあたい)に繋がる。

⇒尼僧を拘束したのが、佐伯造御室(さえきのみやっこみむろ)であり、大分県佐伯市を本拠地とする豪族で、このときは守屋側に付いていたことが分かる。

⇒さらに、尼僧が鞭打たれた場所が、「海石榴市(つばいち)の亭」であるが、これは奈良県のことではなく、現在の豊後大野市(蓮城寺のある場所)のことである。景行天皇が豊後に侵攻したときの日本書紀の記述にも、この地名が登場する。

⇒以上から、物部守屋が攻めた「寺」とは、上記(20)の伝承にあるとおり豊後の国のことである。

 

(22) ここで、みなさんはある矛盾に気づきましたか?

それは、(20)の守屋の豊後攻めと(21)の守屋の馬子攻めが、どちらも正しいと仮定すると、物部守屋はひとりで、蘇我馬子と真名野長者の2人を相手に戦っていたことになります。

どちらも「仏教はけしからん」という理由だけで、莫大な犠牲が払われたことになります。

つまり、(20)の伝説と、(21)の通説は、同じ事件を指しているということです。

 

(23) さらに、キーワードは「仏舎利」です。

日本書紀には、蘇我馬子が「仏舎利を手に入れて石川の宅に祀って寺とした」とあり、

長者伝説には、「天竺祇園精舎とやらの体(正確には釈迦お手製の仏像)を移し置く」と上記(20)にあるとおりです。

これらは、どちらもお釈迦様のゆかりの品を手に入れたことを意味します。

そう簡単に手に入るはずが無いお宝を、同時期に2人がそれぞれ別に入手したとは考えにくいのです。

つまり、蘇我馬子とは、真名野長者の後継者だということになります。

 


蘇我馬子とは誰なのか?

もし私の推測どおり、蘇我稲目が真名野長者であるならば、その後継者たる馬子が居たはずです。

この点についても『長者伝説』が詳細に伝えてくれています。

 

(24) 用命天皇は「伊利大臣の三男に金政という当年十三歳の者がいる。これを下し長者の世継ぎと致す」と、長者の世継ぎをお選びになった。

 

(25) 敏達元年(572年)、敏達天皇即位のご祝儀として、かつて豊日の皇子(用命天皇)が牛飼いとなり、草刈りをされたことに因み、金政公に草刈右衛門助の号と、「橘の氏次と名乗れ」という勅定を与え、五万八千石を賜った。

 

つまり、真名野長者の後継者は「伊利金政」であり、のちの「草刈右衛門助」こと「橘氏次」だというのです。

この人物については、下記の説が公開されているので、参考にしてください。

http://sence-net.com/manano2.html#kin

つまり「伊利氏」とは高句麗から帰化した渡来人であるというのです。

 

この人物こそ、蘇我馬子ではないでしょうか?

ここから、蘇我氏が渡来人になっていったと考えれば、私の予想もまんざらではなかったことになります。

そして天皇家は、蘇我氏の権力が絶大になりすぎることを恐れて、わざわざ後継者を高句麗人にしたという見解も成り立ちます。

なぜなら、上述のとおり、真名野長者と百済とは必要以上に親密すぎたからです。

 


蘇我氏とは何者なのか?

さてさて、蘇我馬子が高句麗からの帰化人であることは分かりましたが、そもそもその父親の真名野長者こと蘇我稲目とは何者だったのでしょうか?

 

(A) 伝説では、真名野長者はもともと「藤次」という名の孤児であったが、又五郎という貧しい炭焼きに拾われて「小五郎」と名乗ったとあります。

つまり、本当の身元不明ということです。

この点は、稲目以前の御先祖様がよく分からないという通説と一致します。

ただし、通説がその始祖を武内宿禰としていることは、蘇我氏が滅ぼされたあとに、何者かが強引に結びつけたものと考えられます。

 

(B) 真名野長者の奥方は、「久我大臣の娘」と伝わっています。

「久我」という苗字で、「大臣」にまで登りつめたお方は、この時代にはどこにも存在しません。

それが登場するのは、源義経の時代になってからのことです。

つまり、「久我」が間違えているのか、「大臣」が間違えているのか、あるいは両方です。

都から嫁いできた謎のお姫様は、三輪大明神を熱心に信仰していました。

そのお告げでわざわざ豊後までやってきたということは、大和大神(おおみわ)氏につながる家系であり、豊後大神(おおが)氏はここから発祥したとみることもできます。

仏教に出会う前の蘇我氏が、奈良で三輪大明神を信仰していたとしてもおかしくはありません。

 

(C) 真名野長者に、なぜ苗字が無いのでしょうか?

上記(20)にもあるとおり、真名野長者は日本最大の軍事力と経済力をあわせ持った、大豪族でした。

なのに、なぜ苗字が無いのでしょう?

 

一方、上京する途中で遭難した娘の般若姫に対しては、用命天皇から「贈宮として般若皇太后宮の号」が下されているのです。(伝説による)

つまり、娘の般若姫は正式に皇族の仲間入りを許されたことになります。

さらに、前述(25)のとおり、その後継者・伊利金政には敏達天皇から直接「橘という姓」が下されています。

 

なのに、その父親には(天皇家の外戚にあたるのに)苗字が無い?

これはいかにも不自然でしょう?

いつまでも「炭焼きの小五郎」では天皇家も恥ずかしいでしょうし、その孫の聖徳太子はもっと報われません。

 

つまり、「蘇我氏」と名乗っていた可能性が高いということです。

正確には、蘇我氏の娘の玉津姫と結婚したとき、入り婿として「蘇我」の姓を名乗るようになった可能性があります。

 

(D) 真名野長者が信仰していたのは山王神でした。

奥方が三輪大明神を信仰していたのに対して、真名野長者の守り本尊は、山王神でした。

このことは、下記の3つの逸話に象徴されています。

 

◆長者誕生の150年前に、三重町の内山に山王神が猿の化身として降臨し、真名野長者の誕生を予言します。

このとき、山王神は自分のことを「インドと中国で3000年修行した猿の生まれ変わりである」と言っています。

さらに、真名野長者のことを「百済の国の竹林山のふもとで、柴守長者として活躍しているが、150年後ここ三重町玉田の里に誕生する」と予言しています。

 

◆また、玉津姫が道に迷ったときに見た夢で、

「天竺では大満長者、唐の国では柴守長者、この国にいたって真名の長者と申します」と長者の正体が明かされています。

 

◆物部守屋が豊後まで攻めてきたときも、山王神が降臨し、「長者夫婦と天竺、唐土、日本の三国を守護している山王神とは我のことなり」と、守屋の軍勢を追い返します。

 

これらの逸話から、山王神と真名野長者は一心同体であり、いずれもインド~中国~百済という経路をたどって日本にやってきていることが分かります。

 

だからといって、真名野長者を百済人だと決め付けるのは早計です。

この逸話を根拠に、真名野長者を半島出身だとしているのは、現在の韓国です。

そのことを証明しようとした論文もあり、韓国の大河ドラマで真名野長者が取り上げられて大騒ぎとなっています。

https://www.apu.ac.jp/rcaps/uploads/fckeditor/publications/polyglossia/Polyglossia_V8_Kim.pdf

 


蘇我氏「釈迦族」起源説

蘇我氏の正体は、百済人ではなく、しいていうなれば「インド人」のほうが近いと思います。

伝説では、山王神と真名野長者は、いずれもインド出身だと言っているのですから、その言葉を信じましょう。

だから、仏教導入に積極的だったのです。

 

ただし、現在のインドはヒンズー教徒が多いので、正確にはネパール出身だといったほうが近いかもしれません。

 

ここで物部氏や中臣氏の味方をするわけではありませんが、どう考えても天皇家の信仰する天照大神や八百万の神々とは異なる「山王神」がバックに付いていたのですから、蘇我氏が「異教徒」というそしりを受けたのも無理はありません。

 

ここからは、私の推測になりますが、真名野長者こと蘇我稲目は、ネパール発祥の「釈迦族」ではないでしょうか?

そう、お釈迦様を生んだあの部族です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E6%97%8F

 

ここで「サンカ(山窩)」とつながってきます。

なぜならば、サンカとはサンスクリット(釈迦族の言葉)で、「自由同盟」を意味するからです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC

つまり、サンカたちは専制君主に属さず、部族民の代表たちが集会堂に集まって政策を決定していたというのです。

 

日本の山窩とは、政府に属さず、戸籍も持たずに、山の中で自由に暮らすことを選んだ人たちでした。

つまり「釈迦族」の生き残りだということです。

だから、山中に隠された金鉱脈の場所をよく知っており、真名野長者の繁栄へとつながるのです。

 

さらに、「豊国文字」ともつながってきます。

「サンカ文字」と「豊国文字」がそっくりであるということは、ウガヤフキウエズ王朝の創始者は「釈迦族」であったということです。

 

ここでまた奇抜な議論を展開しますが、「釈迦族」とは「アーリア人」だという説もあります。

その名のとおり、アーリア人の語源は「alien」であり、文字通りエーリアン、つまり宇宙人なのです。

 

ヒットラーが仏教徒だったことはあまり知られていませんが、ハーケンクロイツを見れば、お寺のマークの裏返しであることが分かります。

ヒットラーのバックに居たのは、チベットからやってきた僧侶たちでした。

だから、ヒットラーはチベットに探検隊を派遣して本物のアーリア人を探させたのです。

このことはブラビ主演の「セブンイヤーズ・イン・チベット」という映画にもなっており、このときに探検隊が持ち帰った隕石からできた仏像もドイツで公開されています。

 

なーんだ、本物のアーリア人に会いたいなら日本に来れば良かったということですね。

ということは、第二次世界大戦とは、釈迦族とユダヤ人との戦いであったということでしょうか?

 


結論

さてさて、話が脱線してしまいましたが、以上の議論を整理しますと・・・・

 

エベレスト山麓のネパールから発祥した「釈迦族」は、お釈迦様ことゴウタマ・シッダールタを生んだあと、隣国コーサラ国の毘瑠璃王に攻められて故国を追われます。

そのなかの一団が、日本に渡来して「サンカ」を名乗るようになります。

それは、紀元前4~5世紀頃のこと。

まだインドに仏教は広まっていませんでした。(紀元前2世紀とされる)

 

日本はすでに「天孫族」が支配していましたので、彼らは祖母山の深い山中にこもって、自由な暮らしを選択することにしました。

ただし、彼らは独自の(宇宙人由来の?)科学技術や宗教哲学思想(肉食禁止など)を持っていましたので、遠くから「天孫族」の動向を観察し、必要なときにだけこれを援助し、または妨害することにしました。

 

そして、いよいよ自分たちの始めた仏教が、隣国経由で日本にまで到達してきます。

そこでサンカたちは、日本の仏教の創始者となるべき人物を選んで、中央政界に送り込むことにしました。

それが、炭焼き小五郎こと、のちの真名野長者でした。

 

◆真名野長者とは、蘇我稲目のことである。

◆その娘は用命天皇に嫁いで、生まれた子どもが聖徳大使である。

◆その後継者は、蘇我馬子こと高句麗人の伊利金政である。

◆蘇我一族は天皇家と外戚関係を結び、仏教導入に積極的に動いたが、結局は中大兄皇子、中臣鎌足らに滅ぼされてしまう。(乙巳の変)

◆その後、蘇我氏に関するすべての記録が抹消されたので、真相が不明となった。

 

あるいは、サンカたちは初期の目的を達成したので、自らその痕跡を抹消したのかもしれません。

いずれにせよ、サンカたちは再び山の中に隠れてしまいます。

 

次に、彼らが動き始めたのが、鎌倉時代です。

たまたま豊後の国司となって訪れた大友能直という人物に、自分たちの本当の歴史とノウハウを伝授します。

そして、彼が豊国文字で書いたのが『ウエツフミ』という歴史書であり、百科事典であり、哲学書なのでした。

ここから豊後大友氏400年の治世と繁栄が始まります。

 

さてさて、次にサンカたちが動きはじめるのは、いつのことなのでしょうね?

もしかしたら、もうあなたの隣に居るかもしれませんよ。