卑弥呼と神功皇后とは同一人物である

---そして「ニセ神功皇后」の正体とは?---

石清水八幡宮に伝わる『八幡愚童訓』という古文書から、卑弥呼と神功皇后が同一人物であることが分かってきました。

 

まず、『八幡愚童訓』に何が書かれていたのか?

駆け足で、その概要をみてみましょう。

 

【原文】『八幡大菩薩愚童訓』肥前松平文庫より

 


『八幡愚童訓』の記述内容

仲哀天皇の時代に、【塵輪】(じんりん)という外国人が攻めてきた。

その正体は三韓の連合軍で、10万8千層の船で長門の国・豊浦郡に押し寄せた。

仲哀天皇はこれを迎え撃って自ら出撃するが、流れ矢に当たって戦死。

 

【参考】お神楽に伝わる塵輪の襲来

残された神功皇后は、自ら陣頭指揮を執ってこれを撃退することを決意。

このとき、武内宿祢に祈願させると、下記の神々が次々と降臨して、神功皇后を指導補佐した。

 

(1)五十鈴川のほとりに住む【天照大神】

 

(2)水神こと【宗像大明神】と、龍神こと【厳島大明神】の二人の童女

 

(3)神功皇后の二人の妹である【宝満大菩薩】【河上大明神】

特に河上大明神は【豊姫】(トヨヒメ)という名前で、その後【淀姫】(トヨ⇒ヨド)と名前を変えられて「河上神社」に祀られている。⇒【臺與】のことと思われる。

 

(4)住吉大明神こと【ウガヤフキアエズの命】、別名を虚空菩薩、または明星天子ともいう。

わが子の月神を大将軍として給う。

 

(5)大将軍には月神こと【高良玉垂】(こうらたまたる)、のちに高良大明神となって高良神社に祀られる。

⇒神様なので戦う訳にはいかないと、藤大臣連保(とうのおとどつらやす)と名乗る。

⇒高良玉垂は、実在した人物で「高良玉垂宮縁起」などに詳しい記録が残っている。

⇒その子孫が物部氏や草壁氏となる。

⇒九州王朝説を唱えた古田武彦氏も高良玉垂を王族または重要人物とみなしていたが、『八幡愚童訓』は読んでいないようだ。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai4/tikugoko.html

 

(6)船の舵取りには【阿曇磯良】(あずみいそら)が指名される。

⇒潮満玉、潮干玉を取りに行った豊姫(神功皇后の妹)を竜宮城に案内するが、鹿島の海底に住んで居たので体中に牡蠣殻が着いていた。渡来人の安曇氏とは何の関係も無いと思われる。能楽『香椎』には、このときの様子が描かれている。

http://hangyo.sakura.ne.jp/utahi/text/yob07.txt

⇒阿曇磯良は、筑前国では【志賀大明神】と呼ばれ、常陸国では【鹿島大明神】、大和国では【春日大明神】と呼ばれた。つまりこの三神は同体異名である。

(ということは藤原氏が阿曇磯良を封印していることになる?)

 

(7)四天王が石仏として現れ「敵国降伏」のありがたいお告げを授ける。

⇒現在、福岡市の箱崎神宮の額となっている。

 


これはいつの時代の出来事か?

さてさて、以上の登場人物を年代順に並べて年表を作った人が居ました。

ここに引用させていただきます。

【年表】https://blog.goo.ne.jp/violetmoon-blog-goo/e/2c032780306dfaa26fe5603081594705

 

この年表を詳細に眺めていると、あることに気づきませんか?

そうです、卑弥呼の没年と神功皇后の没年がほぼ重なっているということです。

ということは、この二人が何の関係もない赤の他人であるということは考えられません。

つまり、卑弥呼と神功皇后は同一人物であるということです。

 

どうやら渡来人である藤原氏が『日本書紀』を編纂する過程で、本物の神功皇后とその取り巻き連中を削除して、ニセ神功皇后を潜り込ませることに成功したようです。

 


ニセ神功皇后の正体

さてさて、『両子寺縁起』や『宇佐神宮御託宣集』、さらに『宇佐家伝承』には、全く違う神功皇后像が描かれています。

 

このことは、以前にも書いていますので、下記から参照してください。

◆『宇佐家が伝えるニセ神功皇后の真相』

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1443669559053981&set=gm.1270355663109181&type=3&theater&ifg=1

◆『御託宣集に書かれたニセ神功皇后の正体』

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1427202664034004&set=gm.1256160724528675&type=3&theater&ifg=1

 

つまり、全くの別人で渡来人が、本物の神功皇后と入れ替わっているということです。

これは、どういうことでしょうか?

 

仲哀天皇には、娥皇と女英という二人の側室がいました。

その名前から、とても日本人とは思えませんよねえ。

どうやらこの二人の側室のうちのどちらかが、ニセ武内宿祢の子を孕んで、その子を応神天皇として即位させることに成功したようなのです。

ここから「八幡信仰」が登場し、歴史が書き換えられます。

 

ちなみに、ニセ神功皇后は残虐非道で、旧皇族を皆殺しにし、その装束を奥方の頭に担がせて行進させたり、日本中の全ての神社の土を1m近く掘り起し、海砂と入れ替えさせたりします。

つまり神社と日本の神々の無力化を図ったということでしょうか?

出展【両子寺縁起】より

 

ということは、「邪馬台国論争」にもハッキリと決着が付けられますよねえ!

◆九州説・・・・卑弥呼こと本物の神功皇后の本拠地

◆畿内説・・・・ニセモノの神功皇后の本拠地