石見神楽から判明した『邪馬台国』の真実

石見神楽には「塵倫」という演目があります。
https://www.hiroshima-kankou.com/feature/kagura/enmoku

 

仲哀天皇が、異国から攻めてきた塵倫(じんりん、またはちんりん)という鬼を、弓で射殺すというストーリーなのですが、
(1)『古事記』『日本書紀』には、この記述は全くありません。
ところが、岩清水八幡宮に伝わる(2)『八幡愚童訓』には、この逸話が詳しく書かれているのです。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0358-26506&IMG_SIZE=1000%2C800&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%85%AB%E5%B9%A1%E6%84%9A%E7%AB%A5%E8%A8%93%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=1

 

(1)と(2)の違いは一体何なのか?
どうして2つの矛盾する歴史が伝わっているのか?
(2)が創作だとすると、お神楽は二千年間もフィクションを伝えているのか?

 

この事を極めてゆくと、なんと「邪馬台国」の実像が見えてきたのです。

 


邪馬台国論争をめぐる真相

ここでは、その結論だけを書いておきます。

あまりに大きすぎるテーマなので、綿密な考証が必要だからです。

 

◆「邪馬台国」の卑弥呼とは、「神功天皇」のことである。
◆「台与」とは、妹の「豊姫」のことである。
◆「男王」とは、仲哀天皇のことであるが、「塵倫」との戦いの最中に流れ矢に当たって亡くなった。(背後から味方に討たれた?)
◆のちに武内宿禰は、むごたらしい呪詛で仲哀天皇を(二度と復活しないように)埋葬しているので、首謀者は彼か?
◆記紀は、「仲哀天皇は琴を弾きながら一人で亡くなった」と伝えているが、このとき既に矢を受けて重体だった。
◆当時、神功皇后は「忍熊王」を孕んでいた。兄の「香坂王」(のちにこの兄弟は反乱を起こして鎮圧される)は、既に生まれていたが、幼少であったため神功皇后が天皇に即位して、侵略軍を撃退する。
◆以上の人物は「九州王朝」の由緒正しい後継者である。

 

◆ところがこの大混乱に乗じて、「ニセ神功皇后」こと、2人の側室の「娥皇」と「女英」のうちのどちらかが、武内宿禰と組んで反乱を起こす。
◆「娥皇」が神功皇后になりすまし、「女英」が豊姫(台与)になりすましたか?
◆武内宿禰が側室に孕ませたのが、応神天皇である。
◆彼らは、近畿の地に「大和王政」を樹立して、魏に朝献する。
◆なぜなら当時、九州王朝と大和王政はどちらも存在し、お互いに正当性を主張していたため、大和王政は第三国の「お墨付き」が欲しかった。
◆朝鮮半島の三韓は、同属が政権を握ったので、大和王政を支持した。だから戦わずに「ニセ神功皇后側」に服従した。

 

つまり、(1)も(2)も、ほぼ真実を伝えているということです。
この複雑な人間関係を理解しない限り、「九州説」と「近畿説」の議論には意味がないことになります。

 

とりあえず第一報ということで、今後もレポートを続けます。

 


【参考資料】 『八幡愚童訓』の原文

仲哀天皇の御時は、異国より責め寄せんと欲す。
先ず「塵倫」という者来たる。
彼の者の形は、鬼神の如く、色赤く、頭八つ有り。
黒雲に乗り、虚空を飛び、日本に付(着)いて、人民を取り殺す。
人遠く去ってこれを射れば、弓折れ矢くたり、近く寄れば、心迷い肝を消す。
人種既に尽きんなと欲する時、
帝王(仲哀天皇)、この事を不憫に思しめし、

自ら御幸なし、十善の力を以って、塵倫を降伏せんと思しめす。

 

<その後のあらすじ>
妊娠中の神功皇后は、仲哀天皇の出陣を制止しようとします。
あえて出陣した仲哀天皇は、塵倫を射殺すことに成功します。
ところが、自分自身も流れ矢に当たり、3日後に亡くなってしまいます。
このとき、500人の軍勢を率いて豊浦郡(関門海峡)に出陣したのが安陪高丸と安倍介丸であり、武内宿禰は参戦していません。
仲哀天皇には、娥皇と女英という二人の側室がいました。
神功皇后が嘆き悲しんでいると、住吉神(ウガヤフキアエズの化身)や月神(高良大明神)をはじめとする神々が、次々と助け船を出します。