『宮下文書』によるウガヤフキアエズの治世

今回は、『宮下文書』の記述から初代・ウガヤフキアエズの命の治世をお伝えします。


結論からいいますと、ほぼ『ウエツフミ』の記述を裏付ける内容となっており、逆に『ウエツフミ』には無かった新事実も数多く発見できました。


最も重要なことは、ウガヤフキアエズ王朝が大分県を中心に存在していたことであり、私の研究が正しかったことが証明されました。


ただし、実に巧妙な方法で、徐福の一族を皇祖と信じ込ませることにも成功しているようです。

 

それでは、その記述内容を速足で見てゆきましょう。

宮下文書の記述 (概略)

初代ウガヤフキアエズの命は、神都を筑紫島(九州)に遷都した。

<阿蘇(熊本県)について>

◆阿蘇山に陸軍の大本営を置き、阿蘇武男命を陸軍総元帥とした。
ここを「日原野の里・阿蘇山の宮」という。
⇒現在の城原神社(大分県竹田市)のことと思われる。景行天皇がここに侵攻して行宮を置いているので。

⇒「キバル」を「ヒバルノ」としてあいまいにしたか?


◆また、陸軍戦死者の霊を祀る神社を霧島山におき、「霧島神社」とした。
⇒『ウエツフミ』でも、霧島神社は渡来人の侵入を防ぐための結界とされている。つまり渡来人からみれば慰霊碑である。


◆阿蘇武男命とは、火照須命(山彦の御子)のことであり、もともと阿多の宮にいたが、陸軍の総元帥となったので、「日原野の里・阿蘇山の宮」に移住した。
⇒つまり鹿児島の阿多の地から豊の国の城原に攻め入った。


◆また足が速かったので、別名を「隼人彦命」という。
⇒これで阿多隼人の由来が分かる。

 

<宇佐(大分県)について>

◆宇佐に海軍の大本営を置き、豊玉彦命(エビスことヒルコの子孫)を海軍総元帥とした。
豊玉彦命は、目印として「波に日月」を描いた旗を8本作り、8人の御子に持たせたて、海賊退治に用いさせた。
これを宇佐のそばの小山(御許山?)に祀って「八つ旗大神宮」とした。
⇒これで宇佐神宮のご由緒が分かる。いくさの神である「八幡神」は神功・応神母子のはるか以前から存在した。
⇒『ウエツフミ』でも、「味方に有利を知らせるサインとして8本の旗が挙がった」という記述があり、「ほぼ勝利」を意味していたので、皇軍はこれを見ると歓喜した。
⇒つまり、この部分は真実と思われる。


◆また、阿蘇山に海軍総大将の健磐龍命(タケイワタツ)とその妻を祀り、「阿蘇姫神社」とした。
⇒現在の阿蘇神社のことだが、タケイワタツは神武天皇の子孫ではないことになり(時代が逆転する)、信ぴょう性に欠ける。 また、なぜ夫(彦)ではなく、妻(姫)を祀る神社なのか?

⇒徐福の子孫のうちの誰かが、本物の皇女を妻として、タケイワタツになりすましたのではないか?タケイワタツが皇軍最後の総大将であったため「海軍」としているのではないか?


◆海軍戦死者の霊を祀る神社をその近くにおき、「国造神社」とした。
⇒海軍の本拠地・宇佐ではなく、なぜ陸軍の本拠地・阿蘇に?つまり、宇佐が皇軍の本拠地であり、阿蘇が侵略軍の本拠地だったのではないか?
⇒ちなみに、本物の皇族には火山信仰は無いので、阿蘇は忌むべき山とされた(カグツチが切り殺されたことはご存知の通り)。宮下文書にはたびたび「富士の悪魔」という記述が登場するが、なぜ悪魔の住む山を信仰したのか? 徐福一族は悪魔崇拝者だった可能性あり。

 

<高千穂(宮崎県)について>

◆初代ウガヤフキアエズの命は、父母(山彦と豊玉姫)の遺髪と神霊を日向・奇日(くしひ、宮崎県のこと)の高千穂峰に祀り、のちにアイラ山(現在の祖母山)に移した。


阿蘇武男命(火照須命)は、父母(山彦と豊玉姫?)の神霊と鏡と剣を、日向の可愛岳(えのだけ)の麓の「長井の宮」に祀り、のちに可愛岳山頂に移した。
⇒現在は、神武天皇の「可愛山稜」とされているが、延岡市北川町長井に実在する。
⇒それにしても、なぜ山彦と豊玉姫をすぐ近くの2カ所に祀る必要があるのか?前者が本物で後者は徐福の子孫ではないのか?


◆初代ウガヤフキアエズの命は、高千穂峰に葬られた。
⇒地元では傾山山頂と伝わる。

 

<臼杵(大分県)について>

◆皇后・タマヨリ姫は、臼杵の佐野の小浜で生まれた。
だからここを「臼杵の宮」という。
ここから歴代ウガヤフキアエズの皇后は全員「第〇代タマヨリ姫」と呼ばれた。
⇒以降、代々の天皇の産屋が臼杵に置かれたことも『ウエツフミ』と同じ。
⇒『宮下文書』には書かれていないが、ウガヤフキアエズ王朝の神都がオオキタノの宮(大分の宮)であったことは、『ウエツフミ』が伝えている。

 


つまり、ほぼ正しい本当の歴史を語りながらも、「陸軍」として徐福の一族を潜り込ませることに成功しているようです。

 

この私の解釈を裏付けるように、『宮下文書』の記述には下記の大問題が残ります。

 

(1)「大陸人が九州に攻めてきたため、ニニギの命が富士山の高天原から九州に侵攻した」ことになっているが(これを天孫降臨という)、はたしてその記述は正しいのか?
⇒徐福が渡来したあと(BC3世紀以降)に成立したと思われる『富士王朝』は、ニニギの時代(BC7世紀以前)には存在しなかったはずである。
⇒徐福が渡来する前から富士山に高天原があったと仮定しても、いつのまに? いかなる理由で? 渡来人の徐福がそこを守る立場となったのか?

 

(2)「山彦(火遠理命)は、再び九州に外国人が攻めてきたため、その皇位を御子の阿蘇武男命(火照須命)に譲り、自分が初代ウガヤフキアエズとなった」という記述は正しいのか?
⇒読んだ全員がクラクラとするような迷文であるが、論理的に考えると、本物の山彦の御子が消されて、阿蘇武男命(火照須命)という謎の人物がウガヤフキアエズ王朝の創始者であるということになる。
⇒『ウエツフミ』では、ニニギの御子は海彦(ホスセリ)と山彦(ホオリ)の2人だけであり、火照須命なる人物はもともと存在しない。(記紀でもこのあたりが大混乱している)
⇒のみならず関西でヨスセリという豪族が、山彦に反乱を起こして潮満玉で溺れさせられているので、これが隼人のことと思われる。
⇒どうやらこのあたりから謎の勢力(隼人と大いに関係あり)が、阿多から阿蘇経由で侵攻してきて、のちに皇族にもぐり込んだものと思われる。

 

(3)『宮下文書』では、宇家澗不二合須(ウガヤフジアハス)王朝は51代とされているが、『ウエツフミ』が伝える、ウガヤフキアエズ王朝・74代とは、歴代の天皇名が全く一致しない。
⇒つまり、「富士アハス王朝」と九州の「ウガヤフキアエズ王朝」とは、全く別物ではないのか?
⇒あえて富士の名前を入れてまぎらわしい王朝名を創作したのは、本物と混同させるための偽装テクニックではないか?
⇒つまり、彼らのいう神武天皇とは徐福の子孫のうちの誰かであり、『ウエツフミ』の伝える第73代ヒダカサヌとは別人である。

 

以上の3点については、充分な検証が必要となってきますので、また章を改めます。

 


最後に私の推論を、子どもたちにも分かるような物語風にすると、こういうことになりませんか?

 

紀元前3世紀に、徐福という中国人が渡来して、富士山の北側に住み着き、勝手に「富士アハス王朝」を名乗り始めました。

ところが、ここから出た崇神天皇や景行天皇により、九州にあった本物の「ウガヤフキアエズ王朝」が滅ぼされてしまったので、真実はすべて闇の中となってしまいましたとさ。

うやむや、うやむや。