久住山は五瀬の命の聖地だった!

猪鹿狼寺(いからじ)縁起から判明した新事実

久住山山頂
久住山山頂

みなさんは、五瀬(いつせ)の命という方をご存知ですか?
そう、神武天皇のモデルとされているヒダカサヌのお兄さんですよね。

「彦五瀬の命」と呼ばれることもあります。
「神武東征」では、誰よりも早く関西の地に足を踏み入れて、地元の豪族であるナガスネヒコと衝突して、不幸にも命を落としてしまった皇室のプリンスでした。

だから、その終焉の地・和歌山には「竈山神社」が祀られているのです。

本来ならば、このお方が皇位を継承すべきだったので、ウエツフミには“死後に第72代ウガヤフキアエズの命に即位してあの世から統治した”と書かれています。
これは、ウガヤフキアエズ歴代74人の天皇の歴史においても全く異例のこと。
いかに優れた人物であったかが忍ばれます。
詳しい経緯はこちら

 

そして、久住山・猪鹿狼寺(いからじ)の縁起から、久住山全体がこのお方を祀る聖域であったことが判明しました。
それはある夜、突然に向こうからやってきました。
知人が連れて来た久住町出身の方が、不思議な伝説を語り始めたのです。

 

殺生禁止を犯した源氏の巻狩り

猪、鹿、狼の三文字並べて「いから」と読む不思議な名前は、源頼朝から贈られたといいます。

 

◆文治2年(1186)、源頼朝が鎌倉幕府を開こうとしているまさにその頃のこと。
◆源氏の武将である梶原景高(梶原景時の次男で三兄弟の一人)が、ここ久住高原にやってきて「巻狩り」を行います。
◆このとき、阿蘇神社の大宮司も同行して古来の手法を教えたため猪・鹿・狼などたくさんの珍しい獲物が獲れます。
◆ところが、ここは神武天皇の兄である「五瀬の命」を祀った霊地であったため、このお寺の住職が大反対しますが、結果的に殺生が行われてしまいます。
◆のちに源頼朝公がケモノたちの霊を供養するため、このお寺に寄進し「猪鹿狼寺」の号を賜ったといいます。

 

さてさて、さっそく調べてみるとこのお寺の縁起が石碑として残っているではないですか。
写真がその縁起なのですが、ここには重要な情報がいくつも満載されています。
みなさんは、いくつ気づきましたか?
ここに、私が注目した驚きの新事実を書いておきます。

 

(1)五瀬の命の神号は健男霜凝日子である!

これは、私にとっては最もショッキングな情報でした。
つまり、竹田市神原地区にある「健男霜凝日子(たけおしもこりひこ)神社」とは、五瀬の命を祀っている神社だということになります。
確かにここの「下宮」には、豊玉姫と五瀬の命が祀られているのですが、宝珠を運んだ龍の伝説に惑わされて、五瀬の命を見落としていました。
というか、みなさんもそのように思い込まされていたのではないでしょうか?
そうです、五瀬の命に関する情報は、(多分意図的に抹消されて)どこにも残っていないのです。

 

ということはですよ、もっと大切なことは、「五瀬の命」は祖母山と久住山の真ん中にある竹田市あたりを本拠地としていたということです。
だから、“二つの峰に登ることができる都”という意味の「フタノボリの大宮」は、ここ竹田市だったのです。
私は菅生地区こそがその場所だと考えていますが、まだ証拠が挙がっていません。
その弟である神武天皇(ヒダカサヌ)が、兄とは別の土地に住んでいたとも考えられません。
これは、『ウエツフミ』にも書かれていることなので、さらに詳しくはこちらから。

 

ちなみに、久住山の山頂付近にある「御池(みいけ)」とは、天孫降臨の地ではなく、五瀬の命のご神池だったのですね。
大変、勉強になりました。

 

健男霜凝日子(たけおしもこりひこ)神社の下宮
健男霜凝日子(たけおしもこりひこ)神社の下宮

(2)阿蘇氏はヒダカサヌの末裔ではない!

これも、大事件です。
実在する方々には大変なご迷惑をおかけすることになりますが、ハッキリと書いておきます。

 

『ウエツフミ』によると神武天皇(ヒダカサヌ)の一族は、厳しく殺生が禁じられており、肉食をすることはご法度でした。
なぜなら天照大神がそう教えたからです。
詳しくは、こちらから。

 

やはり、私のにらんだとおり、阿蘇氏とは神武天皇(ヒダカサヌ)の一族を滅ぼした側の末裔であり、だからこそ肉食を許していたのです。
ちなみに、馬肉が阿蘇の名物であることは有名ですが、ウエツミ編集者の大友能直も(その前書きのなかで)「猪の肉を食らえばカタヒになる」と痛烈に批判しています。

 

猪鹿狼寺の縁起から、阿蘇神社の大宮司を代々務めた阿蘇家には、「古来巻狩り手法」が伝わっていたことが分かります。
そもそも軍事演習である「巻狩り」を、阿蘇神社が行っていたということは、軍事力を保有した駐留軍であったということです。
ましてや、神武天皇の末裔を自称するならば、久住山が五瀬の命の聖地であることを知らないはずはあり得ません。

 

これで、「草部吉見神社」との対立にも終止符が打たれそうです。
つまり、こちらのほうが本物の神武天皇の御子であるヒコヤイミミの命を祀っている可能性が高いということになります。
だからこそ、ここが「日本三大下り宮」となっているのでしょう。
つまりヒコヤイミミの霊魂が、ここに封印されているのです。
【参考ブログ】

 

ただし、「どちらが本物の神武天皇の末裔か?」という議論は全く不毛です。
なぜならば、神武天皇の定義があいまいだからです。
一方は、ヒダカサヌのことだとしており、他方はそれを滅ぼした外国の王族のことだと考えているならば、「神武天皇の子孫である」という命題はどちらも正しいことになります。

 

(3)源頼朝は緒方三郎惟栄を信頼していなかった

平家が滅んだ直後、九州を守っていた緒方三郎惟栄の勢力圏内に源氏の武将・梶原景高が進駐してきたことが分かります。
大宰府への逃走を目指していた平家一門は、九州上陸を目前にして壇ノ浦(関門海峡)で滅びたことはご存知のとおりですね。
緒方三郎惟栄の強大な勢力を恐れて、宇佐神宮への逃走計画を大宰府に変更したことは『平家物語』にもあるとおりです。
そもそも「巻狩り」とは、現代の軍事演習であり、梶原景高がそれを久住高原で行ったということは、「平家無きあとの九州統治に関する源頼朝の姿勢」であったことが分かります。
つまり、源頼朝は緒方三郎惟栄に豊後を守らせる意図は全く無かったということです。
それが証拠に、のちに自分の隠し子である大友能直(ウエツフミの編集者)を送り込んできます。

(4)源氏とは『九州王朝』の末裔である!

さてさて、この「縁起」には全く書かれていませんが、緒方三郎惟栄の領地内に進駐してきた梶原景高の軍勢に対して、「聖地の侵犯である!」との地元批判が盛り上がったことは想像に難くありません。
このもめごとに決着を付けるため、源頼朝が採った解決策が「猪鹿狼寺」への寄進だったのです。
つまり、一方で源氏の軍事力を見せつけておきながら、地元の神々に対しては恭順の姿勢を示すという、まさに「アメとムチ政策」だった訳です。

 

そして、この奥豊後の統治という難しい課題を、自分が一番信頼していた隠し子である大友能直に任せたことは、源頼朝の統治者としてのセンスの良さを伺わせます。
つまり、ここはNo.2を送り込まなければならないほど重要な土地だったということです。

 

ところが、その大友能直が祖母山に伝わる本当の神話にすっかり傾倒してしまい、のちに『ウエツフミ』を編纂することになるとまでは予測できていなかったかもしれません。

 

しかし、同じ源氏の武将・梶原景季(梶原景高の兄)が隠し持っていたという神代文が『ウエツフミ』の底本になったと書かれていることから、源氏一門と祖母山~久住山に伝わる伝説の九州王朝とは、切っても切れない密接な関係にあったことを暗示しています。

 

ちなみに、源頼朝が京都ではなく鎌倉に幕府を開くことになった理由とは、ズバリ「比叡山」と対立していたからだという説を読んだことがあります。
だからこそ、鎌倉には従来の「密教」ではなく「禅宗」という新しい仏教が誕生したのだと。

 

ということはですよ、大和王朝を守る比叡山と公家と平家一門、九州王朝を受け継ぐ源氏一門、その対立構造で鎌倉時代を捉えることは、やや乱暴すぎる解釈でしょうか?