神武天皇の子孫たち

神武東遷したヒダカサヌですが、その後この一族は、一体どうなったのでしょうか?
正史には全く記されていない、日向族とその子孫たちの顛末。
今回は、あちこちに散在する民間伝承と、神社のご由緒を頼りに、その追跡調査を試みてみました。


長男・タギシミミ

ヒダカサヌは、若い頃アビラヌ姫(アヒラツ姫)と、今でいう「出来ちゃった結婚」をしていますが、この方は熊襲族の阿多一族の出身だったためか「向女(むかいめ)」という扱いで、長男のタギシミミが皇位を継承することはありませんでした。

 

父のヒダカサヌから「将来何になりたいか?」と聞かれたタギシミミは、「東北で医者になりたい」と願い出て、陸奥の国・菊多山に宮殿を建てて地方長官となります。

 

ところが、その後“化け猫”が憑りついて、父の正室のイスケヨリ姫に夜這いをかけたり、熊本の益城で反乱を起こしたりしたので(タギシミミの反乱)、兄弟たちから滅ぼされて、阿蘇の根子岳に祀られます。
(だから本来は“猫岳”であると『ウエツフミ』は伝える)

 


五男・キスミミ

この方に関する記述は『ウエツフミ』にもほとんどありません。
タギシミミと同じくアビラヌ姫の子どもなのですが、「タギシミミの反乱」ではカムヌナガワミミの側についており、このときに名前だけが登場します。

 


次男・カムヌナガワミミ 【綏靖天皇】

一方、ヒダカサヌの正室イスケヨリ姫の最初の子どもカムヌナガワミミは、第74代ウガヤフキアエズの命に即位します。


大分県臼杵市の大の浜に産屋を建てようとしたとき、臼杵川の上流のヌナ川から材木が自然に流れてきたので、この名がつけられました。
(ウエツフミの記述はここで終わる)

 

この方が、綏靖天皇だと言われていますが、このあたりから『倭国大乱』に巻き込まれたためか?その子孫たちの消息があいまいになります。
だから、この第2代・綏靖天皇から、第9代・開化天皇までを「欠史八代」と呼び、実在しなかった天皇とされているのです。

 


三男・ヒコヤイミミ

父のヒダカサヌから「将来何になりたいか?」と聞かれたヒコヤイミミは、奈良の榛原(はりはら)の小野(鳥見山とも呼ぶ)に建てられた新しい神社(橿原神宮の前身か?)の宮司を願い出て、皇祖神たちを祀る祭儀役となります。
(ここまでがウエツフミの記述)

 

その子孫に関する手がかりが、奈良県御所市の「野口神社」に残されています。
http://www.asahi-net.or.jp/~pf8k-mtmt/norimono/touring/2007/choi2007/nogutijinjya.html
のご由緒から連想されることは、ヒコヤイミミの領地であった宮崎県高千穂町河内郷に居た長者が、ヒコヤイミミの東征に着き従って奈良県御所市に移住し、ここで茨田連(まむたむらじ⇒まったむらじ)と呼ばれるようになります。

 

さらに、『日本書紀』には、宣化天皇の時代に「食料が不足したので、阿蘇氏に命じて(阿蘇氏の領地である)河内の国の茨田郡のお蔵(ミヤケ)のモミを献上させた」という記述があります。

この河内の国が大阪の河内であったのか?高千穂の河内であったのか?決定的な証拠はありませんが、いずれにせよヒダカサヌの子孫である阿蘇氏(後述)が治めていたということは、後者である可能性が高いということです。

 

孫の国造速瓶玉命

ところが、ここにややこしい子孫が登場します。
それが、国造速瓶玉命(クニツクリハヤミカタマ)であり、「国造神社」の主祀神であり、ヒコヤイミミの御子と言われています。

 

その「国造神社」の由緒書きを見ると「第10代崇神天皇の時代に、国造速瓶玉命が、阿蘇の初代国造(くにのみやっこ)に指名された」とあります。
私はピンと来ましたが、みなさんは何かに気づききせんでしたか?

 

そうです、「なぜヒダカサヌの9世のちの子孫が、ヒダカサヌの孫に命令しなければならないのか?」という大矛盾です。
つまり、崇神天皇は、自分のはるか昔の祖先をクニノミヤッコに指名したことになってしまうのです。

 

従って、神社のご由緒がのほう正しいとすると「崇神天皇と神武天皇の孫の国造速瓶玉命は同時代の人物である」という結論になります。
つまり、神武天皇~崇神天皇に至る最初の10代は(景行天皇まで入れると12代は)、順番に即位したのではなく、同時代の人物であり、便宜上ナンバーが振られているだけだと断定しても良いと思います。

 

さらに、高森町の「草部吉見神社」のご祀神をもとに、国造速瓶玉命という人物を調べてみると、なんとヒコヤイミミの“娘婿”とあるではないですか。
ヒコヤイミミには、天彦と新彦という2人の男子が居たのですが、それ以外に娘が一人おり、その夫が国造速瓶玉命なのです。
(ところが、国造神社によると国造速瓶玉命はタケイワタツの第一子とされている???⇒誰かが何かを誤魔化そうとしていることは明らかです)

 

つまり、国造速瓶玉命とは外戚関係で入り込んできた出自不明の人物ということであり、いうなれば「崇神天皇の一派がヒコヤイミミの娘を人質にとって皇室に割り込んできた」という解釈も可能となります。

 

なぜ、崇神系統が神武系統に割り込む必要があったのか?
もうお分かりですよね。
この2つの系統は、縁もゆかりも無い他人同士であるということです。

 

これは私見ですが、現在でも「国造神社」と「阿蘇神社」に伝わる「御田(おんだ)祭」の写真を見て、思わず“ゾッ”とするほどの悪寒が走りました。
それは「首をはねられた皇族たちが首箱に入れられて、その妻たちがこれを担がされ、見せしめのため行列させられている」様子が私の脳裏に浮かんできたからです。
つまり残忍さと恐怖により人民を統治した崇神天皇が、「反抗したらどういうことになるか?」を、毎年の祭として見せたのではないでしょうか?
これが私だけの妄想であってくれれば良いことを祈ります。


四男・ヒコヤイミミ

父のヒダカサヌから「将来何になりたいか?」と聞かれたヒコヤイミミは、「阿蘇で医者になりたい」と願い出て、高千穂の国・阿蘇山に宮殿を建てて地方長官となります。
これが、阿蘇に展開した皇族のルーツであり、その子孫たちが「阿蘇神社」に祀られることとなります。

 

もちろん「ウガヤフキアエズ王朝」にとって阿蘇の地は重要な拠点でしたが、第8代・ヒカリトオルワラワセヒメが、相良と日向の境に葬られたのち、第45代・ソラツアラソイカラスタケが、阿蘇のエジリという場所で落馬して怪死してから、代々ここに都を構える天皇は居ませんでした。
(そのご陵も阿蘇にあると『ウエツフミ』は伝える)

 

ここにもうひとつのややこしい問題があります。
それは、草部氏と阿蘇氏の対立なのです。
このヒコヤイミミを祀るのは「草部吉見神社」で、「阿蘇神社」ではないとする説が存在することです。
これは非常にデリケートな問題で、現在も続いているので、コメントは差し控えますが、この文章を読んでいくと、なんとなく私の見解がお分かりいただけると思います。
【草部吉見神社】http://mrtoma.hateblo.jp/entry/2016/01/27/%E8%8D%89%E9%83%A8%E5%90%89%E8%A6%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%AF%E8%AC%8E%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%81%84%E3%80%82

孫の健磐龍命

このヒコヤイミミの息子に、有名な健磐龍命(タケイワタツ)という英雄が登場します。
このお方の伝承は、阿蘇~高千穂にかけて、あちこちに残されており、実在した可能性が最も高い皇族として注目されます。
例えば、阿蘇の盆地の水を抜いて田んぼに変え、ナマズを退治したなどの民間伝承が伝わっており、地元民から愛され尊敬されていたことが伝わってきます。

 

ところがここにまた、例のややこしい問題が浮上してくるのです。
宮内庁にある「阿蘇氏系図」によると、「タケイワタツは崇神天皇から科野国造に任命され、国造速瓶玉命が阿蘇国造として(併存した)」という記述です。
阿蘇国とは別に、科野国という国があったことになり、しかもまた「崇神天皇と神武天皇の孫のタケイワタツは同時代の人物である」ということになります。

 

私は、「併存していた」のではなく、お互いに「対立しており」譲らなかったのではないかと解釈しています。

さらに、「阿蘇神社由緒略記」によると、「タケイワタツはヒコヤイミミの娘を娶った外戚であり、神武天皇から九州大護を命じられた」と書かれているのです。
つまり、国造速瓶玉に関する「草部吉見神社」の見解とは、全く裏返しというのがお分かりいただけましたか?
【参考サイト】https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55794751.html?__ysp=6Zi%2F6JiH5rCPIOiNiemDqOawjw%3D%3D

 

まだ分からない人に解説しておきますが、
◆タケイワタツこそが、ヒダカサヌの直系であるとする「草部吉見神社」
◆国造速瓶玉こそが、ヒダカサヌの直系であるとする「阿蘇神社」
どちらが正しいのかは、あなたが判断してください。

 

健磐龍命 対 景行天皇

この問題を理解するには、第10代・崇神天皇の孫とされる第12代・景行天皇という人物の存在がキーとなります。
ご存知のように、景行天皇は『土蜘蛛征伐』と称して、大分県竹田市菅生地区にまで攻めてきます。
⇒詳しくは、こちら

 

当然、この菅生地区と隣接している阿蘇・高千穂地区にも足を延ばして、タケイワタツ(あるいはその子孫たち)とも会っている(あるいは戦っている)ハズなのですが、『日本書紀』には、ごくごく短い一文だけが残されています。

 

「景行天皇が阿蘇に着いたとき、広い野原には誰も居なかったので、『誰か居るか?』と尋ねると、阿蘇津彦と阿蘇津姫の二神が登場してたちまち人間になって『私たち二人が居るではないか』と答えたので、この国を阿蘇と名付けた。」

 

この阿蘇津彦こそ、タケイワタツであると「阿蘇神社」は伝えています。
つまり、「他の皇族はことごとく滅ぼされたのに、タケイワタツとその妻だけが逃げ伸びて生存していた」と解釈することができます。
本当のことを書くと天皇家ににらまれることを恐れた藤原不比等は、事実をこのような比喩で伝えたのではないでしょうか?

 

一方、『ホツマツタエ』においても、景行天皇は阿蘇国造・速瓶玉命の子の「惟人」に命じて阿蘇津彦・阿蘇津姫を祀る神社を創建させたと伝えています (肥後国誌等にもある)。
つまり、ここでついにタケイワタツは景行天皇=国造速瓶玉連合に滅ぼされて、阿蘇の神となったと解釈することができます。
なぜなら景行天皇は、自分が滅ぼした相手を封印するため、神社を創建しているからです。
詳しくは、こちら

 

国造神社とは?

この景行天皇が創建した神社こそ「国造神社」ではないか?と、私は考えます。
なぜなら、地図上にプロットしてみると分かりやすいのですが、「阿蘇神社」は阿蘇山(中岳)と久住山を結んだ「火のライン」の上に位置しています。
しかも、この線を真っすぐ北に延長すると、そこに「宇佐神宮」があります。
つまり、この「火のライン」を途中で遮断するために、その線上にあえて「国造神社」が配置されているのです。
【参考サイト】http://ameblo.jp/marline358/entry-12151175212.html

 

しかもこの神社には、不可解なことが一点あります。
それはタケイワタツが滅ぼしたはずのナマズが、神様として本殿の右側に祀られているのです。
しかも横向きに配置されて、まるで左側に配置された「建磐窓こと実は建磐龍」と対面するかのように・・・・
(通常は左が建磐窓ならば、右は豊磐窓のはずです)
つまり、この2神は国造速瓶玉命を守護させられているのです。

崇神天皇・景行天皇の正体?

私の推察するとおり、崇神天皇が大陸から渡ってきた「徐福」本人またはその子孫であるとするならば、景行天皇とは、この徐福一族が連れて来た「職業軍人」であるということになります。
しかも住所不定なのです、日本の天皇が???
⇒詳しくは、こちら

 

そして、この職業軍人・景行天皇と政治家としての国造速瓶玉 vs タケイワタツとの戦いは、正史では一切無視されましたが、実は激しい戦闘が繰り広げられたのではないでしょうか?

 

さらにいえば、ウガヤフキアエズ王朝の本拠地のあった大分県は、景行天皇によりほぼ征服されたので、由緒正しい皇族の末裔たちは、さらに山深い高森~高千穂にこもって抵抗を続けたということです。

 

しかもその頃、大和地方に展開していたカムヌナガワミミ(次男で綏靖天皇)やヒコヤイミミ(三男)とその末裔たちは、跡形も残さないほど消滅させられて、女系だけが「ヤマト連合政権」に取り込まれていったのではないでしょうか?


そして、これを『倭国大乱』と呼び、全ての資料が破棄されてしまった、という流れになります。

 


結び

さてさて、天変地異を理由に奈良の地へと遷都したヒダカサヌ(第73代・ウガヤフキアエズ)の一族でしたが、結果は以上の通り惨憺たるものに終わっています。

 

大分と奈良の2カ所に勢力が分散したうえ、ナガスネヒコとの戦いで疲弊していたこの一族を、ライバルである地方豪族たちや外国人勢力が見逃すはずもなく、何年もの間天皇が定まらないという異常な状態が続いて、日本全土はまるで戦国時代の様相を呈してきます。

 

ここに、74代、約800年間も続いた『ウガヤフキアエズ王朝』はその終焉を迎え、歴史の表舞台から姿を消して、混とんとした闇の中へと隠れることになるのです。