龍穴の水を抜いた無謀なお殿様のお話し

龍が棲むという伝説の「穴森神社」(大分県竹田市)。
江戸時代のはじめに、ここのほら穴に溜まっていた水を抜かせたのは、

岡藩・第3代藩主・中川久清公でした。

その経緯が『豊後国誌』に詳しく記されていますのでご紹介します。

 


豊後国誌 巻之六 直入郡 現代語訳

昔、ここは原生林が鬱蒼と生い茂り、日も差さないほど暗い場所でした。
かたわらに池があり、碧い波を常にたたえていました。
その深さは底なしで、巨蛇が棲んでおり、その淵に隠れていました。


村人は、これを敬い畏れて崇めまつっており、「池の明神」と呼ばれていました。

毎年「九次の祭り(現在の霜月祭り)」と呼ばれるお祭りが行われますが、もしも神の意に添わなければ、突然風雨が巻き起こり、必ず祟りがあり、村人に被害者が多く出ました。

 

岡藩の殿様・久清公は、これを聞くとこう言いました。
「そもそも人民の神とは、藩主である私のことである。
良い神ならば主に従うはずだ。
害をおよぼす神がどうして正義といえるのか?」

 

そこで「大河原なにがし」という者に褒美を与えて、土師、藤北、次倉、九重野あたりの山林から木を切りだし、池の水を抜いて、妖神を追い出させました。

 

作業すること三日、突然山林が鳴動しはじめ、暴風雨に稲妻や落雷、昼も夜も真っ暗となり、野獣も鳴き始めました。

 

役人や村人は驚いて逃げ出そうとします。
殿様は目をひんむいて怒り、刀を抜くと
「命令に従わないものはたたき切る!」と叫びました。
そこでようやく20日後に工事が終わり、村人はやっと安心しました。

 

現在までその恩恵は続いていますが、これはまさにお殿様の力でした。
池の水はもう無くなっており、その跡が洞窟となりました。
広さ約3.0m、高さ約2.4m、その深さは不明。
これこそが「龍の巣窟」なのでした。

 


元禄の頃、第5代・中川久通公がお殿様となったあと、たまたま村人3人が松明を掲げてこの穴に入ります。
30数歩入ったところで、物が穴を塞いでいました。
怪しい石で、色は黄色、大きさは一斗樽ほどもありました。

 

これを石でたたき壊すと、割けてまっぷたつに割れました。
外に運び出して見てみると、間違いなく獣の頭の骨で、何百年たっているか分からないほど(古いもの)でした。
牛の頭にしては小さく、犬にしては大きすぎるほどでしたが、なんと龍頭の骨でしたので、驚いてお役人様に報告します。

 

宝永2年(1705年)、お役所が命じて、そのそばの石垣にノミで(横穴を掘り)これを納めさせます。
古い祠を修理して、名前を改め「穴森の神」とし、大神氏の一族に祭儀を行わせました。

 


現在でも伝わる、巨蛇が人に化けて村に降りてきて、大神氏の娘・華本(はなのもと)に通ったという伝説がありますが、生まれた子供は「皸大童(あかぎれだいた)」と呼ばれ、緒方一族の祖先とされています。

 

『平家物語』や『源平盛衰記』が、これを「姥嶽の神」の子孫としているのは間違いです。
そもそも「姥嶽の神」は、白雉の天子(第36代孝徳天皇)が創めたものであり、別名「健男霜凝日子」とも呼ばれます。
なぜ邪神と混同して、本当の龍神の徳を穢すのでしょうか?

 

当時の人さえも間違えて、緒方三郎惟栄らを「姥嶽の神」の子孫としてるくらいですから、現代の人たちが間違えるのも当然でしょう。
ここは正しく伝えるべきであり、「大野の人物」の欄を参照してください。

 

・・・・ということで『豊後国誌 大野郡』をみると、大神惟基を始祖とする緒方氏の先祖は「大国主命」であり、「姥嶽の神」の子孫ではないと、きっぱりと否定しています。


やんちゃなお殿様の正体?

さてさて、お話を岡藩のお殿様に戻します。
このお殿様、いったいなぜこんな無謀ともいえる暴挙に出たのでしょうか?
しかも、「悪い神なら滅ぼされて当然」とまで言い切っています。
この自信は、いったいどこから来たのでしょうか?

 

答えから先に書きますが、それは「信仰」にありました。


中川氏が信仰していたのはキリスト教だといわれており、竹田市には現在でも「キリシタン大名」であったことを示す証拠が多く残されています。

例えば、こちら

 

その家紋として使われた「中川久留須」ですが、本来の家紋「抱き柏」があるのに、なぜ別の家紋が必要だったのでしょうか?

 

「キリスト教」にもいろいろと宗派があるので、ひとえに「キリスト教」といってしまっては、信者の方はお怒りになるかもしれません。

 

批判を恐れずにあえて書きますが、このマークは「グノーシス派」や「マニ教」と同じですよねえ。
つまり「マニの車輪」を図案化したものです。
同じ系統のデザインを使っていることで有名なのが、ヒットラーのナチス・ドイツであり、そして、薩摩藩の島津氏なのです。

 

つまり「無神論者」であり、「悪魔崇拝者」というよりは、正確には「悪魔容認者」であった可能性が高いということです。

 

だから、この「穴森神社」の逸話にかかわらず、中川の殿様は奥豊後地方にあった神社仏閣やパワースポットなどをことごとく破壊し、封印しています。

 

例えば、
◆城原神社のご神体や扇森稲荷神社(こうとうさま)のご神体を略奪して、岡城の城内に保管したこと。

(現在は愛染堂にありますが)
◆そもそも扇森稲荷神社のある場所は、もともと古墳であり、古い鎧兜が出土しているのに、そのうえからお稲荷様を建てさせたこと。
◆志賀氏の信仰する「志加若宮神社」に、狛犬を踏みつけたような謎の灯篭を奉納していること。

⇒詳しくは、こちら
◆神武天皇の御陵であると伝わる「小富士山」に、第8代・久貞公の墓を建てさせて、ここのパワーを封印していること。⇒詳しくは、こちら
(同行した霊能力者が「これは完全に封印であり、しかもよく分かっている人の仕業だ」と言ってました)

 

などなど、数えたらきりがありません。


私に言わせれば、「まさに悪魔の所業じゃ~!」ということになってしまいます。

 


豊後大友氏が、相模の国から赴任してきたいわば「よそ者」であったのに、豊後の地に伝わる八百万の神々に深く傾倒していったのに対して、中川氏は全く逆の行動に出ています。


しかも信仰仲間と思われる薩摩の島津氏は、たびたび豊後国内の大友氏の領地に侵攻してきて、神社仏閣をことごとく破壊しています。(豊薩戦争)

 

その中川氏の系図を遡ってみると「清和源氏」の流れであると説明されていますが、同じ源氏系の大友氏とは、全く水と油であることがよく分かります。

しかも、下記のサイトでは、いきなり「その発祥は不明」と書かれています。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakagawa.html
中川氏・初代の清秀公は、父・重清の実子ではなく養子であり、もともと平家であったのに、養子になったことで源氏に変えたとあります。
いかにも怪しいこの経歴から「背のり疑惑」まで浮上しています。

 

私自身も竹田市の出身なので、そのお殿様の悪口を言いたくないのですが、この『豊後国誌』を書いた筆者たち、なんとそのなかにはあの有名な山水画家の田能村竹田も含まれているのですが、お殿様の言葉をこのように表現しているのがとても気になります。

 

「夫れ民の神は是主なり。和の神は之に依る。豈に之害に利有らんや。」

 

つまり、「民の神は主(イエスキリスト?)であり。日本の神はこれに従う。害を及ぼすなら滅ぼしてしまえ!」

と訳したほうが、正確なのかもしれません。