西郷隆盛とニニギの命

一見、何の関係もないこの2人ですが、実は深いところでしっかりとつながっていたのです。


『ウエツフミ』が教えてくれる、西郷隆盛のご先祖様とは?

 

長くなるので、結論から先に書いておきます。


その答えとは、西郷隆盛はアメノタヂカラオ(天手力男)、そうあの天の岩戸をこじ開けた怪力の神様の子孫だったのです。


西南戦争末期の西郷の謎の行動

いよいよ敗戦が決定的になった明治10年8月16日、まさに「お盆の翌日」でした、西郷隆盛は滞在先の延岡市北川町の児玉熊四郎宅「解散命令」を出します。


ちなみに、この民家の裏山にはニニギの命の「可愛山稜参考地」(鹿児島との関係上どちらがホンモノか分からないという意味か?)があります。

 

「我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯其の欲する所に任ぜよ。」

つまり、「もう玉砕するしかないので、降伏する者は自己判断で軍を離れろ!」というのです。

 

最後まで残った精鋭部隊は謎のルートを迷走しはじめます。

 

それは、可愛岳⇒祝子川渓谷⇒高千穂の三田井
という超過酷な山岳ルートです。


追手から逃れるために、あえて険しい山に入った?
そうではありません。

 

当時、西郷隆盛は持病の睾丸が腫れあがって馬にも乗れない状態だったのに、戸板に担がれてこの山道を登ったというのです。
現在でもこのルートを走破するには、相当の装備と覚悟が必要です。

 

つまり、西郷隆盛は「日向三代の神々」に助けを求めたか、あるいはその傍らで自決しようと考えていたに違いありません。

 

なぜなら、
可愛岳(えのだけ)・・・・ニニギの命が葬られた場所
祝子川(ほおりがわ)渓谷・・・・山彦(ことヒコホホデミ)が生まれた場所
高千穂の三田井(みたい)・・・・初代・ウガヤフキアエズの命が葬られた場所
だったからです。

 

ウソのような話ですが、そもそも熊本鎮台を攻めていた薩軍は、なぜか祖母山・傾山・大崩山を中心とする、いわば『神話の故郷』を目指して敗走してきているのです。

 

つまり、西郷隆盛の心の中には『日向三代信仰』があったことを伺わせる逸話です。
それだけではありません・・・・。

児玉邸跡にある解散会議の再現
児玉邸跡にある解散会議の再現
迷走ルートの説明図
迷走ルートの説明図
可愛山稜に立つ看板
可愛山稜に立つ看板


そもそも当時の鹿児島とは?

批判を恐れながらも、あえて分かりやすく解説すると・・・・


◆薩摩藩主の島津公は「儒教」の信奉者であり
◆庶民の大半は「浄土真宗」の信徒であったので
◆島津公は「浄土真宗禁止令」を出した。
◆信徒は地下に潜って「隠し念仏」が登場
◆この勢力が蜂起して薩軍となった。

さらに鹿児島は『廃仏毀釈』が一番酷かった地域で、お寺のほとんどが廃寺になり解体されたといいます。

 

そもそも、鹿児島に浄土真宗の信徒が多いのはなぜなのでしょうか?
それは、大隅半島が「ウガヤフキアエズ王朝」の一部だったからです。
この「ウガヤフキアエズ王朝」から「山王信仰」が登場し、それが「浄土真宗」へとつながってゆきます。
特に「真宗大谷派」は、もともと皇室との結びつきが強い宗派でした。

※だから現在でも聖徳太子の肖像画が仏壇の左側に掛けられます。

そういえば、織田信長に反抗して一揆を起こしたのも、浄土真宗の一派である「一向宗」でしたよね。

 

一方、薩摩半島には渡来人が多く住み着いていました。
第4代ウガヤフキアエズの命は霧島山頂に侵略者除けのための結界を張ったのであり、これが「霧島神社」の本当のご由緒です。
⇒詳しくは、こちら

だから今でも、薩摩半島と大隅半島では全く気質が違うので、お互いに仲が悪いと聞きます。

 

もし、島津公が開国派、西郷隆盛が尊王攘夷派だったとしたら・・・・?
ちなみに、西郷隆盛が「勤皇派の月照と共に縛られて錦江湾に投げ込まれた」という事件をご存知ですか?
諸説ありますが、私はこれを島津公による勤皇派の弾圧とみており、逆にいえば、西郷はガチガチの皇室ファンだったのでパージされかけたと解釈しています。

 

さらに、島津家の家紋は丸に十の字であり、私はこれを「薩摩クルス」と呼んでいます。
ここから親英国派の「薩摩ワンワールド」というカルト集団が登場します。
この勢力と長州を本拠地とする「モンゴルワンワールド」が結託して、明治政府という名前の外国傀儡政権を誕生させます。

 

異論も多いところなので、あえてサラリと流します。

 


そもそも西郷隆盛とは何者か?

それでは、本題に戻ります。
『ウエツフミ』には、西郷隆盛のご先祖である熊本の菊池氏に関する記述があります。
西郷隆盛の本名が「菊池源吾」であることはご存知のとおり。

※諸説ありますが、西郷の出自を粉飾する工作がいろいろと行われているようです。

 

菊池氏は、弥生時代には「ククチ氏」と呼ばれていたのであり、それはアメノタヂカラオの子孫なのでした。
現在の熊本空港あたりを本拠地とし、邪馬台国の卑弥呼の軍隊(私の推定では佐賀にあった中国傀儡政権)と戦っています。
このことは以前に書いていますので、さらに詳しくは、こちらから。

 

もし、西郷隆盛がアメノタヂカラオの子孫ならば、ニニギの命の重臣の子孫であるということになります。
なぜなら、タヂカラオはニニギの命に伴って天孫降臨してきているからです。

 

その西郷隆盛が、ニニギの命を頼って可愛岳に死に場所を求めたのは、自然といえば自然の流れです。
つまり日向三代の神々と殉職しようとしたということでしょうか?


結局、この思いは実現せず、西郷は故郷である鹿児島を目指しますが・・・・。


明治天皇のスタンス?

ここで気になるのは明治天皇のスタンスですが、私は「大室寅之助説」を否定します。
郷土・大分県の先輩である鬼塚英昭先生には申訳ないのですが(ご冥福をお祈りします)、これもデッチ上げである可能性が高いと考えます。
そうたやすく、民間人が皇室に潜り込めるものではないと思うからです。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n297974?__ysp=5piO5rK75aSp55qHIOWkp%2BWupOWvheS5i%2BWKqeiqrA%3D%3D

 

つまり、明治天皇は「田布施システム」には組み込まれておらず、天皇はやはり天皇であったということです。

 

逆に、外国人カルト集団の作った「明治政府」に深い憂慮を示され、西郷隆盛に「討幕の詔」を発した、というのが真相のようです。

 

その証拠として、
◆明治天皇は、西郷を大変可愛がっており、その死を悲しんで歌を詠んだ。
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1015794383.html
◆生前には西郷隆盛に「菊花のご紋章」(下記写真参照)を下賜しており、死後12年経ってから「従三位」の称号を授けている。つまり、西郷隆盛を貴族として認めた。
◆のみならず、既に死んでいるハズの菊池氏の祖先にも「従三位」を授与した。
(鎌倉時代~室町時代~南北朝時代の13代、15代、16代、17代の菊池氏当主になぜ従三位を?つまり菊池氏の名誉回復を図ったか?)
◆明治天皇は、西郷隆盛に一着しかない「陸軍大将」の軍服(下記写真参照)を支給した。
この軍服を脱いで燃やしたという逸話が、上記の児玉熊四郎宅に残っている。
(つまり期待に添えなかったので恥じた?)
◆明治天皇は、一時期「南朝正閏論」を出すが、結局明治政府の反対にあい、姿勢を変更する。
◆大正天皇は、それまで天皇であった「神宮皇后」を降格させる。
(つまり神功皇后は明治政府を樹立した一派から出た?)

 

などなど、段々と外国勢力と結託して「帝国主義」の様相を深めてゆく「明治政府」に対して、明治天皇は常に抵抗し続けていたとしか思えないのです。


この辺も、素人である私は、アッサリと流すことにします。

 


なぜ本当のことが表沙汰にされないのか?

さてさて、以上の私の仮説を総合すると、日本史の教科書は下記のような記述となるはずです。

 

諸外国は結託して「明治政府」という傀儡政権を作ったので、これを憂慮した明治天皇は、西郷隆盛に「討幕の詔」を発したが、西郷隆盛率いる薩軍は、諸外国の圧倒的な軍事支援を受けた官軍に鎮圧された。これを『西南の役』と呼ぶ。

 

フムフム、日本国民がこの事実を聞いたらどうなるでしょうか?
日本国民が2つに分裂してお互いに殺しあった・・・・???
しかも天皇の軍隊が負けた・・・・???

 

そもそも天皇陛下自身がクーデターの首謀者であると判れば、陛下のお命がねらわれます。

だから、西郷はこの事実を、まさに「墓場まで持っていった」のです。

 

さらに、この図式はそのままウガヤフキアエズ王朝の滅亡に当てはまるのです。

 

諸外国は結託して「ナガスネヒコ」という傀儡政権を作ったので、これを憂慮したウガヤフキアエズ王朝は、神武天皇に「成敗の詔」を発して、いったんこれを鎮圧するが、諸外国の圧倒的な軍事支援を受けたナガスネヒコは、東北から逆襲して、奈良に遷都したウガヤフキアエズ王朝を滅ぼした。これを『倭国大乱』と呼ぶ。

 

つまり明治時代と弥生時代に、全く同じ2つの勢力の逆転劇が起こっているということです。
そして、人心を混乱させないために、あえてこれらの事実は伏せられている・・・・???

 

これは現代にも当てはまるのではないでしょうか?
「グローバリズム」と「ポピュリズム」
どちらが正しいのかは、あなた自身が判断する必要があります。

 


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コメント: 2
  • #1

    siraki (水曜日, 15 2月 2017 10:18)

    ニニギということは百済の太子王
    アメノタヂカラオ(天手力男)と言うことは
    彼の息子の百済王子

    西郷隆盛が くくち氏で百済王子の 末裔と言うことは
    多くの敍述や情況で見る時事実な
    可能性が高く見えます

    グーグル参照
    https://www.google.co.jp/#q=%E4%B9%85%E3%80%85%E6%99%BA++%E5%A7%93%E6%B0%8F%E9%8C%84

    http://kamnavi.jp/it/izumo/isaga.htm

    新羅が打撃は受けた時期は ナガスネヒコ のためではなく。
    その歌の時期

    "潮瀬の 波折を見れば 遊び来る 鮪が端手に 妻立てり見ゆ"

  • #2

    出雲小社 (金曜日, 17 2月 2017 18:35)

    私の仮説『西南の役』の説は面白いですね。初めてでしょうか?なかなかこの発想はできません。そして『倭国大乱』ですか、いいですね。古代のうやむやが現代史(近代史)からの考察から意外な真実の現出、は興味津々。siraki 氏もいい反応を示していますね。