神武天皇の船舶基地は佐伯にあった!

『ウエツフミ』には、神武天皇の実在性を証明する重要な記述があります。


それは、
「百斛船を多に作らせ  ワタの浦に繋ぎて、頓 、国廻べまさに」
(船を多く作らせ、ワタの浦に繋いで、急いで全国を巡幸しなければ)


という短いものですが、この一文が重要な意味を持っているのです。
それでは、順番にその意味を解説してゆきましょう。


なぜ船が多く必要になったのか?

これは神武天皇が奈良に遷都することになったことと、密接に関連してきます。

 

当時(私の推定では起源元年頃)、日本全国を天変地異が襲い、大飢饉が発生します。
このままでは人民が飢え死にしてしまうことを恐れた神武天皇の父・第71代ウガヤフキアエズの命(幼名:天照国照彦百異日臼の命)は、ご神託により、 全国を巡幸して人民に木の根や山菜を食料にするノウハウを教えて廻ることとしました。
だから急ぐ(頓=直ちに)必要があったのです。
ちなみに、上杉鷹山が米沢で広めた『かてもの』と全く同じ発想ですね。

 

そのため、神武天皇(当時まだ青年だったハズです)を含めた皇族たちは全員、ワタの浦から全国へと「食料増産指導の旅」へと旅立ってゆきます。
詳しくは、こちらから。
そのために、多くの船が必要になったのです!

 


百斛船とはどんな船だったか?

これは、以前にも書いていますので、こちらを参考にしてください。

『ニギハヤヒが神武天皇に伝授した、八重輪車の「百手船」とは?』


ポイントは、
◆ニギハヤヒが降臨して百斛(ももつか)船の作り方を教えたこと
◆水車でプロペラを回す補助機関を備えた帆船だったこと
◆この船の姿は埴輪にも残されていること(写真参照)

 


ワタの浦とはどこなのか?

それでは、この百斛船が多く繋がれた「ワタの浦」とは一体どこだったのでしょうか?
結論からいうと、現在の「大分県佐伯市蒲江大字畑野浦」と断定してほぼ間違いありません。

 

地図で見ると、こちらです。
http://map.yahoo.co.jp/maps?p=%E4%BD%90%E4%BC%AF%E5%B8%82%20%E7%95%91%E9%87%8E%E6%B5%A6&lat=32.85753493&lon=131.94864254&ei=utf-8&sc=3&datum=wgs&gov=44205119&ac=44205&az=119&layer=pa&v=3

 

(1)「ワタの浦」が「畑野浦」に訛ったのであり、そのため私も気づくのが遅れてしまいました。


(2)海の近くの土地なのに「畑野」という漢字を充てることはいかにも不自然です。
私がつねづね主張している「外国人による変な当て字攻撃」の一環かと思われます。
あえて漢字で表記するなら「ワタツミ」の「綿津浦」とすべきではないでしょうか?


(3)ここには「 江武戸神社」があり、神武天皇が風待ちをしたという伝説が残っています。
http://kazenoyadori.seesaa.net/article/389939850.html


(4)ここはリアス式海岸が作る天然の良港で、大量の船舶を停泊させるには理想的な地形なのです。
◆まず水深が深いので浚渫(しゅんせつ)する必要が無い。
しかも入り江が多いので、多くの船を繋ぐことができる。
◆湾が東に向かって開けており冬の季節風や夏の台風を防げる。
◆裏手が険しい山なので、陸路からはアプローチできない。
つまり海側から攻めるしかないので、敵が船舶を略奪しようとしても難しい。
などなど数々のメリットがあります。

 


その証拠とは?

ここまでは、私の推測の域を出なかったのですが、決定的な証拠が出てきました。
それは、郷土史家の渕敏博氏が書いた『神武天皇のお舟出と海の道』という小冊子です。


渕氏の主張するところは、おおむね下記のとおりです。

◆神武天皇の造船所と製鉄所は、佐伯の堅田・青山地区に存在した。
ウエツフミの記述にある「ワタの浦=畑野浦」からは、一山超えた裏手(北側)にあたります。
◆このあたりからは弥生時代中期の製鉄所跡が遺跡として発見されている。
その場所とは「下城」や「長良」である。
◆その出土品からは「武器に相当するものが極めて少ない」云々。

 

つまり、ウエツフミの記述と完全に一致してきます。
ここで作られたのは、硬い木の根を掘るためのスキ、クワ、フクシなどであり、農民に支給するための農耕器具だったのです。
皇族たちは、これを船に積み込んで全国に届け、木の根から餅を作る方法や、山草を蒸して(柔らかくして)食べる方法などを、全国各地に伝授しています。
つまりここは、「戦争をするための製鉄所」ではなかったということです。

 

参考までに、渕氏の書いた「堅田郷案内図」を添付しておきますので、もっと詳しく知りたい方は、ぜひ現地を訪れてみてください。
残念ながらこの書籍は絶版となっているそうですが・・・

結び

さてさて、このように「人民を飢餓から救いたい」という一心で、全国を巡幸して廻ったウガヤフキアエズ王朝の皇族たちでしたが、ここに悲しい事件が発生してしまいます。

 

まず、関西地方を訪れた神武天皇の兄・五瀬(いつせ)の命が、現地の豪族・ナガスネヒコと衝突して、命を落としてしまいます。
それは、古事記・日本書紀が伝えるような「侵略戦争」ではなく、全く偶発的な「衝突事故」のようなものでした。
これがきっかけで、ウガヤフキアエズ王朝とナガスネヒコ一族は全面戦争となり、ナガスネヒコ一族は滅ぼされてしまいます。
これが「神武東征」の第一の真相でした。

 

第二の悲劇は、皇族たちの献身的な努力にもかかわらず、天変地異が収まらなかったということです。
フトマニで占うと、「大分を都にすることは凶」と出たため、仕方なしに奈良地方(ナガスネヒコの領土だった場所)に遷都します。
それが、現在の橿原神宮から吉野山のある宇陀地方にかけての一帯です。

 

第三に、何者かが神武天皇のあとを追うように、(大分ではなく)宮崎から奈良へと侵攻して行ったことです。
この人物は、明らかにヒダカサヌ(本当の神武天皇)とは違うルートで東征しており、のちにカムヤマトイワレビコと呼ばれるようになります。
これこそが、宮崎に漂着した徐福の一行であり、この一族からのちの崇神天皇や景行天皇が登場し、奈良のウガヤフキアエズ王朝を滅ぼして歴史に割り込んできたものと推測していますが、長くなるのでまた機会を改めます。

 

それにしても、佐伯から蒲江にかけての美しい海岸線を訪れてみると、当時の皇族たちの「崇高な意思」が忍ばれて、胸が熱くなります。

ちなみに、ウエツフミでは人民のことを「君(きみ)」と呼んでいます。
現在とは逆になっており、人民こそが本当の主人公であるという意味でしょうか?
「天変地異が訪れたのは天皇としての私の罪である」とまで言い切っています。

 

最後に、第71代ウガヤフキアエズの命の言葉をそのまま書いておきます。

 

美しき青人草(人民)は吾が君なり。
それの君、今飢えなむとなす。
故、打ち捨てべうならじ(見捨てるべきではない)。

 


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コメント: 4
  • #1

    siraki (火曜日, 31 1月 2017 23:08)

    先に ウガヤフキアエズという単語を使えば
    事実を歪曲する結果をもたらすようになります
    巴堅多鶏林己知波珍赫居 と読まなければなりません。
    単語の意味を吟味してください

    当時の日本列島はすなわち 葦原中国に新羅と百済と 加羅が競争的に
    植民地を作っていました。

    当時劣勢にあった新羅が百済王の 天照大御神との 盟約を
    裏切って怒った 天照大御神の命令で百済の 大軍が進撃します
    これで百済と新羅の 全面戦争が始まります。

    ナガスネヒコ一族と言うことは
    百済王子を言うことで 大王は本国にあって
    太子や王子が 属領に派遣されて 最戦線を指揮するようになります。

    当時の ナガスネヒコ 十代の坊っちゃんで
    彼の 武勇と 孝心は多くの人々を感動させます。

    百済軍と新羅軍という巨大な二つの象さんが
    日本列島を走り回りながら争い始めます。

    丹波、玉牟、笠岐
    伊朝鮮蘇民将 大きく叫びながら突撃しよう

    阿華斯廬岐!
    新羅王万歳!

  • #2

    出雲小社 (日曜日, 05 2月 2017 18:28)

    いつも最後まで「ふ~ん」と読んでいくとsiraki がまるで結びを書いているかの如く現れ、
    気分が悪くなり「が~ん」となります。なぜこうもこのブログに関わるのだろう?そんなこんなで本論の内容が飛んでしまいました。管理者は歓迎しているのか???コード入力が始まりましたね。私が弾かれそうです。

  • #3

    森﨑 (火曜日, 29 10月 2019 19:55)

    「わたのうら」とは 佐賀関のことではないでしょうか?!
        以下↓

    大寶元年(701年)、神託によって現在地の「佐加郷土浦(さかのさとつちうら)」の「曲浦(わたうら)の清地(そが)」に遷座されました。この曲浦を和多浦(わたのうら)と呼び、その清地を「素娥(そが)」と呼び、後に「洲賀(すが)」となり、これが「佐加(さか)」という郷称になった。「海部」の郡名は、若御子神【黑砂神、眞砂神】に漁の方法を教わり生活する人々に因むものだそうだ。

    大寶元年 奉二神宣一 移二神宮于曲浦清地一 曲浦呼爲二和多浦一 清地呼爲二素娥一 後作二洲賀一 盖佐加古稱 稚御子以漁師事敎レ民因以二海部一 名二其國一
    【大寶元年、神宣を奉り、神宮(かみのみや)を曲浦(わたうら)の清地(すが)に移したまひき。曲浦を和多浦(わたうら)と呼び、清地(すが)を素娥(そが)と呼び、後に洲賀(すが)と作(な)す。盖し佐加と古に稱ふ。稚御子を以(もち)て漁師(あま)の事を民(たみ)に敎(をし)へたまふ。因(よ)りて海部(あまべ/うみべ)を以て、その國の名とす。】
    ~『豐後國誌』~

  • #4

    森﨑 (火曜日, 29 10月 2019 20:47)

    ※上記補足
    早吸日女神社を現在地に移動する際に
    移動先は「わたのうら」の「すが」ですよ
    という説明になります。
    ※佐加郷=佐賀関