大友能直公に関する5つのウソ

なぜ彼はウエツフミを書いたのか?

『ウエツフミ』という偉大な古文書を残した、豊後大友氏・初代の能直公ですが、歴史上からは完全に抹殺されようとしています。


最近、『大友能直公御一代記』という古文書がデジタルで公開されたため、さまざまな事実が分かってきました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781159/5

 

知られざる真相の一面を、ここにエッセンスで紹介します。

【ウソ1】大友能直は、源頼朝の息子ではない!

まことしやかな噂として学会が否定し続けていることは、ご存知のとおりです。

ところが、この古文書には、能直の生い立ちが詳細に記述されています。


真相は、源頼朝が上野国波多野郷の住人・大友経家の娘「大友の局」にはらませた私生児でした。
妊娠が分かると「御台所の政子」が逆上して深く妬んだため、認知されずに(母の姉の夫である)藤原親能の養子に出されました。
その後、親戚の家をたらい回しにされたためか?詳細が不明となったようです。
ところがさすがに頼朝の子供、9歳の頃から才能を発揮しはじめ、幕府に出入りして頼朝の側近として力を奮ったとあります。

 

【ウソ2】大友能直は、豊後国に赴任していない!

これも大ウソでした。
建久7年(1196年)1月11日、能直は「豊後国と豊前国の守護、兼、鎮西奉行」に任命され、同3月10日に約1800人のお伴を連れて、別府湾の浜脇に船で到着し、立石村に本陣を構えます。
このときの様子が挿絵として挿入されています。
大切なことは、当時の「鎮西探題」は大分市にあったということ。

 

さらに、緒方三郎惟栄の配下の大野康基や阿南惟家らがこの赴任を快く思わず、「合戦」となったことです。
結果的にこの2人は自害しますが(神角寺山合戦)、緒方三郎惟栄に海部郡の栂牟礼城を(領地として)賜り、平和的に解決したとあります。
能直は大分市の府内町に城を構え、ここから筑前・筑後・肥前・肥後・壱岐・対馬までを支配下に納めて、豊後大友氏400年の基礎を築きます。

 

【ウソ3】大友能直は、サンカの口述をもとにウエツフミを書いた!

しかも、三角寛は「能直は1600人のサンカを殺害してその記録を持ち去った」とまで書いています。
この大ウソはどこから出てきたのでしょうか?
多分、サンカの子孫を自称する出口王仁三郎やその出身地・北朝鮮の勢力あたりが、でっち上げたのではないでしょうか?


ウエツフミの編者の一人である朝倉信舜の著した『上記のくとき』によると、真相はこうでした。

(1)能直は皇室や古代史が大好きで、近所の古老たちを集めてはたびたび酒宴を催し、古代史論議に花を咲かせていた。
(2)ことに直入の住人、直利の六郎種俊の子・平一郎(138歳)からは大きな影響を受けた。(現在の清川町六種の語源ではないか?)
(3)この人物は、18代前の祖先が祖母山の麓で伝えてきた故事を詳細に解説してくれた。
(4)この人物の計らいで、能直は大分の三宝山(現在の宇曽嶽神社)で、「神霊の御教えを承った」。
(5)その結果、「天政文、国政文40冊と神法文7冊」を神代文字で著した。これが『ウエツフミ』である。

 

つまり、もともとウエツフミは47冊あったのですが、現在伝わっているのは41冊のみで、しかも第55代から68代までの記録は原本が紛失しています。

 

【ウソ4】ウエツフミは、大分地方に伝わる郷土史である!

これもとんでもない間違いでした。

 

(1)その編集にあたった7人の編者ですが、当時のわが国を代表する一流の国学者たちです。
ことに、朝倉信舜や徳永時直、高山義澄らは、インドや中国にも留学した超エリートたちでした。
「大和(国)前(国)司の城井氏」や「肥後(国)前(国)司の三浦氏」などのお殿様クラスも参加しています。
どうりで、その文体は格調高く、大分地方の方言が全く含まれていない理由もこれで明確になりました。

 

(2)またウエツフミが参考にした「底本」ですが、全国各地に伝わる古文書が参照されています。
例えば、そこには「高千穂」「常陸国」「出雲国」「伊豆加茂三島」「尾張中島」「伊勢度会」「摂津住吉」「肥後八代」「阿波」「筑前後」「豊前後」「薩摩霧島」「越白山」などの地名が見えます。


つまりこれら全国各地の神社に伝わってきたであろう由緒正しい「神代文」の集大成として、『ウエツフミ』が編纂されたのでした。
源頼朝の隠し子である能直公だからこそ、一流の人材と、一流の歴史資料を集めることができたことが分かります。

 

【ウソ5】◆大友能直のお墓は、場所不明である!

大友宗麟のお墓といい、大友能直のお墓といい、大友氏一族を祀る墓所はことごとくあいまいにされています。
現在でも大分県豊後大野市大野町藤北にある「常忠寺」に、能直のお墓がひっそりと現存しています。
あまりにも小さなお墓なので、それと教えられない限り、見逃してしまうことでしょう。
そして、彼のお墓がここにある理由、それはかつて「ウガヤフキアエズ王朝」の本拠地がここにあったからなのです。

 

そのことを一生かけて伝えようとした大友能直、『ウエツフミ』が完成したその年に、51歳の若さで亡くなっています。
『大友能直公御一代記』には、「能直公上記(うえつふみ)御起草」と題された挿絵があります。
そこには、まるで残された人生を速足で駆け抜けるような、厳しい表情の能直公が描かれています。

 

ではなぜ、大友能直は『ウエツフミ』の編纂に命を懸けたのでしょうか?

その理由が、彼自身の言葉で詳細に語られていますので、ぜひ下記の記事も併せてお読みください。

 

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『大友能直はなぜ「上つ文」を編集したのか?』