建国記念の日の正しい由来

なぜ、2月11日が「建国記念の日」(旧・紀元節)とされているのでしょうか?

ここに、大きな“歴史捏造疑惑”が浮上してきました。

 

つまり、「日本書紀」の作者である藤原不比等らは、

◆神武天皇の即位した日

◆ニニギの命が天孫降臨した日

故意に、入れ替えているのです。

 

なぜ、藤原氏らはこんな犯罪を犯したのでしょうか?

そして、それはどういう意味を持つのでしょうか?

私の解釈は、下記からどうぞ。

 


日本書紀の記述による現代の通説

明治政府は、「日本書紀」の記述から、神武天皇が即位した日とされる旧暦1月1日(新暦の2月11日頃)をもって「紀元節」と定め、佐藤栄作内閣の時代にこれを復活させたものです。

ところが、「ウエツフミ」には、神武天皇の即位の日付に関する記述が全くありません。なぜ?

この「日本書紀」と「ウエツフミ」との食い違いは、どこから生まれたのでしょうか?

 


ウエツフミの記述

さらに詳しく調べてゆくうちに、驚愕の事実が浮上してきました。

それは、旧暦1月1日とは、ニニギの命が天孫降臨して「フタノボリの大宮」に入った日付だったのです。

 

<ウエツフミ宗像本【第8綴】第27章より>

これ(ニニギ)の天降りましましによりて、

豊道之原の現し人、皆睦び合エり。

故これの月を、睦月と言イ、

これの日を、始めの日となも言イける。

そが故ハ、天照大御神、東の六の殿ゆ、

朝開きに現れたまえるからに、

睦日とぞ言イける。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=8&sno=27

 

つまり、「睦月」の由来とは、人民が睦び合って喜んだことと、太陽である天照大神が「六つ」の方角から登った、という2つの理由からきた、と書かれています。

さらに、ニニギの命が天孫降臨した日を「初めの日」としたので、1月1日の正月となった、とあるのです。

 

なお、「ウエツフミ」の日の出・日の入りの方角や、星の運行に関する記述は実に正確で、ここからその時代をおおよそ特定することも可能です。

つまり、「紀元前660年」という記述は、ほぼ正しいという結論になります。

 

問題は、その主人公が誰だったのか?の違いだけです。

 


考察---何のためにこのような捏造が行われたのか?

では、なぜ「日本書紀」の作者は、こんな大変な間違いをしてしまったのでしょうか?

勘違いした?・・・・どうやら、そうではないようです。

なぜなら、「日本書紀」と「ウエツフミ」は、どちらも同じ底本をもとに書かれているからです。

詳しくは、こちら

 

あえて、意図的に解釈を変えた理由?

それは、「日本書紀」における「日向三代」(ニニギ⇒山彦⇒ウガヤフキアエズ)の位置づけを見れば、一目瞭然です。

 

つまり、これを書いた藤原不比等らにとって、「日向三代」とは、存在してはならない憎き敵、あるいは知られたくないマズい存在だったということです。

 

ここに、藤原氏らの行った犯行を再現すると、こういうことになります。

 

◆神武天皇をバックデートして、紀元前660年頃の人とした。

ウエツフミの記述からの私の推論では、ヒダカサヌとは、紀元後1~2世紀(倭国大乱の直前)の人です。

しかも確実に存在した、ウガヤフキアエズ王朝最後の天皇です。

つまり、700年から800年ほど時代を遡って、その存在が移動させられたことになります。

だから、実在性が確実視されているその後の天皇との整合性が取れなくなっているのです。

 

 

◆日本の歴史は、この神武天皇から始まると位置づけた。

つまり、九州王朝は存在せず、奈良王朝から天皇家の歴史が始まったのであり、日本国建国の祖は、ニニギの命ではなく、神武天皇であるとした。

さらに、藤原氏は「神武天皇は大昔の人だから、その存在は忘れてください!」とでも言いたいのではないでしょうか?

この天皇に関するその他の記述、つまりこの天皇の功績も見事に削除されています。

 

◆「日向三代」は、神話時代の作り話しであり、実在しないとした。

 

◆豊の国にあったウガヤフキアエズ74代の記録は削除された。

つまり、削除された700年から800年の間に実在した天皇たちは、子孫の神武天皇が遡ってきたので、その居場所が無くなってしまったということです。

あえて残されたのは、ニニギ⇒山彦⇒初代ウガヤフキアエズの「日向三代」と、末期の第73代・ヒダカサヌ⇒第74代・カムヌナカワミミの親子だけでしたが、これは天照大神以来の万世一系のつながりを証明するために必要だったのでしょう。

 

さらに、現在でもニニギの命が祀られている神社というものは、ほとんど存在しません。

なぜでしょうか?

最初に降臨した天皇家の祖である重要な神様なのに、日本人の記憶からほとんど消し去られようとしています。

それは、藤原氏らその後政権を握った「新興勢力」が、そうなることを望んだからではないでしょうか?

 

そして、現在も「ウエツフミ」を偽作であると決め付けているお偉い学者の先生方も、藤原氏の犯行の共犯者ということになります。

<正しい年代の復元>

逆に、藤原氏らの行った捏造を元に戻すと、どういうことになるのでしょうか?

 

◆紀元前660年 ニニギの命が天孫降臨

この時期は、「弥生時代」が始まった年代と、ピタリと一致します。

つまり、ニニギの命ら天孫族は、弥生文明を伝えるために降臨してきたのです。

 

◆紀元後1~2世紀頃 神武天皇が即位

なぜ、そういえるのかというと、神武天皇の父君・第71代の時代に、西日本で「島が沈む」ほどの大地震が起きたという記録があるからです。

最新の研究によると、起源0年頃、わが国観測史上最大のM9クラスの南海トラフ大地震が発生しています。

そして、これが神武東征の最大の原因となりました。

詳しくは、こちら

 

◆この700~800年の間に、削除されたウガヤフキアエズ王朝、71人の天皇を当てはめてみます。

すると、どうでしょう!ピタリと収まるではありませんか。

つまり、一人あたりの天皇の平均在位期間が、約10年ということになります。

当時は、現在と違って早期に退位することが通例でした。

親・子・孫の三代に渡って譲位した天皇も珍しくありません。

 

どう考えても、「ウエツフミ」の説く歴史観のほうが、「日本書紀」よりも自然で、リアリティがあります。

 


結び

最後に、もう一度強調しておきます。

旧暦1月1日の「紀元節」とは、ニニギの命が天孫降臨して、「フタノボリの大宮」に入った日付だったのです。

 

そして、ニニギの命こそが「日本建国の祖」ではないとするならば、現在の天皇家は、天照大神の子孫ではないことになります。

藤原氏は、この大矛盾に気付いていたのでしょうか?

それとも逆に、藤原氏のほうが正しい歴史を伝えているのでしょうか?

 

ここは、あえて問題提起にとどめておきますが、

どうやら、日本の古代史の大見直しが必要な時期が来ているようです。

 


コメント: 3 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    yukino (月曜日, 18 1月 2016 12:51)

    私も日本の正しい歴史と文化と神話を調べております。
    天照と瀬織津姫のことなど。

    あのですね。もう少し勉強してください。
    あと、文体が下品です。
    怒りと愛どちらを表現したいのですか?
    どちらのためにこれをしているのですか。

    日本国民なら。

  • #2

    上野 文男 (火曜日, 02 2月 2016 01:41)

    私も六甲山に瀬織津姫を求めて入ったことがあります。
    すみません、、、どう不勉強なのでしょう、、、例えばどう下品なのでしょうか(汗)

  • #3

    上野 文男 (水曜日, 03 2月 2016 00:13)

    すみません。先の質問は、yukino様宛です。