第36代が編纂を命じた日本最古の歴史書「再見(ふたみ)」とは?

「ウエツフミ」には、第36代ウガヤフキアエズの命・若照彦天皇がまとめさせた「再見」という文献に関する記述があります。


私の推定では紀元前500年~紀元前300年頃のことです。


おそらく、これが日本初の神道に関する記録であり、その後の「ホツマツタエ」や「竹内文書」のベースとなっている可能性もあります。



ウエツフミの記述の概要

◆第36代いわく「この地球は、イザナギ、イザナミが生んだ国であり、その御子たちは昼夜の区別なく高天之原にあって、天津大神たちの要望に答えている」

◆とりわけ天照大神(太陽)は、毎日諸国を巡回するので、夜見照大神=ツクヨミ(月)を始め、星の神々たちもそれぞれの役目を果たしながら国々を廻っている。

◆これらの神々からの教え「天津訓りの神訓り」が過去に定められたが、これら多くの教訓を後世に伝えるため「再見=フタミ(再び見るための記録)」にまとめて、代々の言伝て(口述で伝えられるもの)の補足資料とせよ。

◆そこで、八百万の神々が集められ、おのおのの口述をまとめて、「再見」として記録された。

◆また、26の「つきつき(解説資料?)」を書き添えて、天津秀庫に収めて、ご神宝とした。

⇒原典は、こちらから。



考 察

◆のちに第71代の時代になって、この記録のことを「伊勢の再見手によると・・・」と言っているので、伊勢の度会家に伝わる「伊勢度会文」とも関係があるのではないか?(私見)

◆この記述をまとめたのは、思金天津悟の命、大屋那須美の命、大土八千組の命、言代須々美の命の四柱である。

◆彼らは、「二上の山」の南の「ふみ山」に、大室(洞窟状の部屋)を作って集まったとあるので、フタノボリ山とは久住山(南に山は無い)のことではなく、祖母山のことであろう。

その南にあったフミ山とは、現在の宮崎県高千穂町の高千穂神社の近くにある「二上山」てある。

そして、大室とは現在「天の岩戸」とされている場所である。(私見)

正面に榊、左にオガタマ、右に桂が植えられたとある。

◆彼らは、佐賀関の速潮と、鳴門の中潮と、橘の小門の和潮を汲んで来て禊をしたとあるので、この3ヶ所の中間地点、またはそこから近い場所であることは確実。

◆そして何と、墨と筆と紙が、この記録用に使われていた。

つまりこれらが中国から渡来したというのは、全くのガセネタである。

ウエツフミには、その筆記用具の製造方法が詳しく書かれているので、こちらから。

◆さらに、そこには「フトマニ(太占)」の占い結果も書かれていた。

現在ヲシテという神代文字で伝わっている128通りの解説文のことである。

そのために宮中の長老や大臣、民間人、地球上の全人類たち(幣立神社が伝える5色人のことか?)が集められて、その口述を記録したとある。

⇒原典は、こちら


この「再見」は、聖徳太子の時代までは確実に伝わっていたことが記録されています。

それは、推古天皇自身が書いた、「先代旧事本紀大成経」の「神代皇代大成教序」のなかにあります。

聖徳太子が「まだ隠している歴史書は無いか?」と訪ねると、忌部氏と卜部氏が恐る恐る「神武天皇の時代から伝わる御祖の神の土笥(はにばこ)」という神録があることを告白します。

この「土笥」のなかにあった書簡こそ、第36代がまとめさせた「再見(ふたみ)」ではないでしょうか?

そして、この「土笥」の登場により、ついに「先代旧事本紀」は完成されて「大成教」と名付けられるのですが、残念なことに聖徳太子は「この記録はほどなく失われるだろう」と予言しており、本人もこの直後に亡くなっています。



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