臼杵は仏教発祥の地であり、それは真名野長者と山王様のお陰である。

日本への仏教伝来は、敏達天皇の時代(584年)に、蘇我馬子が仏像と僧侶を集めたことによると書かれています。(日本書紀巻第二十より)

ところが、それ以前に、既に大分・臼杵の地には仏教文化が花開いていたのです。

そして、それが実現した背景には、下記の4つがありました。


◆臼杵の地が、もともとはウガヤフキアエズ王朝の聖都「二上(ふたのぼり)の大宮」であったこと。つまり、少なくとも神武天皇の時代までは、ここが日本の首都であったこと。

◆「真名野長者」という大金持ちが登場し、祖母山の金鉱脈による豊かな経済力があったこと。

◆その長者が信仰していた山王様(日吉神社=日枝神社=比叡山=山の神)は、日本・中国・インドの三国を治める神様だったこと。

◆用命天皇がこの長者の娘・般若姫と結ばれるなど、臼杵と皇室の間には深い結びつきがあったこと。


いきなりで、面食らった方も多いかと思いますので、順番に説明してゆきます。



筑紫から出た日羅という大人物

まず、日羅(にちら)という人物の話をする必要があります。

臼杵と百済を結びつける重要な役割を果たした人物が、九州に登場したのです。

 

<日本書紀からの要約>

◆敏達天皇の先帝・欽明天皇の時代に、朝鮮半島では新羅が急速に勢力を拡大して、日本国が建国した「任那国」を滅ぼしてしまいます。

◆日本書紀では任那のことを「内宮家(うちつみやけ)の国」と書いていますので、文字通り訳せば、「日本の皇族が建国した国」という意味でしょうか?

◆そこで、朝廷では「任那国の再建問題」が、重要な政策課題となっていたのです。

◆この重要な時期に、「百済国」に父の代から赴任し、「現地政府No.2の高官=達卒」にまで昇りつめたのが、日羅と呼ばれる人物でした。

◆父親は熊本の葦北郡出身とあり、本人は身元不詳ということになっていますが、大分県各地に神社や仏像を残していますので、大分県にも関係のある人物であったことは間違いないようです。(後述するように物部氏に滅ぼされたので、その経歴も抹消されています)

◆敏達天皇は「ぜひ日羅と任那国の再建について相談したい」ということで、紀押勝と吉備羽嶋を派遣して呼び戻そうとしますが、百済王がこれを許さなかったので難航します。

◆なんとか帰国した日羅は、百済政策について下記のとおり意外な提言をします。

「いきなりの戦は得策ではありません。百済人は『船300艘に人民を乗せて九州に移住したい』といっていますので、まず女子供を先に来させて、これを壱岐・対馬で待ち伏せて滅ぼしましょう!」

◆ところが、この謀略が百済人の耳に入ってしまいます。

◆たまたま九州を訪れていた恩卒(おんそち)と参官(さむくわん)は、徳爾(とくに)という人物に命じて日羅を暗殺させます。

◆犯人の徳爾は、のちに捕まって日羅の一族に仇討ちされるのですが、その死体が捨てられた場所が「姫島」だというのです。なぜか大分県の?

⇒つまり「犯人は百済人ではなく、姫島に土着した新羅人の出身者だ」という藤原氏の暗示でしょうか?

 

この日羅という人物が、大分と百済の間に友好的な関係を築いたからこそ、多くの百済人たちが臼杵の地を訪れて、仏教文化を開花させたのです。

日羅が、“卑怯な手を使って百済を滅ぼすことを提言した”とありますが、これはライバルの藤原氏が書いた記述ですから、事実だとは思えません。

逆に、百済王から離任を惜しまれるほど人望が厚かったからこそ、日本と百済が接近することを恐れた物部氏=中臣氏連合の策略にまんまとはまって、滅ぼされてしまうのです。

このことは、のちほど詳しく・・・・

http://momo.gogo.tc/yukari/kodaisi/umayado/nitira.html

 

さらに、日羅は政治家として有能だっただけではなく、宗教家=僧侶としても偉大な実績を残しています。

大野川流域各地に伝わる、日羅が創建したとされる神社仏閣、石仏・磨崖仏の数々が、その宗教家としての影響力を物語っています。

さらに、聖徳太子に仏教の講義をしたという逸話も残っています。

http://momo.gogo.tc/yukari/kodaisi/umayado/nitira_kill.html

 


臼杵の繁栄ぶりと外国や皇室との深い関係

当時の臼杵の町の様子を「真名野長者伝説」は、このように伝えています。

この長者は、炭焼きの小五郎から出世して、のちに豊の国の国司となる人物ですが、詳しくは、こちら


◆549年、百済の国から船頭、竜伯がやって来て、真名野長者の一人娘・般若姫の誕生を祝い、黄金の一寸八分の千手観音を、守護仏として奉呈します。

なんと生後10ヶ月の姫が、この仏を三度拝むと、不思議なことに仏の眉間から光が放たれました。

そこで、真名野長者は喜んで黄金一千両を差出し「これは仏の代金ではない。姫の行末繁栄の一礼である」といい、さらに黄金三万両を唐土の天台山へ寄進します。

 

⇒これは、蘇我馬子が仏法に帰依しはじめる約30年前のことです。

⇒しかも、日本書紀にも同様の記述があるのです。

「欽明天皇13年(552年)百済の聖明王、西部姫氏達卒怒利斯致契等を遣わして、釈迦仏一体奉る。」とあるのですが、「西部姫氏達卒怒利斯致契等」の部分が意味不明ということになっています。私には「西部(九州)の姫氏(般若姫)のもとに、達卒(冠位No.2)の、怒利斯致(日羅の父で阿利斯登=ありしと=姓)契等(名前で契羅)を遣わせた」・・・・としか読めないのですが。


◆この逸話が唐土や百済でも有名になって、外国人たちが続々と臼杵の地を訪れはじめます。中には、いろんな珍品を長者に売りつけようとする商売人も多かったようです。


◆さらに、560年今度は唐土(中国)から大王の勅使が、褒薩(ほうさつ)と夷管(いかん)という兄弟の絵描きを連れて臼杵を訪れ、般若姫の肖像画(玉絵箱)を描かせます。


◆唐土の大王は、この絵に一目ぼれして、死ぬまで傍らに置いたので、その形見が般若姫のもとに届きます。


◆欽明天皇も、褒薩と夷管が書いた般若姫の肖像画(玉絵箱)を見て、一目ぼれします。

隼人正や大伴持主などを勅使として送って面会を求めるのですが、長者に無視されてしまいます。

このとき皇室の用意した貢物以上のお宝を勅使に持たせて帰したので「珍品合戦」となりますが、三度目にはついに刃傷沙汰にまで発展します。

結局誤解は解けて、欽明天皇から「真名野長者」(本物の大金持ちという意味)の名前を授かるのです。

つまり皇室も真名野長者の経済力と知恵と戦力に脱帽したということです。


◆当時、皇太子であった用命天皇も密かに般若姫に思いを寄せ、ついに宮中を抜け出してお忍びで臼杵の地を訪れます。


◆そして、苦労の末、ついに般若姫と結ばれて姫は妊娠するのですが、その子が生まれないうちに帰京することになります。この子供は玉絵姫と呼ばれ、聖徳太子の異母兄弟となります。


◆この玉絵姫は、父である用命天皇に会おうと海路機内を目指すのですが、途中、嵐に会って難破してしまい、亡くなります。このとき海に投げた仏像を、聖徳大使が拾って供養したという逸話も残っています。


◆587年、用命天皇が病気になったとき「朕は三宝(仏法僧)に帰依しようと思う。」といいます。

物部守屋と中臣勝海は「なぜ仏教を敬うのだ!」と命令を無視しますが、蘇我馬子が、豊国法師を宮中に連れてきます。(この部分は日本書紀より)

この事件は物部守屋を大激怒させ、豊国法師を睨みつけたとあります。

多分、用命天皇は臼杵に滞在していたときに、この豊国法師と会っており、その影響を強く受けていたものと思われます。


◆この豊国法師に関する記録がことごとく抹消されているのですが、当時臼杵に帰化していた蓮城法師(三重町の蓮城寺=内山観音の開祖)のこと、あるいはその後彼が連れてきた陳の陰悦法師(僧沙弥三十余人を引き連れて来航したとある)のうちのどちらかと思われます。

つまり、真名野長者が天台山に三万両を寄進したので、唐土から続々と高僧が訪れ、その法院として蓮城寺が創建されたということです。

 

⇒ここでちょっとそれますが、私の祖先は臼杵の浄土真宗大谷派「蓮乗寺」の隠元です。

そして、三重の「蓮城寺」は、なぜか真言宗です。ちなみに真言宗の開祖・空海が誕生するのは、蓮城寺の開山から約200年後のことです。つまり真名野長者が573年に建立した蓮城寺は、200年以上たってから宗旨変えをしたことになります。

しかもその境内には、真言宗とは全く関係の無い聖徳太子も祀られています。

何か事情がありそうですが、これ以上は深く追求しません。

(私がこの記事を書いている理由が見えてきましたか?)



物部守屋による仏教弾圧と臼杵侵攻

さてさて、このような臼杵の繁栄が、当時朝廷内で権力を奮っていた物部守屋の耳に入らないハズがありません。

しかも、百済や唐の使者が、奈良を飛び越えて直接豊の国にやってきているのですから、ほうっておけば百済と組んだ旧・ウガヤフキアエズ王朝が、再び畿内にまで攻め上ってくる危機感さえ感じたことでしょう。


そこで、物部守屋は天皇にも相談せずに勝手に2000騎の軍勢を九州・臼杵の地に差し向けます。

残念ながらこの事件は、記紀などの公式記録には残っていませんが、攻められた側は「真名野長者物語」などに、詳細な記録を残しています。


物部守屋の臼杵攻めの詳細は、こちらから。

http://sence-net.com/manano.html#moriya


結局、守屋は臼杵を攻略することができずに退散するのですが、ここで重要なことは、山王様が登場して、真名野長者一族を守っているのです。


東の方より黒雲が立ち、にわかに大雨・大風が起こり、雷電振動し、山のような波が起こり、火の玉が虚空に乱れ飛んだので、守屋勢は大いに驚き、守屋を恨んで嘆いていると、向こうより小船が百艘ほど近づいてくる。

その中から身の丈一丈ばかりの化け物が出てきた。その身は赤く、髪の毛は紅のようで四方に乱れ、顔は猿のよう。赤い衣を着て、眼は光り明玉のようで、手毎に火の玉を持って焼き払う。海上を走る鳥のごとく、船毎に乗り込んで、大声を上げていった。

「汝ら、よく聞くがいい。お前達の命を奪うことは簡単だが、この度だけは命を助けて帰してやる。しかし二度と長者を攻めてはならぬ。長者夫婦と天竺、唐土、日本の三国を守護している山王神とは我のことなり

と、手毎の火の玉を虚空に投げれば空にて飛び走り、雷のごとく轟音を発し、火花を散らした。


これまで、山王様(日吉神社=日枝神社=比叡山=山の神)の正体がよく分らなかった私ですが、この神様こそ日向族の守り神であると確信しました。


その昔、初代・ウガヤフキアエズの命が中国や朝鮮にまで領土を拡大して、弥生文化を広めていったという伝説は、ウガヤフキアエズの命が山王様の化身であったからこそ実現したのか、またはその逆で、命自身が山王様として祀られたのであろうと想像できます。詳しくは、こちら


だからこそ、その後の神道から、山王様の存在が抹消されかけているのです。

ウガヤフキアエズ王朝とともに・・・・

本当の皇祖神であるはずのウガヤフキアエズの命を祀る神社が少なすぎることに、かえって違和感を感じませんか?

ちなみに、真名野長者が玉絵姫のために建立した「臼杵の石仏=深田の里」の中心地にも「山王神社」が鎮座しています。



当時の宮廷内部での権力闘争

このように、臼杵まで攻めてきたという物部守屋、その正体はいったい何者だったのでしょうか?

そして、その目的とは・・・・?


通説では、仏教の導入をめぐって

◆崇物派の聖徳太子と蘇我馬子

◆廃物派の物部守屋と中臣勝海

の2つの派閥が対立して争った。

・・・・となっていますが、どうやら事実はもっと複雑だったようです。


結論から先に書きますと、

◆それは宮廷内部で勃発した4つの派閥間の権力闘争でした。

◆そこに、朝鮮半島で分断して争っていた4つの国家の思惑が加わって、事態をますます複雑にします。

◆仏教自体は、「どうでもよかった」といえば語弊がありますが、当時大ブームの兆しでしたから、放っておいても自然に流行したものと思われます。

◆つまり、論点は「仏教を導入するかどうか」ではなく「誰が天皇家と深い係わり合いをもって、天下を取るか!」ということなのです。


その4つの派閥を相関図にしてみましたので、まず下記をご覧ください。

それぞれの出身母体と、信仰する宗教、さらに背後から動かしている外国勢力が全く違っていることが一目で分ると思います。


つまり、「これからの日本を背負うのはどの勢力か?」という争いでした。

そして、それは日本国内のみならず、朝鮮半島情勢にも大きな影響力を与えていたのです。

結果的には、全ての当事者が殺害されてしまい、「大化の改新」までこの内紛が続くことになります。



天下を争った4つの派閥とは?

<聖徳太子>

上記のとおり、大分の臼杵と皇族とは、聖徳太子の祖父の時代から深い絆で繋がっていました。

というのも、神武天皇が豊の国から出ている訳ですから、その正統な子孫たちであるならば、何らかの思いを寄せて当然といえば当然のことです。

私は、聖徳大使自身が真名野長者の実の孫ではないかと考えていますが、詳細はこちらから。

そして、臼杵と百済が、既に友好都市的な関係となっている以上、唐土⇒百済⇒臼杵⇒奈良というルートで、仏教の導入を図ることが最も手軽で早い方法でした。


そして、その頃廃れかけていた神道に新たな息を吹き込み、仏教というカタチで融合させることができた唯一の人物、それが聖徳太子なのです。

一般に思われているように聖徳太子は、それほど熱心な仏教徒ではありませんでした。

それは推古天皇が自筆で書いた、『先代旧事本紀 大成教』のなかの『神代皇代大成教序』から読み取ることができます。


■聖徳太子の思想

わが国は神の国であり、天皇はその子孫なので、神道が盛んなときは国が豊かである。

しかし最近、神道が廃れかけているのは、歴史家が故意に誤った歴史を伝えているからである。

外国の思想や宗教は、外国人のものであり、これを用いるべきでない。

ペルシャ人たちの“人はもともと罪人”であるという考え方は、日本人向きではない。

また、“人が人を仁義で支配する”という中国の思想もなじまない。

だから、唐土では常に政権争いが絶えないではないか。

さらに、天竺の仏教も、修行に重きを置きすぎて人間性を軽視している。

わが国は、神が治める国であり、その下に平等で正直(まめやか)な人民が居るのであって、これを「神祇の法」という。

だから、神国であるわが国には正しい歴史書が必要なのだ。


つまり、「神仏習合」の思想は、聖徳太子がルーツだということもできます。

そして、その思想を現代に忠実に受け継いでいるのが、浄土真宗なのです。

だから、浄土真宗のお寺では、ご本尊・阿弥陀仏とならんで、聖徳太子の肖像が掛けられることになっています。



<物部守屋>

まず、物部氏のルーツから説明する必要があります。

それは、秦の始皇帝を元祖とする徐福・秦氏の子孫です。

その証拠はふんだんにありますが、ここでは省略します。


ひとつだけ言っておきますが、彼らの信仰が「大物主=ニギハヤヒ」という全く新しい神様で、それはシュメール=ユダヤの教えを、日本神道をベースに再構築しなおしたものでした。

だから、出雲神道を奉じる出雲族の末裔という体裁をとっていますが、出雲族とは全くの別物です。

つまり名跡までも乗っ取られた訳です。


この勢力が、崇神天皇~景行天皇の時代に第一次ヤマト王朝を築いているのですが、その後、神功皇后と藤原氏らを中心とする邪馬台国勢力に、政権を奪還されます。(第二次ヤマト王朝)

詳細は、こちら


だから、同じ始皇帝の子孫たちが建国した「新羅国」と、物部氏は同属関係にあった訳です。

当然、新羅が朝鮮半島を支配することを応援していましたので、百済と臼杵の友好関係を破壊する必要があったのです。

日羅の暗殺も、臼杵攻めも、そのために実行された陰謀でした。


<蘇我馬子>

この方のルーツが長いこと分らなかったのですが(学会でももめているようです)、私は東北を中心とするアラハバキ族の末裔であるという結論に至りました。

そうです、あの神武天皇と争ったナガスネヒコの子孫でもあります。


ペルシャ人だのユダヤ人だの様々な憶測が乱れ飛んでいますが、どうやら帰化人ではないようです。

というのも、その家系図を素直に読むことです。

開花天皇⇒武内宿禰⇒ ⇒蘇我氏

となっているので、開花天皇とは誰なのかを調べれば、答えが得られます。

開花天皇とは『東日流外三郡誌』によれば、アラハバキ族から出た天皇なのです。

もともと縄文人たちの末裔ですから、由緒正しい日本人であり、聖徳太子と二人三脚で画期的な政策を実行していったことにも納得ができます。

 

武内宿禰が間に挟まっているので大混乱するのですが、物部氏の一族から出た「竹内家」とは、どうやら無関係のようです。

つまり、武内宿禰とは代々世襲で、恐山のイタコのような呪術を使う、霊能力者集団であったということであり、神功皇后の邪馬台国勢力と結びつくことにより、物部氏一族の建てた第一次ヤマト王権を奪回することに成功したのです。


<藤原氏・・・中臣勝海・御食子>

この氏族のルーツも大混乱しているようです。

下がり藤の家紋を受け継ぐ私がいろいろと調べた結果、自信をもって申し上げますが、どうやら邪馬台国から出ており、卑弥呼の鬼道を受け継ぐ一族のようです。

 

その起源は、出雲族・日向族と同じなのですが、

◆祖母山に天孫降臨したニニギの命が、2つの部族に分かれます。

◆北側の大分県に展開したのが「山幸彦族」で、その後政権を奪って、神武天皇に繋がるウガヤフキアエズ王朝となります。

◆一方、南側の宮崎県に展開した一族が「海幸彦族」で、政権を山幸彦族に奪われたあとは、佐賀・長崎あたりに封印され、邪馬台国として繁栄していたようです。

◆山幸彦族の神武天皇が大和に東征して滅んだあとに、この海幸彦族が東征して第一次ヤマト王権を奪い返します。つまり兄弟部族の仇を討ったということでしょうか?

◆だからその末裔である藤原氏は、皇祖神以外にも、ワタツミの神、豊玉姫、タケミカヅチ、フツの御魂など、海洋民族=邪馬台国の神々を信仰しているのです。つまり母方の先祖神ということです。

◆ただし、「山幸彦族」出身の中臣氏とは無関係です。

というより「海幸彦族」出身のウサツヒメを、中臣氏の祖先のアメノコヤネに嫁がせることにより、外戚関係で中臣氏に入り込んできたのであって、もともとの本家・中臣氏ではありません。

本家は多分卜部氏となったようです。

◆しかも、その時期を神武東征の途中であると『日本書紀』のなかで捏造しました。

そのため天種子という架空の人物を登場させて、わざわざ東征の途中に宇佐に立ち寄らせて、ここにアメノコヤネの(天孫降臨時代の)故事を引用してきました。そして天種子とアメノコヤネは同一人物であるというトリックを使っています。

◆なぜそういえるのか?というと、「ウエツフミ」には、「中臣道之臣人(ちのおむと)の命」という本物の中臣氏の祖先が居て、神武東征時の策士として大活躍しているからです。

そこには、天種子という人物が入り込む余裕は全くありません。

同じ中臣氏から二人の大将が参戦することはありませんよねえ?

そして、のちに本家・中臣氏は神武天皇とともに滅ぼされますから、この空白となった名跡に藤原氏が乗り込んできたというのが事実のようです。


さてさて、少し長くなりましたが、この藤原氏の基本姿勢は、ひとことでいえば「日和見主義」です。

だから仏教導入にあたっては、その頃台頭してきた蘇我氏の勢力をくじくため、物部氏の側についているのです。

つまり、組む相手をその時々で変えているのであって、だからこそ平安時代になってから、やっと自分たちの天下を謳歌することができたのです。


さらに、朝鮮半島情勢に関していえば、ここにはもともと邪馬台国の属国があった可能性があります。

それが任那に発展したのではないかと考えています。

なぜなら、邪馬台国は海洋民族であり、陸の領土よりも、海の港湾拠点にこだわっていたため、対馬海峡一帯を幅広く支配して、対岸にまで勢力を及ぼしていた可能盛大です。

だから、神功皇后が政権を奪い返したとき、もともとの領土であった朝鮮半島に凱旋帰国しているのです。

 


まとめ

以上、これだけで一冊の本になってしまいそうな膨大な情報を簡潔にまとめてみましたが、ご理解いただけたでしょうか?

つまり、要約すると・・・・

 

◆日羅のお陰で、百済と友好関係を結んだ臼杵の地に、真名野長者の経済力で、日本初の仏教文化が芽生え始めた。

◆これを破壊したのは、物部氏である。

◆ウガヤフキアズ王朝の聖都・臼杵は、景行天皇の時代に一度、そして物部守屋の時代にもう一度、壊滅的な打撃を受けている。

◆しかし、山王様に守られたこの地は、その後も繁栄を続けて、大友宗麟の時代には日本有数の貿易港となる。


ここで、ひとつだけ書き忘れました。

なぜ臼杵が天孫降臨後の最初の都・二上の大宮であるのか?ということです。

さすがに『ウエツフミ』も、二上の大宮があった場所はあいまいにして隠し通してきました。

なぜなら敵対勢力に破壊される可能性があったからです。

でも、たった一度だけ、ポロリと本当のことを書いてしまったのです。

「臼杵の二上の大宮」に、天皇が帰朝したと・・・・・。


最後に、もう一度強調しておきますが、「外国人たちが仏教を携えて移住してきて日本人の祖先となった」のではありません。

「日本人が有能な人材を招聘した」のです。

それは、日本・中国・インドを含むアジア圏において、日本人が指導的な役割を果たす必要があったからであり、それこそが山王様の本意なのです。

そして、なによりも残念なことは、わが国最大の指導者・聖徳太子が、この派閥争いのなかで失われてしまったことです。

 


コメント: 3 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    赤星憲一 (金曜日, 11 9月 2015 15:33)

    竹田市にも山王橋などがあります。関係はありますか。
    また、紫草の取れる紫土知というところもあります。
    https://youtu.be/yWEJVQon9Mg

  • #2

    管理人 (金曜日, 11 9月 2015 15:51)

    山王橋は、私の生まれ故郷ですが、全く関係ありません。明治時代に工藤三作という地元有力者が企画して、施工したものです。ただし、このような石積みの技術があったとは、私も驚きです。
    ただし、紫草のほうは大いに関係あります。奈良時代には、紫は大変高貴な色で貴重品でした。私は、竹田あたりの原種が、神武東征とともに奈良に渡ったのではないかと考えています。

  • #3

    uchida keizo (金曜日, 11 12月 2015 13:55)

    非常に興味深く読ませて頂きました。
    わたしは30代前半に愛媛県のお寺を個人的に巡礼している時に、お寺の住職より
    真野長者の話を伺いました。大山寺は大分の真野長者によって建立されたと。
    当時は大分には住んでいませんでしたが、大分に立ち寄ったときに、
    動かされるままに、真名野長者に関連する場所に行くことになりました。

    16年前から大分に住んでいます。
    真名野長者が日本で初めて中国、韓国、日本で大掛かりな海運ビジネスを展開して、
    当時、都にも太いパイプを築いていたこと。四国、中国地方にいくつもの
    港を築いていたこともわかりました。

    私の先祖は任那国から国命で福岡に渡って来て、薬草などの研究をしており、
    地理や風水に長けていたようです。突然、国が滅んでしまって、
    帰化したことなど啓示がありました。

    ここに記載されていることに、かなり近い啓示を昔たくさん受けました。
    宮崎南部の榎原神社の内田萬壽姫を調べてみてください。
    わたしはこの方とのご縁で、いろいろな霊的体験をさせて頂きました。