邪馬台国は佐賀県にあった!そしてウガヤフキアエズ王朝のライバルだった。

どういう訳か、ウエツフミには「邪馬台国」に関する記述が全くありません。

日向族の正史なのに・・・・ですよ。

もし、「邪馬台国」が九州にあったとするなら、何らかの記述を残してもよいはずなのですが、最初から最後まで一貫して無視です。


そこで私も、ウガヤフキアエズ王朝が奈良に遷都して滅んだあと、推定2~3世紀くらいに、突然近畿あたりに登場した幻の新国家かとも考えました。


あるいは、ウガヤフキアエズ王朝自体が「邪馬台国」になった可能性も考えました。


でも『魏志倭人伝』に書かれている風俗や習慣が、どうみても弥生人である日向族とは全く合わないのです。

特に、イレズミ。

ウエツフミには、日常の身だしなみが「神訓り」というカタチでキッチリと取り決められていますが、そこには、イレズミという習慣は存在しないのです。

詳しくは、こちら


いろいろと悩んだ挙句にある結論に至りました。

実体はどうやら、想像をはるかに超えて、まさに複雑怪奇だったようです。


ひとことでいえば、

「ウガヤアキアエズ王朝」と「邪馬台国」は隣接するライバル同士であった!

ということです。


そして、この二つの別国家を、多くの人が同一視しているため、九州の古代史が混乱して分りにくくなっているのです。

 


ウエツフミが無視する佐賀と長崎

ウガヤフキアエズ王朝の勢力範囲
ウガヤフキアエズ王朝の勢力範囲

まず、上記の地図をじっくりとご覧ください。

これが日向族の建国したウガヤフキアエズ王朝の勢力範囲です。

出典 : 『上記鈔訳』 国立国会図書館近代デジタルライブラリー蔵


そして、佐賀と福岡(白日の国)の県境のあたりに、ハッキリと線が引かれていますが、不思議なことに「ウエツフミ」が、佐賀・長崎の地について触れることは一度もありませんでした。

国の名前さえ付けられていません。

唯一「唐津に新羅の使節団が来航した」という記述があるくらいです。

つまり唐津から西は謎の空白ゾーンとなっているのです。


これは、初代・ウガヤフキアエズの時代から、第73代・ヒダカサヌ=神武天皇に至るまで、徹頭徹尾一貫しており、約1000年にもわたり全く無視の状態です。

初代が置いた建(タケル)のリストには、佐賀と長崎がありませんし、第73代のリストでも、依然として国名さえも残されていません。

この頃には、沖縄や北海道の開拓も終わっているのに、一番近い佐賀・長崎がなぜ、そのまま放置されていたのでしょうか?

「誰も住まない原野だったから?」

そんなことはあり得ませんよねえ。



佐賀の地に残る「徐福伝説」、「豊玉姫伝説」と安曇氏

ここ佐賀の地には、徐福の一族が渡来したという伝説が多く残されています。

 

秦の始皇帝に支援された船団が、「蓬莱山にあるという不老長寿の妙薬」を探して、日本に辿り着いたというのです。

 

そして、この一族が最初に辿り着いた場所が佐賀であり、やがて安曇氏となって全国に散っていったと・・・・

 

例えば、こちらのサイト


この説は、ある意味面白いと思います。


ただしあちら側の人は、なんでもかんでも全てシュメール起源やユダヤ起源に塗り替えてしまう傾向がありますので、とりあえず徐福の一団がそのまま安曇氏になったという説は無視しましょう。


いずれにせよ、佐賀の地にはウガヤ王朝の強力なライバルである安曇氏が居たと解するのが自然です。

 

そして、海洋民族である安曇氏が信仰していたのが、

綿津見の神

つまり「住吉三神」ですよねえ。


そうすると皇祖神である豊玉姫は、安曇氏の出身ということになります。

なぜなら豊玉姫は綿津見の神の娘だからです。


そう考えて、もう一度ウエツフミを読み直してみると、やはりありました。


出産の姿(ウロコのある海神だった)を、夫・山幸彦に見られた豊玉姫は、怒って里帰りしてしまいます。

そして、大分の水門(みなと)から出航して、国東半島の姫島まできたとき、まわりの神々に説得されてこの地に思いとどまり、直入の宮(祖母山のある竹田市)で、山幸彦とめでたく仲直りします。

だから、この地を「佐賀」という!

M15-3


と書かれているのですが、私は「出発地点を佐賀関という」意味に勘違いして読み飛ばしていました。

出発地点は大分港だったのですね。

つまり、「佐賀」とは豊玉姫が帰ろうとした里のことだったのです。


佐賀⇒徐福⇒安曇氏⇒綿津見の神⇒豊玉姫と、ここまではつながって来ましたか?

話はもっと複雑になってきますよ。


<嬉野市にある「豊玉姫神社」の解説から、佐賀・長崎に豊玉姫伝承が多く残ることが分る>

http://www.y-tohara.com/toyotama.html

 


海幸彦と山幸彦の確執が意味するもの

もしそうだとすると、安曇氏は皇祖である豊玉姫を出した由緒正しい名門であることになります。

 

でも、なぜその後、この安曇氏がウエツフミの表舞台に登場してこなかったのでしょうか?

 

結論からいえば、ウガヤフキアエズ王朝とは対立していた可能性が高いのです。

 

そこで、海幸彦と山幸彦の逸話をもう一度思い出してみてください。

 

<神話の世界>

◆あるとき、兄弟は釣り道具と弓矢を交換します。

◆でも弟・山幸彦が釣り針を無くしたので、これを探しに竜宮城までゆきます。

◆このときに助けたのか塩土の神です。

◆そして、山幸彦は竜宮城で豊玉姫と出合って、めでたく結婚。

◆父親の綿津見の神は、引き出物として「潮満玉」と「潮干玉」をもたせ、これがウガヤ王朝の「三種の神器」となります。

◆問題は、このあとですが、なぜか長男の海幸彦は天皇に即位することをためらい、弟の山幸彦に皇位を譲ります。このときに洞窟に篭ってウジウジと嘆いているのです。

 

これは美化された神話の世界ですが、これを生々しい現実の歴史に焼き直すとこうなります。

 

<リアルな歴史>

◆海洋民族の安曇氏は、佐賀・長崎に本拠地をもつ別名「海幸彦族」でした。

◆一方、山岳民族である日向族は、大分・宮崎に本拠地をもつ別名「山幸彦族」でした。

◆そして、あるときこの2つの部族のあいだに争いが勃発します。

◆勝利したのは「山幸彦族」であり、仲裁に入ったのがインド系の「塩土族」でした。

◆そこで両部族は話し合いの末、山幸彦のもとに豊玉姫を人質として差し出すことにしました。つまり政略結婚です。

◆「海幸彦族」は、ご神宝の「潮満玉」「潮干玉」を譲渡し、海幸彦自身は宮崎県高千穂町の「天の岩戸」に幽閉されます。詳しくは、こちら

◆この事件があってからも、お互いに仲の悪い状況が続き、ウエツフミはその後「海幸彦族」については、口を閉ざして全く無視します。

 

つまり、日向族の「ウガヤフキアエズ王朝」と、安曇氏一族の「邪馬台国」は、全くの別国家であり、お互いに隣接しながら、対立と協調を繰り返していたということです。

 

だから、吉野ヶ里遺跡も、当然、安曇氏一族である邪馬台国が残したものとなります。

 

のちに祖母山の麓に「あかぎれだいた」⇒「大神氏」⇒「源氏の武将、緒方三郎惟栄」という一族が登場しますが、彼らは蛇神を信仰しており、体にはウロコを連想させるイレズミを入れていたといいます。

つまり豊玉姫を護衛する武装集団であったと考えられます。

さらに、ローカルな話ですが、大分県竹田市にある岡城の基礎を作った「志賀氏」も安曇氏の一族を自称しています。

 

つまり、九州は一枚岩ではなかったのです。

古代史では、日向族と熊襲(隼人)だけが取り上げられていますが、もうひとつの海洋民族集団の存在を考える必要がありそうです。

 

安曇氏一族では分りにくいので、以降、この集団を「海幸彦族」と呼ぶことにします。

「邪馬台族」でもよいのですが、「大和族」と混同されやすいので、やはり「海幸彦族」が適切でしょうか?

 


ちなみに、「山幸彦族」とも呼ぶべき日向族とは何だったのかというと、こちらは農業と弥生文化を全国に伝えた弥生人であり、高地性集落もここから発祥しています。安曇氏ではありません。

そして「出雲族」の正統な後継者です。

出雲族が島根から発祥したと考えている人も多いかと思いますが、「ウエツフミ」はこれを否定しています。

スサノオは霧島に降臨し、九州や四国を平定しながら北上し、最後に出雲に辿り着いたのです。

詳しくは、こちら

 

そして、オオクニヌシが国土開拓に失敗したので、代役としてニニギの命が選ばれ、その天孫降臨にあたっては、オオクニヌシが全てをセッティングしています。そのお礼に日向族が建立したのが出雲大社です。

だから九州・宮崎にもスサノオを祀る神社は多くありますし、姉の天照大神と一緒に二人三脚で動いてきた訳ですから、当然といえば当然ですよね。

つまり、出雲族と日向族は密接不可分ということです。

 


「魏志倭人伝」「ウエツフミ」「日本書紀」の対比

さらに、「魏志倭人伝」と「ウエツフミ」を比較して、共通の要素を発見するという作業を行なってみました。


すると、たったひとつだけですが、重要な要素が浮かび上がってきたのです。

それは「狗奴国」の存在です。


◆其の南には「狗奴国」がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず。

◆正始8年(247年)には、「狗奴国」との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。


つまり「邪馬台国」の南には、熊襲の国である「狗奴国」があったと書いてあるではないですか?

逆にいえば、現在の熊本の北が邪馬台国であったことになります。

距離がどうこういう議論は、どうせ記述が間違っているのですから、無意味です。


私が注目したいのは、狗古智卑狗(くこちひく)という大臣です。

ウエツフミの記録によると、熊本の益城郡から菊池郡にかけては、菊池彦(ククチヒコ)という一族が治めていたのです。

つまり現在の菊池氏の祖先であり、西郷隆盛もここから出ています。

詳しくは、こちら


しかも、247年に両者が争ったという記録があるではないですか。


そこで、この事実の裏づけを『日本書紀』に求めてみました。

ウエツフミを書いた日向族は、この頃すでに滅んでいますので・・・・・


するとやっぱりありました。

仲哀天皇の8年秋9月に、「強(あながち)に熊襲を撃ちたまふ。得勝ちたまはずして還ります。」

と書いてあるではないですか。


つまり、西暦247年に、仲哀天皇と神功皇后の率いる「邪馬台国軍」と、菊池彦(ククチヒコ)が率いる「熊襲軍」が激突しているのです。


ここから「邪馬台国」は、南下政策をあきらめて、東の福岡~山口や、北の朝鮮半島に活路を求めて出てゆくことになります。

武内宿禰とやらの、怪しい渡来人の口車に乗って・・・・

私は帯方郡から派遣されたという「塞曹掾史張政」こそが、第?代・武内宿禰を踏襲したのではないかと思うのですが。


さてさて、突然「仲哀天皇と神功皇后が邪馬台国の出身」だという話になってきましたので、混乱している方も多いかと思います。

実は、これにも充分な根拠があるので、順番に説明してゆきます。

 


海幸彦族、山幸彦族、熊襲の3部族を暗示する宇佐神宮のご託宣

宇佐神宮には、以上の推論を裏づける興味深い「ご託宣」が伝っています。

 

ちなみに、ご託宣とは巫女を通して伝えられた、八幡神自身のお言葉です。

◆出展 : 山口大学編集の 『八幡宇佐宮御託宣集』託宣・示現 年表』 平成25年5月20日

http://jpromotion.jp/gotakusen

 

<ご託宣(1) 年号不明>

あるとき、高知尾(高千穂)明神が、弟である八幡神と阿蘇権現に対して、こう告げます。

「私は国土は要らない。帝位についても意味が無い。この女(美しい臼杵の采女)を見ていると、何の野心もわかない。おまえたちは早く花京(大和の国?)に行って、天下を治めて、帝の位を継ぎたまえ。」

 

<ご託宣(2) 年号不明>

あるとき、次男の阿蘇権現が、三男の八幡大菩薩に、こう告げます。

「おまえは早く花都(大和の国?)に行って、帝子を誕生させ、百王守護の誓約を実現して欲しい。自分はこの峰(阿蘇山)に残って、継兄の高知尾(祖母山)を見守り、あなたの本願を助けましょう。」

 

つまり、

この3人の神様とは、

「海幸彦族=安曇氏=邪馬台国」・・・・宇佐八幡

「山幸彦族=日向族」・・・・・高知尾(高千穂)明神

「熊襲族=隼人族」・・・・・・阿蘇権現

 

であり、このご託宣を詳細に分析すると

 

◆まず「山幸彦族=日向族」が、天下を取ったが、興味を無くして退位した。

神武東征のことを言っています。

◆つぎに「邪馬台国」に天下を取るように勧めた。

神功東征のことを言っています。

◆これを「熊襲族」が助けることで合意した。

熊襲は常にサポート役ということでしょうか?

 

というように読めますよねえ。どう見ても。

つまり、九州には3つの強力な部族があったということです。

このことは、以前にも書いていますので、興味のある方は、こちら

(ただし、このときはまだ海幸彦族という名前ではなく、大和族と考えていました)


邪馬台国と大和王朝の戦い、それを「神功東征」と呼ぶ!

そして、このご託宣を聞いて

「あんたあ、こんだウチらの番たい!」

と、博多弁で叫んだであろう神功皇后は、大和の地に攻め登ることを決意します。

これを「神功東征」と呼びます!

 

ただし、『古事記』や『日本書紀』は、ウソの記述で固められています。

その理由は、あとから述べますが・・・・

 

その頃、つまり西暦250年前後、大和の地に居たのは「香坂皇子」「忍熊皇子」であり、反乱を起こしたと書かれていますが、この2人こそ「崇神天皇」「景行天皇」であったと考えられます。

 

なぜなら、仲哀天皇と神功皇后の拠点=その都は、

◆穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや、山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社が伝承地)

◆筑紫橿日宮(つくしのかしいのみや、福岡県福岡市東区香椎の香椎宮が伝承地)

の2ヶ所であり、大和地方の人ではないからです。

 

だから、反乱を鎮圧するために近畿に向かった神功皇后の船は、熊野から迂回したと書かれていますが、近畿の地には拠点が全く無かったことを意味しています。

仮に、近畿の人だったとしましょう。

では、なぜ反乱の気配のある奈良の地を留守にして山口県に遷都したのでしょうか?

 

つまり、山口と福岡に本拠地をもつ「邪馬台国」と、奈良に本拠地を持つ「大和王朝」は、同じ時期にどちらとも並存していたのです。

 


逆に、「崇神天皇」のほうの記録を見てみると、「武埴安彦」と妻「吾田姫」が反乱を起こしたと書いてあります。

この2人こそ「仲哀天皇」「神功皇后」のことなのです。

 

そして、「武埴安彦」が殺される最後に「我君!」と叫んでおり、「アギと声を出してウンコをもらした」などと訳されていますが、全く違います。

「我こそ天皇である!」という意味です。

なのに、『古事記』では「仲哀天皇は琴を弾きながら勝手に死んでいった」と書いてあり、『日本書紀』では病死、どちらも自分たちが滅ぼしたことを認めていません。

 

本来は、「大和王朝の崇神天皇~景行天皇」と「邪馬台国の仲哀天皇~神功皇后~応神天皇」を、並列で記述するべきなのですが、そうすると邪馬台国が消滅した理由を書かなければなりませんし、「万世一系」という大原則が崩壊します。

 

そして、「邪馬台国」が歴史から抹消されているのも、このときの衝突が原因であったと考えられます。

つまり、「大和王朝」が征服していったライバルたちは、「日向族のウガヤアキアエズ王朝」「海幸彦族の邪馬台国」「津軽の縄文人・アラハバキ族」も含めて、全てその記録が抹消されているのです。

 


「邪馬台国」と「大和王朝」の合併、そして大日本国の誕生!

明治時代にお札になった神功天皇
明治時代にお札になった神功天皇

さてさて、ここからはかなり推論が入ってきますので、ご容赦ください。

 

それでは最後に、滅ぼされた邪馬台国はどうなったのでしょうか?

 

中国の歴史書である「旧唐書(くとうじょ)」が、本当のことを書いていました。

 

『旧唐書』東夷伝の中には、日本列島について、「倭国伝」「日本国伝」の二つが並立しており、もともと別々の国家であったことが分ります。

さらに「巻199上 列傳第149上 東夷」には、

「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」と書かれています。

日本国は倭国の別種で、日の辺(東方)に在ったので、その名を日本とした。

あるいは、倭国自らその名が優雅でないので、日本に改めた。

あるいは、日本はもともと小国であったので倭国を併合した。

 

つまり小国であった大和王朝(日本)と、西日本の邪馬台国(倭国)とは全く別の国家であったが、

両者が併合されて、多分日本が倭国を吸収合併して、「大日本国」が形成されたということです。

 


そして最後に、神功皇后がはたして、日本人であったか?渡来人であったか?という議論に戻ります。

私は、下記の3点から渡来人であった可能性が高いと考えます。

 

◆その祖先が、新羅出身の天之日矛(アメノヒボコ)であったこと。

『古事記』は、詳細にこの方の伝説を書いています。

しかも、クソ面白くないストーリーをウダウダとですよ。

つまり『古事記』を書いたのは、あちら側の人ではないかと疑いたくなります。

 

◆仲哀天皇が亡くなった時の、おぞましい儀式。

あまり公けにされていませんが、その儀式とは下記を集めてミソギを行なったというのです。

これが日本民族が行なった儀式だとは、とても思えません。

さまに邪馬台国の伝統である「鬼道」と呼ぶにふさわしい儀式です。

ここまで『古事記』を読み込んでいる方は、そう多くないと思いますが・・・・

 

生け剥ぎ…生きた獣の皮を剥ぐこと 

逆か剥ぎ…尻尾から獣の皮を剥ぐこと 

畦離(アハナチ)…田んぼの畦を壊すこと 

屎戸(クソヘ)…聖なる神殿にウンコを撒き散らすこと 

上通下通婚(オヤコタワケ)…親子間の近親相姦 

馬婚(ウマタワケ)…馬との獣姦 

牛婚(ウシタワケ)…牛との獣姦 

鶏婚(トリタワケ)…鶏との獣姦 

犬婚(イヌタワケ)…犬との獣姦 

 

◆明治時代に神功天皇と武内宿禰の肖像がお札になるのですが、なぜか大正天皇は神功天皇の皇位を取り消して「皇后」に格下げしているのです。

なにか、激しい権力闘争が繰り広げられていたことを暗示する逸話ですが、長くなるのでここではあまり詮索しないことにします。

 

もし、神功皇后が渡来人であるならば、佐賀に漂着した徐福一族の子孫であるということです。

むしろそのほうが、日向族が無視していた理由も明確になります。

さらに「崇神天皇」らのヤマト王族たちも渡来人であったとしたら、国家合併は意図的なものであり(つまりグルであったということ)、これにより、渡来人による「日本征服計画」が完成したということです。

 

でも、本当のことは誰にも分りませんよね。

これらの記述が、天照大神⇒豊玉姫⇒卑弥呼⇒神功皇后と続いてきた、日本の女帝信仰を無きものにしようとする、情報かく乱戦略かもしれませんので・・・・・。

そうあって欲しいと考えるのは、私だけでしょうか?

 

でもでも、しつこいようですが、仮に神功皇后が正義の味方であったとしてもですよ・・・・

自分と息子・ホンダワケ=八幡神の名前で、全国の神社仏閣のご祀神を書き換えるようなマネはいけません。

それは、「奢れる邪馬台国、久しからず」と、平家物語にも書かれていそうですから。

 

 

 


【まとめ】 それはまるで王権を争う諸部族たちのバトルロイアルだった。

それでは、以上に述べた仮説をもう一度おさらいしてみます。

 

◆まず日向族の神武天皇が、大和に東征し、ナガスネヒコを滅ぼして「橿原の宮」を置きます。

 

◆ところが、このウガヤフキアエズ王朝は長続きせず、東北から逆襲してきたナガスネヒコとアラハバキ族に滅ぼされます。詳しくは、こちら

 

◆さらに、この混乱に乗じて、崇人天皇や景行天皇らが、第一次大和王朝=日本国を開きます。

 

◆このとき同時に、佐賀~福岡~山口にかけて、「邪馬台国=倭国」と呼ばれる勢力が急拡大します。

長年のライバルであった日向族が滅んだため、その領土が大きく広がってゆき、現在の宇佐神宮あたりまでも支配下に収めます。

 

◆そして、この「邪馬台国」から神功皇后というヒロインが登場し、奈良の地にあった大和王朝を攻めます。

これを『神功東征』と呼びます。

 

◆ところが、この「邪馬台国」も「大和王朝」により滅ぼされ、吸収合併されて「大日本国」が誕生します。

これが、第二次大和王朝または「ヤマト王族連合」と呼ばれることになるのです。

 

そこには、まだ国の体をなしていなかった原始日本の産声と、

覇権を争ったスタープレーヤーたちの実像が、

くっきりと浮かび上がってきたではありませんか。

 

私はこれを『バトルロイアル史観』と名づけることにします。



そして、最後にこれだけは言っておきたいのですが、

日本国は果たしてユダヤ人やシュメール人に乗っ取られてしまったのでしょうか?

答えは、NOです!

 

藤原氏が居るではないですか。

邪馬台国の正統な後継者である・・・・・

 

このことは、また別の機会に説明します。

 

 

 

 



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