銅鐸とは、神招きに使う楽器だった。

『上記(ウエツフミ)』には、銅鐸(どうたく)の使用方法が、ハッキリと書かれています。

それは、神様をお招きするための「サナキ」または、「サナギ」と呼ばれる楽器でした。

どうやら、中国から渡来したとされる「銅鐸」とは、分けて考える必要があるようです。

 

この「サナキ」が、どのように使われていたのでしょうか?

なんと、あの有名な「天の岩戸開き」のシーンに登場するのです。

 

岩戸に篭ってしまった天照大神を、外におびき出すため、オモイカネが知恵を出して、アメノウズメが踊り、タヂカラオが岩戸をこじ開ける・・・・というストーリーは、ご存知かと思います。

 

このときの、アメノウズメの装束や、その振り付けが、ウエツフミには(記紀よりもはるかに)詳しく書かれているのですが、

そこには、

手には、サナキ付けたる矛を持ち

と、書いてあったのです。

 

つまり、サナキは、矛に取り付けて、手に持って揺すりながら使われていたことが判明しました。

だから、弥生時代の遺跡からは、銅鐸と矛が一緒に出土する場合が多いのです。

 

この記述をもとに、私が想像図を作成してみました。

(左図参照)

 

ただし、もしかしたら銅鐸は上下が逆に、つまり開口部が上を向いて取り付けられていたかもしれません?

 

このように、のちに「銅鐸」と呼ばれるようになった「サナキ」とは、神様をお招きするための、清らかな音色を奏でる楽器だったのです。

⇒その音は、こちら

 

おそらく、蝶々が孵化する前の「サナギ」も、ここから来ているのではないでしょうか?

矛に吊るしたときの形がそっくりです。


ほぼ忠実に再現されたアメノウズメの装束
ほぼ忠実に再現されたアメノウズメの装束

アメノウズメが踊ったときの様子を、もっと詳しく書きますと、


◆まず、活津比古根(いつくひこね)の命と

活津比売那(いつくひめな)の命が、

穴門(あなと)の国=現在の山口県に降臨して、

(そこに産出する)黒金から焼金を作って、

いろいろな太刀と、矛と、サナキとを作りました。

ほかの神たちも、それぞれさまざまな楽器を作って献上します。

M3-18


◆アメノウズメの命は、お神楽隊のリーダーとして、

8人の踊り子を引き連れて、

◆自分は、頭に天の香具山の日蔭(不明?)を被ってカツラとし

◆天のマサカキ(榊)をカンザシに刺して

◆ヤツデカズラをたすきにかけて

◆笹の葉を手に巻いて

手には、サナキを付けた矛を持って

◆8人の踊り子たちは、手には茅(ち)を巻いた矛を持ち、右手には五十鈴を取って


◆岩屋戸の正面あたりに、屈みこんで地面を踏み鳴らし

(「そんなの関係ネエ、オッパピー」のときのような格好でしょうか?)

◆神がかったように小踊りし、

◆舞うたびに、『一二三四五六七八九十百千萬十十百百千千千千萬萬』

「ひとふたみつよついつむなやここたりもちろとウとウももももちちちちよろづよろづ」

と、唱えて、鼓に合わせて歌いました。

◆「とってもイイ感じ」「とっても嬉しい」「とっても最高」「とっても面白い」

といいながら、

◆おっぱいをモミしだき、帯ひもをアソコに押し当てて、腰をグルグル廻しながら、熱演しました。

◆だから、高天原は大いにどよめき、八百万の神たちは一斉に手を叩いて、大笑いしました。

M4-4


字面だけを読むと、ほとんど「ストリップ」に近い下品な踊りなのですが、なんともおおらかといおうか、古代人たちの天真爛漫さが伝わってくる描写でよすね。


ところが、『古事記』や『日本書紀』からは、この「サナキ」に関する描写が削除されています。

多分、日本発祥の「サナキ」が、中国に渡って「銅鐸」になったことを隠蔽するための意図的な工作ではないでしょうか?

(歴史認識にこだわる中国人、韓国人なら、そこまでやりかねませんよね)


上海「東方楽器博物館」蔵の銅鐸
上海「東方楽器博物館」蔵の銅鐸

さてさて、弥生時代も後期になると、この楽器が巨大化して、しかも大量に埋蔵されている遺跡が発掘されるようになります。


ここからは、私の想像ですが・・・・。


古墳文化とともに、中国から「銅鐸」と呼ばれるものが渡来します。つまり逆輸入ですね。

 

それはもはや楽器ではなく、権威の象徴として飾られる「祭事器」になっていました。

つまり、中国に服従した地域にだけ、ご褒美としてこの「中国式銅鐸」が贈られたということでしょうか?


右の写真は、上海の「東方楽器博物館」に展示されているものですが、もはや持ち歩くのは困難で、教会のパイプオルガンやベルのように、威厳と神聖さを象徴しています。

多分、これを鳴らすと、「神農」とか「孔子」とかが降臨するのでしょうネ。


この「後期銅鐸」が発掘される地域が近畿周辺に偏っているということは、中国の勢力範囲がどこまで及んでいたかを示す、重要な証拠だと思われます。

なぜなら、紀元2世紀頃までは、九州には「ウガヤフキアエズ王朝」が存在して、お互いに争っていたからなのです。

 

そして、これはさらに大胆な推測なのですが・・・・


人里離れた山の中から、複数の銅鐸がまとまって発掘されるということは?

そうです、現在でも「不法投棄の現場」がそうですよねえ?

つまり、捨てられたのです!

多分、中国の支配(あるいは大嫌いな領主の支配)が、終わったときに・・・・

 

 


最近になって、私の推測が正しかったことを証明する新聞記事が出てきました。

2015.8.13 奈良新聞 「銅鐸、吊るし鳴らした - 「ひも」初確認/奈文研」



コメント: 1 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    みしまる (日曜日, 10 1月 2016 18:10)

    サナキの鈴は鉄鐸ですよね
    千巻きの矛は、高千穂のレプリカのように三叉矛かも