ウガヤフキアエズ王朝の勢力範囲は、全国に及んでいた。

まずは、下記の地図をじっくりとご覧ください。

そこには、ウガヤフキアエズ王朝の勢力範囲が書かれています。

これは、明治10年に発刊された『上記鈔訳』の挿絵ですが、この地図を作成したのは、当時『上記(ウエツフミ)』を深く研究していた、下記の3人です。


吉良義風・・・・大分県竹田市出身で、旧・岡藩の藩士、のちに教部卿の役人として活躍。

森下景瑞・・・・明治時代の大分県令(現・大分県知事)で、『上記(ウエツフミ)』の復元に尽力。

岸田吟香・・・・東京日日新聞(現・毎日新聞)の主筆で、古代史に関する記事を紙面上で展開。


当時の大分県知事や新聞社のデスクなどの有名人・知識人も参加していますので、この地図の信憑性は、かなり高いものと思われます。


それでは、そこに書かれていた内容を詳細に見てみましょう。

 (出展 :  国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 上記鈔訳 [第1冊]1 


豊葦原之千秋之長五百秋之瑞穂之国全図
豊葦原之千秋之長五百秋之瑞穂之国全図

ニニギの時代の日本国の正式名称

ニニギの命が天孫降臨したときの、日本国の正式名称ですが、

豊地が原の中津国

であると書かれています。

このことは、以前にも書きましたが「豊道之原」または「豊地が原」は、正確に地球のことを指しており、その中心にある国という意味で「中津国」と呼ばれていました。

>>>詳しくは、こちら


またの名を、

豊葦原の千秋の長五百秋(イホアキ)の瑞穂の国


つまり、省略して「瑞穂の国」が、わが国の別名だったようです。

そして、ウエツフミのなかには「大和の国」という呼称は、一度も使われていません。

つまり、この古文書が書かれた時代には「大和国」は、まだ成立していなかったということなのです。



首都はどこにあったのか?

これは、あくまでもニニギの命の時代の首都ですが、

図のなかにある■のマークが「帝都」のある場所だと説明されています。


(1)二上(フタノボリ)の大宮はどこだったのか?

祖母山の山頂付近と、現在の宮崎県・高千穂地方周辺の二か所に■印がついており、この地図からはどちらが当時の日本国の首都=「二上(フタノボリ)の大宮」であったのかは特定できません。

この地図に限らず、『ウエツフミ』の作者は、聖地の場所を曖昧にしています。

たぶん、外敵から侵略されないため、あるいは聖地が荒らされないようにするため、あえて公表していないのだと思います。

最も大切なポイントは、私が以前から主張している「祖母山の北側にも重要拠点があった」という説は、この地図からも実証されたことになります。

つまり、祖母山の山頂付近に大宮が存在していたことは、ほぼ間違いないようです。

詳しくは、こちら


(2)その他の都市の配置

◆愛媛県の久万高原町

・・・・ここには、「第15代ウガヤフキアエズ天皇の御陵が置かれた」と本文に書かれています。詳しくは、こちら

◆宮崎県の日向市または宮崎市

◆佐賀県の柳川市または八女市

◆熊本県の五木市または人吉市

・・・・なお、「天草から北はほとんどが勢力範囲外だった」というコメントもあり、佐賀県や長崎県は国が成立しておらず、外国人に占拠されていた可能性もあります。

◆奈良県の吉野山付近

・・・・のちに第71代ウガヤフキアエズ天皇の時代に、この場所に遷都します。詳しくは、こちら

◆滋賀県の琵琶湖東部

・・・・琵琶湖の中にある島(竹生島=弁天島?)に、「豊玉姫の乗り物だったウガツチが宇賀神として祀られた」という記述があります。詳しくは、こちら

◆三重県の熊野地方の周辺

◆和歌山県の高野山周辺


(3)考察 その1

これらの都市の位置関係を眺めていると、あることに気づいた方はいらっしゃいませんか?

そうです、ほとんどの都市が「中央構造線」の上に配置されているのです。

一部スピリチュアル系の方や、宗教家の人が指摘しているのように、日本全国の「聖地」と呼ばれるパワースポットのほとんどが、中央構造線上にあるというのです。

私には霊感が無いのでそれ以上は分りませんが、何か大きな関連がありそうです。


(4)考察 その2

さらに、当時の大都市は、必ず高い山の山頂または麓(ふもと)周辺に築かれていました。

なぜ、低湿地や平野部に都市を置かなかったのか?全くもって不可解ですが、多分食糧生産の中心が、後代のように水田のみに依存しておらず、畑作物が重要だったこととも関係があると思われます。

 

ちなみに、考古学の世界でも「高地性集落」という遺跡が多数発見されており、当時の人たちが山間部に重要拠点を置いたという記述と、こみごとに一致しています。


つまり、弥生人とはもともと「山の民」であり、平野の水田で稲作を行なった渡来人勢力とは分けて考える必要がありそうです。

このことを裏付けるように、大分県の竹田市にある「大石遺跡」からは、日本最古の稲作の痕跡が発見されているのです。(縄文時代後期)

また、ウエツフミでも水稲と陸稲は明確に区別されており、どちらかというと陸稲のほうが主流だったようです。

つまり「稲作は九州の山間部から発祥している」可能性があります。

もしも私の主張が正しいならば日本の学説は大きく変わることになるので、これからも研究を続けてゆきますが・・・・

 


九州はどうなっていたのか?

それでは次に、九州地方の地図に注目してください。

上下がさかさまになって見にくいのですが・・・・


<大宮の元国>

九州のうち黒っぽく塗りつぶされている大分県(豊日)・宮崎県(奇日)・鹿児島県(建日)の東部(大隈半島~種子島・屋久島にかけて)が、「大宮の元国」であると書かれており、これがウガヤフキアエズ王朝の本拠地だったようです。

このことを裏付けるかのように、「日向の国には火山が存在しない」という記述もあります。

つまり、北は久住山・由布岳・鶴見岳、西は阿蘇山、南は霧島・桜島、これらの火山を結んだ内側が「日向の国」だったことが分ります。


<元代国>

さらに、九州西岸の福岡県(白日)・熊本県(速日)・鹿児島県(建日)の西部(薩摩半島)一帯ですが、ここは「元代国という」と書かれており、明らかに「大宮の元国」とは区別されています。

つまり、もともとはウガヤフキアエズ王朝の領土ではなかったが、何らかの理由により、あとから領土に組み込まれた土地であるという意味でしょうか?


ちなみに、薩摩半島の金峰山付近には▲のマークがついており、ここは「大部落の土地」であると説明されていますので、隼人族の本拠地がここであった可能性があります。

さらに、穴門の国(山口県)の周防佐波あたりにも、▲マークが付いていますが、こここそが景行天皇が挙兵して九州に攻め込んできた場所なのです。だから、景行天皇も地方豪族であったと私は考えています。詳しくは、こちら


<九州全体を高千穂国と呼んでいた>

さらに、ウエツフミの別の章には「高千穂の国」の地名の由来に関する記述があり、それによると「大宮の元国」と「元代国」を合わせた九州全域、すなはち大分県(豊日)・宮崎県(奇日)・鹿児島県(建日)・熊本県(速日)・福岡県(白日)を総称して、「日向の高千穂の国」と呼んでいたことも分りました。


すでに述べましたが、この頃はまだ佐賀県と長崎県には国が成立しておらず、第四代ウガヤフキアエズ天皇の時代になってから、やっと領土になったと書かれています。


『高千穂の国』の由来に関するウエツフミの記述


スサノオの命が国中を廻って、

筑紫の日向の国に着いたときに

国の翁たちが集まってきて

いろんな穀物を山のように積み上げて

スサノオの御前に「初穂」として捧げました。

だからスサノオの命は喜んで、


この稲穂は、豊日(大分県)の稲穂だ

畑の稲穂は、奇日(宮崎県)の穂だ

種の百穂は、速日(熊本県)の穂だ

麦の真穂は、建日(鹿児島県)の穂だ

黍の垂穂は、白日(福岡県)の穂だ

人民たち(大御田族)よ、十分だ、十分だ!

ありがとう!


と、歌いました。

だから、この故をもって、この日向の地を「高千穂の国」というのです。

M5-7



朝鮮半島はどうなっていたのか?

『上記鈔訳』の地図に関する注釈
『上記鈔訳』の地図に関する注釈

この地図の説明のなかに、朝鮮半島に関する重要な記述がありました。


ウガヤフキアエズ第15代天皇の8年、

新羅の賊、対馬に来寇す。

撃てこれを走らせ、追て本国を征す。

三韓悉く降る。


つまり、新羅の勢力が対馬に攻めてきたので、これを迎撃したところ、本国に逃げ帰ったので、追いかけて新羅を征服した。三韓もすべて降参した。

と書かれているのです。

 

かつて、朝鮮半島から中国大陸沿岸部に至る広大な地域を支配していたというウガヤフキアエズ王朝の実力が見えてきませんか?

詳しくは、こちら

さらに、「三韓征伐」を行なったという神宮皇后の伝承とも重なってきませんか?


ところが、第15代天皇の記述を読んでも、このくだりが存在せず、単に「対馬の国で土蜘蛛を退治した」という記述に変わっています。

いったい、『上記鈔訳』の三人の編集者たちは、何を根拠にこのコメントを書いたのでしょうか?

この地位も名誉もある人たちが、故意に創作を付け加えたとは考えられません。

逆に、このコメントのバック・データとなる本文の記述が無くなっているのです。明治10年以降に・・・・

どうやら、『ウエツフミ』の存在を抹消しようとする工作員たちは、現在でもせっせと仕事を続けているようです。

 


日本全国はどうなっていたのか?

ウエツフミの別の章では、初代・ウガヤフキアエズ天皇が即位したときの行政単位と、タケル(建)と呼ばれていた国つ神(現在の県知事?)の実名が詳しく書かれています。

これによると、北海道と沖縄を除く、日本列島のほぼ全域がその支配下に入っていたのです。

このことは、以前にも詳しく書いていますので、興味のある方はこちらから。



結 び

さてさて、これらの重要な記述は、今は全て消失しています。

いったいなぜなのでしょうか?

それは、「不都合な真実」が表沙汰になると困る人たちが居るということです。

すでに書いたとおり、朝鮮半島情勢についても誰かが真実をもみ消そうとしています。

 

以前から述べているとおりですが、私の大胆な推論を改めてまとめてみますと・・・・

 

◆大化の改新の前後に、国力が大いに衰退し、白村江の戦い(663年)に大敗したわが国は、唐=新羅連合軍の支配下に入ってしまった。

◆この外国人勢力による「クーデター」の最中に、蘇我氏が滅ぼされてしまう(645年)。

※ちなみに、入鹿は三韓からの使者の朝貢の最中に暗殺され、息子の蝦夷も攻められて自殺。

◆当時、日本古来の古文書を管理していたのは、蘇我氏の役目であった。

◆その膨大な古文書はすべて焼失し、いわゆる「焚書坑儒」が行なわれた。

◆このときに、聖徳太子らが中心にまとめつつあった『帝紀』と『本辞』も行方不明になる。

◆このクーデターに勝利して即位した天武天皇(多分外国人勢力による傀儡政権)は、『古事記』の序文なかで、その編纂の目的について、自ら次のように述べている。

 

「朕は、聞いたんだけどさあ、先人がまとめてた『帝紀』と『本辞』というのは事実と全く違って、ウソばかり書かれてるらしいジャン。(やばいよ、やばいよ)いまのうちに書き直しとかないと、本当のことがバレちゃうジャン。だから稗田の阿礼ちゃん、ヤバイところ削除しといてよ!」

 

・・・・・古事記「序文」を筆者がパロディ風に意訳したもので、決して創作ではありませんが、ちょっとフザけすぎたので、原文を併記しておきます。


「朕聞かくは、『諸家のもたる帝紀と本辞と既に正実に違い、多く虚偽を加ふといへり』。今の時に当りて、その失を改めずは、いまだ幾年を経ずして、その旨滅びなむとす。これすなはち邦家の経緯、王化の鴻基なり。故ここに帝紀を選録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定め、後葉に流へむと欲ふ」

 

つまり、このときから日本の古代史は大きく修正されたということです。

もっと重要なことは、『古事記』以前にも文字で書かれた歴史書が存在していたことを、天武天皇自身が認めているということです。

さらに、究極のミスは、天武天皇自身が“犯行声明”を出してしまったことです。

 

このことは、またあらためて詳しく説明します。

 

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