古代九州で覇権を争った3部族、それは日向族、隼人族、大和族だった。

さてさて、これまで2回にわたり「海彦と山彦」の謎を検証してきました。

この研究結果から、最終的には、大胆な仮説が浮上しました。


それは・・・・

「古代九州には、3つの種族が存在し、それぞれ覇権を争っていた」

のではないか?という結論です。


これまでは、「縄文人」vs「弥生人」という二極構造で、日本の古代史を考えてきた私ですが、これではどうしてもうまく説明ができないのです。


もうひとつの要素を加味することで、なんとなく全ての謎が解けたような気がします。

まだまだ研究途上ではありますが、一旦、途中経過というカタチでご報告させていただきます。



日向族、隼人族、大和族
三部族のイメージ図

まず、結論を先に書きます。


古代に九州で覇権を争った3つの種族とは、

「日向族」「隼人族」「大和族」だった。


宇佐神宮には、下記のとおり興味深い「ご託宣」が伝っています。

ちなみに、ご託宣とは巫女を通して伝えられた、八幡神自身のお言葉です。

◆出展 : 山口大学編集の 『八幡宇佐宮御託宣集』託宣・示現 年表』 平成25年5月20日

http://jpromotion.jp/gotakusen


<ご託宣(1) 年号不明>

あるとき、高知尾(高千穂)明神が、弟である八幡神阿蘇権現に対して、こう告げます。

「私は国土は要らない。帝位についても意味が無い。この女(美しい臼杵の采女)を見ていると、何の野心もわかない。おまえたちは早く花京(大和の国?)に行って、天下を治めて、帝の位を継ぎたまえ。」


<ご託宣(2) 年号不明>

あるとき、次男の阿蘇権現が、三男の八幡大菩薩に、こう告げます。

「おまえは早く花都(大和の国?)に行って、帝子(神武天皇?)を誕生させ、百王守護の誓約を実現して欲しい。自分はこの峰(阿蘇山)に残って、継兄の高知尾(祖母山)を見守り、あなたの本願を助けましょう。」


つまり、

「この3人の神様が合意のうえ、皇位継承権を八幡大菩薩に譲った!」

と、とれるような内容になっているのです。


まず、ご託宣(1)では、長男で祖母山に鎮座する高千穂大明神が、臼杵の采女に溺れて、皇位継承権争いから離脱します。


次に、ご託宣(2)のとおり、次男の阿蘇権現が夜部山草部吉見の女に溺れて、皇位継承権争いから離脱しました。


最後に残った八幡大菩薩が、畿内に登って大和王朝を創設し、それを阿蘇権現が助けて、高千穂明神を牽制した。・・・・といった内容が書かれているのです。


このご託宣は、いったい何を意味しているのでしょうか?



資料出展 『薩摩弁の謎』 
資料出展 『薩摩弁の謎』 

それを解決するには、まず

「この三兄弟神とはいったい誰なのか?」

を明確にする必要があります。


すでに結論を書いていますが、

その根拠は下記のとおりです。

八幡神=大和族----北九州

これは、八幡様自身が語っている言葉ですから、多少の自画自賛はあるとしても、最終的に畿内に登って帝子(神武天皇?)を誕生させたのは、八幡神であるということです。


以前にも書いたとおり、この八幡神というのは新羅の神様ですから、新羅の勢力が大和王朝の創建に助力したことになります。

>>> 詳しくは、こちら


大和族自身が外国人だったとは言いませんが、少なくとも「漢倭那国王」の時代から、この北部九州一帯には、親中国勢力、親朝鮮勢力が幅を利かせていたのは事実です。


しかも、この八幡神は、別のご託宣のなかで、神宮皇后に対して「三韓征伐」を指示しています。

つまり、新羅の神様が、新羅の王族(アメノヒボコ)の子孫である「オキナガタラシヒメ=神宮皇后」に対して、「新羅に登れば争わずして金銀財宝が手に入るよ!」と、そそのかしているのです。

このお告げを信じなかった夫の仲哀天皇は突然死していますので(暗殺された?)、新羅勢力が、日本の軍事力を使って自国に侵攻したことになります。

多分、神宮皇后が、積年の恨みを晴らすため日本の軍隊を引き連れて、祖国に凱旋したのでしょう。

※だから、新羅は争わずに降伏したと思われる。つまり同属の凱旋を歓迎した。

後日、神宮皇后は天皇に即位するが、大正時代になぜかこの皇位が取り消されている。

つまり賢明な大正天皇は、この事件=新羅勢によるクーデターを問題視した?


◆この種族出身が確実な人物・・・・景行天皇、仲哀天皇、神宮皇后、(ヤマトタケル)、武内宿禰、玉浦の四朗(タマラノヨロ、山口で反乱を起こした乱暴者で、景行天皇の幼名か?ウエツフミによる)

 


阿蘇権現=隼人族----熊本・鹿児島

それでは、阿蘇の神様とは誰だったのか?というと、それは、皇室に服従させられた隼人たちです。

なぜなら、その経緯は「海彦と山彦」の伝説に象徴的に書かれているからです。

このことは、以前に詳しく書いていますので、こちらから。


さらに、このことを裏付けるような決定的な発言を、八幡神自身がしています。

「私は以前、数万の軍勢を率いて、隼人を殺害して、大隈・薩摩を平定した。

今は彼らの命を救うため三帰五戒を行なおうと思う。(だから放生会を行っている)---748年のご託宣」


つまり、隼人を平定したのは八幡神をかつぐ新羅勢だったと認めているのです。

実際に、景行天皇(神宮皇后の祖父にあたる)の時代に、息子のヤマトタケルが、「熊襲征伐」ということで、鹿児島を攻めた経緯は「日本書紀」にも詳しく書かれています。

※ちなみに、滅ぼされた熊襲の棟梁・クマソタケルが、ヤマトタケルと名前を変えて、東征を行なったと私はみている。

※さらに、景行天皇は山口県の佐波で挙兵しているので、山口県も大和族の勢力圏内だったと思われる。


だから、隼人族は天皇家=大和族に対して忠誠を近い、その後、宮中警護などの要職についていたのです。

また、秦氏一族が来朝した際には、これらの渡来民族を取り締まる役割も果たしています。

そしてのちに、この隼人たちが源氏になったことは充分に考えられます。


◆この種族出身が確実な人物・・・・クマソタケル(ヤマトタケルに改名した可能性あり)、ヨスセリ(海幸・山幸の時代に反乱を起こした・・・ウエツフミによる)

 


高知尾明神=高千穂明神=日向族----大分・宮崎

そうです、最後に残る長兄こそ、ウガヤフキアエズ王朝を創建した日向族なのです。

もともとこの日向族が築いた「弥生文化」をベースとして、大和族たちが「古墳文化」に象徴される大和王朝を築いているのです。

だから、八幡神も高千穂明神のことを兄として尊敬し、同時に最も警戒しているのです。


※ちなみに、八幡神が大分県大野郡緒方村(日向族の拠点)に無断宿泊した際、漆嶋武官という人が焼木で八幡神を打ったので、「おまえの子孫はみんな色黒になれ!」と罵倒していることから、日向族と大和族は仲が悪かったことが分る。のちに緒方三郎惟栄は宇佐神宮を焼き討ちにしている。


ウエツフミによると、この日向族たちがまず関西に遷都しました。

第71代ウガヤフキアエズ天皇の時代に、九州に天変地異が相次ぎ、それが理由で奈良の吉野山に遷都したと書かれています。

これがのちに「神武東征」と呼ばれます。

>>> 詳しくは、こちら

 

ところが、関西にもともと住んでいたナガスネヒコ一族との戦いになり、ウガヤ王朝の国力は大いに衰退します。

この大混乱に乗じて「倭国大乱」が勃発し、その結果、大和族たちが政権を握ったと思われますが、残念ながら記録が一切残っていません。


さらに、大和族は自分たちが政権を取るやいなや、それまでに存在したウガヤフキアエズ王朝の痕跡を徹底的に抹消しはじめました。

『古事記』や『日本書紀』を編集しなおす必要があったのは、万世一系の天皇の系譜に自分たちの一族を割り込ませる必要があったからに他なりません。

そして、わずかに「日向三代(ニニギ⇒ホオリ⇒ウガヤフキアエズ)」というカタチでその名残を残して、天孫と自分たちの先祖を繋げることに成功しました。


だから現在でも、ウガヤフキアエズ王朝は存在しなかったとされているのです。


◆この種族出身が確実な人物・・・・ニニギの命、山幸彦、豊玉姫(隼人族から嫁いだ可能性も)、歴代のウガヤフキアエズ天皇、五瀬の命、カムイワレヒコ=ヒダカサヌ(神武天皇のモデルとされた)



そういえば、九州人なら誰でも納得するハズですが、現在でも九州は大きく3つの文化圏に分かれています。

なんといっても使われている方言が全く違うのです。


<肥筑方言=博多弁・熊本弁=大和族>

「○○ばってん、○○たい」というような言い方は、福岡と熊本がほぼ共通で、長崎や佐賀もよく似ています。

つまり、このあたり一帯が大和族の勢力圏だったということでしょうか?

そして、福岡には、現在でも「自分たちの土地から天皇を出した」という根強い民間信仰が残っているのです。


<豊日方言=大分弁・宮崎弁=日向族>

これに対して、大分や宮崎では方言が全く違います。

「○○やけど、○○じゃなあ」

というように、やや語尾がやさしくなっています。

さらに、瀬戸内海一帯の広島や岡山、四国の北部でも、多少のニュアンスが違いますが、かなり方言が似ているのです。

岡山でも「じゃあ、じゃあ」がよく使われますし、広島では「じゃいけえ」と訛りますが、基本は同じです。

つまり、かつて瀬戸内海一帯を支配していたという日向族たちの影響が根強く残っているのです。


<薩隈方言=鹿児島弁=隼人族>

ところが、鹿児島は九州の中でも独立国で、その方言は他県人には全く通じません。

独自の文化圏がいまでも脈々と引き継がれているのです。


隼人族と阿蘇山信仰を結びつける証拠は見つからず、方言区分と聖山の位置が多少ずれていますが、もしかしたら古代の隼人たちは現在の熊本(当時のクマ国)あたりに住んでいたのかもしれません。

長い争いの結果、勢力区分が微妙に変化してきたということでしょうか?



以上を要約しますと、日本の古代史とは、この3つの古代種族が織り成す複雑な縄目模様のようなものであり、それをほどいて見事に説明した学説はまだ登場していないということなのかもしれません。


ちなみに、古田武彦氏が提唱した「九州王朝説」がありますが、氏は「ウエツフミ」の存在を知りながら、あえてウガヤフキアエズ王朝を無視しています。

なぜなら、「あぶながって手を出さない(つまり学術的な証拠が少なすぎる)」と自認しており、

「(誰かが)歴史学の立場から取り組むべき本ですよ、ね。」と言っているのです。

>>> 詳しくは、こちら


さらに、最初に滅ぼされた(滅びた?)出雲族も加味すれば、まさに「四極対立」の様相を呈してきますので、古代史学者たちの仕事はまだまだ道半ばといったところでしょうか?

 

 

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