「三種の神器」とは?・・・天叢雲剣と草薙剣は全くの別物だった。

みなさんは『三種の神器』って、何だかご存知ですか?
そうです、正統な天皇家の証である大切な大切な宝物ですよねえ。

ところが、いつのまにか大変なことになっています。

 

試しにWebで検索してみてください。
最も信頼できると思っていた Wikipedia にさえ、下記のように書いてありました。

八咫鏡
八尺瓊勾玉
天叢雲剣(草薙剣)

 

はたしてこの記述は正しいのでしょうか?
どこかがおかしいと思いませんか?

 

そうです。
なんと、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」は、全く同じものだと書いてあるのです。 しかも(カッコ)とは・・・

 

いつのまに、こうなっちゃったのでしょうか?
我々の気付かないあいだに、大変な事態が進行しているようです。

 


<天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とは?>

◆スサノオの命が出雲の国でヤマタノオロチを退治したときに、その体内から出てきたものです。
◆「ことに大きく曲がった“つむがりの剣”」(大分の方言でつんまがった剣)とウエツフミには書かれています。M4-12
◆スサノオは、「この剣を持って戦うと、いつも天空に群れ雲が発生する珍しい太刀なので、私のような者が持つべきではない」と、これを天照大神に献上します。
◆すると天照大神は、「それは天之香山の岩染めの美しい銅(もしかしたらヒヒイロカネのことか?)で、私が作らせたものです。天の岩戸に篭ったとき、動転して(天上界から)美濃淡海の伊吹に落としたものです。」と云います。
(ウエツフミの記述による M5-5、記紀はこの記述を簡略化している)

 

<草薙剣(くさなぎのつるぎ)とは?>

◆ウエツフミには記述がありません。(ウガヤ王朝が滅んだあとのことなので)
◆日本武尊(ヤマトタケル)が、東征の途中で伊勢神宮を訪れたとき、「父の景行天皇はどうして私をこんなにいじめるのだろうか」と嘆きます。
◆すると、それを聞いたおばさんの倭比売(ヤマトヒメ、誰なのか不詳)が、草薙剣と袋を授けます。
◆焼津で火に囲まれたとき、袋に入っていた火打石とこの剣で炎を払って命拾いします。

だから「草をなぎ倒した剣」という意味なのです。
(以上古事記の記述による)

 

 <2つの剣は全く別物である---その根拠>

(1) 天叢雲剣はもともと天上界にあったものなので、その名前に「天(アメ)の」と付いていますが、草薙剣は地上界で作られたもですから、名前に「天の」が付いていません。

ましてや、天孫である天皇家の正統性を証明する「神器」ではありません。

 

(2) しかも、もし Wikipedia の記述=通説が正しいとするなら、天皇でもないヤマトヒメが勝手に持ち出して、天皇でもない日本武尊がそれを持ち歩いて、野原で振り回したことになります。
無くしちゃったらどうするつもりだったのでしょうか・・・大切な神器なのに?

天照大神が聞いたら、さぞかし憤慨することでしょう。

つまり、日本武尊が登場するまでは、この草薙剣は「神器」でもなんでもない、ただの剣だったと言っていることになります。(記紀の作者たちはここで大失敗しています。)

 

(3) さらに、草薙剣の写真を見ると、その形状は「直刀」であり、大きく曲がっていた天叢雲剣とは、全くの別物のようです。

弥生人は、曲がった刀を「剣(つるぎ)」と呼び、真っ直ぐな刀を「矛(ほこ・・・多分外国製)」と呼んで、明確に使い分けていました。

つまり、もともと日本人が作った「剣」は、日本刀のような形状をしているのです。(下記の写真参照)

 

いつのまに、この2つが混同されはじめたのでしょうか?
私には、天叢雲剣は最初から天皇家には無かったので、草薙剣をもって代用したとしか思えません。

つまり、誰かが意図的に誤魔化そうとしているのです。

 

それでは、ウエツフミの記述をもとに「三種の神器」の経緯を、時代ごとに追ってみましょう。

 


<出雲王朝からウガヤ王朝へ>

先日「陰陽師Ⅱ」がテレビでオンエアされました。
それによると、「天叢雲劒」はもともと出雲国のお宝で、大和王朝がこの出雲国を滅ぼして、剣を横取りしたという説に立っています。
原作者の夢枕獏氏は、「出雲国の創始者であるスサノオが化けて仕返しをする」というストーリー展開を考えました。

 

「ウエツフミ」では、この説 (特に後段) を否定しています。
◆最初にスサノオが建国した出雲国があった。(その意味で前段は正しい)
◆ただし、オオクニヌシの代になって、(肉食が原因で)天変地異が相次ぎ、出雲国の統治は天上界に返上された。

このとき、オオクニヌシは天上界に上がって神となった。そして出雲大社に祀られた。
これが本当の「国譲り伝説」である。 詳しくは、こちら
◆だから天照大神は、その後継者としてニニギの命を天降りさせた。
◆つまり、そこに戦闘行為は無かった。(実際に戦闘で大和王朝に滅ぼされたのはウガヤ王朝だった)

◆そしてオオクニヌシは、ニニギの天下統一に喜んで協力した。
◆だから出雲国とウガヤフキアエズ王朝とは仲が良い。

 

・・・というように、「ウエツフミ」では、出雲王朝からウガヤフキアエズ王朝への政権交代はスムースに行われたという説を展開しています。

 

<ニニギの天孫降臨のとき>
なんと最初は「二種の神器」だったのです。
このことは、Wikipedia にも書かれています。

ウエツフミによると、 
◆ニニギの命が天孫降臨するとき、天照大神が鏡と剣を手渡し、「この鏡を私の御魂代として、私の前に畏まるように、一定の建物の一定の床に鎮座させて、この鏡を祀りなさい。」とお告げになりました。M8-22
◆続いて「大御神の御像代の八咫鏡  また  天之叢雲の太刀  二種の神宝以て  永久に  天津日継の御璽となし」つまり、「八咫鏡と天叢雲剣の二種の神器をもって、永久に天孫であることのしるしとせよ」と言っています。
だからこの神器は、最初は大分の「御宝山」に置かれていたのです。
詳しくは、こちら
◆また「身に付けていた八尺の勾玉と、国平け日矛(くにむけひぼこ)を副えた」とありますので、「八尺瓊勾玉」は最初は神器ではなかったのです。 (ここでも剣と矛は使い分けられていることに注目)

 

また、ウエツフミには「八咫鏡」が作られた経緯も書かれています。
◆天の岩戸にお隠れになった天照大神を、外に誘い出すため、オモイカネの命が一計を案じて、天照大神のお姿=太陽の形に似せた鏡を作らせます。
◆最初にできた2個の鏡は、とても小さかったので、神々が「似ていない」と判断し、改めてサイズの大きい2個の「八咫鏡」が作られました。
◆つまり本物はかなり大きいサイズであり(咫は長さの単位で8咫=150cm=ほぼ等身大という説もある)、しかも真金(純金)で作られているはずです。M3-17
◆そのうちのひとつがニニギに手渡され、残るひとつはまだ天上界にあるのです。

 

<歴代ウガヤフキアエズ天皇の即位式>
◆天皇が新たに即位する際には、天孫の御璽である「三種の神器」が、必ず譲渡されました。
◆ただし、ウガヤ王朝では「八尺瓊勾玉」ではなく、「潮満玉(しおみつたま)」と「潮干玉(しおひくたま)」が、第三の神器とされていました。
◆これは、豊玉姫が山幸彦に嫁いだときに、父親のワダツミの神が持たせたもので、「潮満玉(火丹色)を海に浸けると潮が満ちて、潮干玉(紫色)を海に浸けると潮が退くので、御国の祭り事に使ってください。また荒ぶる禍事(まがこと)をなす者があれば、この玉で溺れさせなさい。」と説明されています。
つまり実際に使える武器だったようです。 M14-15
◆例えば、初代ウガヤフキアエズ天皇が即位したときには、
「神宝ハ  八咫御鏡  叢雲御剣  御潮燿玉を  手置柏屋の命の作れる 檜以て結ゑる 型 取りの  明日はの檜の 清み置きに」と、書かれています。M16-31
◆この伝統は、第73代日高狭野に至るまで、途切れることなく継承されてきました。M40-2

 

以上のように、ウガヤフキアエズ王朝においては、かなり厳正に継承されてきた「三種の神器」なのですが、

その後どうなったのかというと・・・・・
さてさて、ここからが大問題なのです。

 

<記紀の記述では> 

◆「日本書紀」では、スサノオがヤマタノオロチから取り出した剣が「草薙劒」であるとなっており、

また「一説には天叢雲劒ともいう」と書かれています。・・・(大切なお宝に異論が存在しても良いのでしょうか?)
さらに、日本武皇子の時代に「名を改めた」ともあります。・・・(全く必然性の無いこじつけに聞こえます)
なるほど、Wikipediaの記述はこれをもとに書かれているのですね。
なんだか雲行きが怪しくなってきましたよ。


◆垂仁天皇の八十七年春二月に、

「犬が噛み殺した怪獣の腹から八尺瓊勾玉が出てきた。今は石上神宮に在る」

と書かれています。・・・日本書紀巻六より
あれれれ?
八尺瓊勾玉は、どうやら最初は「神器」ではなかったようですねえ。

 しかも「日本書紀」の筆者は、これが「三種の神器」であることを知りながら、「不敬罪」も覚悟のうえ?堂々と珍説を展開しています。

もっとはっきり書くと、編者の藤原不比等は、皇室や神話に対して懐疑的で反抗的であったと解釈されても仕方ありません。

これを私は、藤原姓を横取りして日本人になりすました中国勢力による「思想テロ」だとにらんでいるのですが・・・・・詳しくは、こちら

 

◆最も重要な記述は、景行天皇が九州に遠征してきたとき、大分の女王であった、神夏磯媛(かむなつそひめ)が降伏するのですが、なんと彼女は正統な天孫の証しとして「八咫鏡(やたのかがみ)」を奉げて登場してくるのです。 >>>詳しくは、こちら

当時は、王族同士が対面するときはお互いの御璽を見せ合って、自分の正統性を主張していました。

これを後代のボンクラ学者たちは、「八咫鏡なんてその辺にゴロゴロしていたのだから、地元の一豪族が持っていてもおかしくない」と解釈していますが、とんでもありません、八咫鏡はひとつだけです。

神夏磯媛(かむなつそひめ)が誰なのかは、はっきりと分かっていませんが、八咫鏡を持っていたということは、ウガヤフキアエズ王朝末期の女帝であったことは間違いありません。

ウエツフミに書かれた第68代から第74代まではずっと彦(男性)でしたので、幻の第75代が女帝であり、神夏磯媛なのではないかと考えています。

つまりウエツフミに記載される余裕も無いほど、突然に滅ぼされたということなのです。

このときに、「三種の神器」も大和王朝に承継、または略奪された可能性が高いのです。

 


<まとめ>

長くなりましたので、もう一度整理しますと、
◆最初に「天叢雲剣」があり、これは出雲国のお宝でした。
◆その後、出雲国の滅亡とともにこの剣は天上界に返却されます。
◆再び、ニニギの命が天降りする際に、天叢雲剣と八咫鏡の二種を携えて降臨してきます。
◆その後、息子の山幸彦が豊玉姫と結婚したときに、「潮満玉・潮干玉」が、第三の神器として追加されました。
◆ウガヤフキアエズ王朝が滅んだ際、八咫鏡が大和王朝に承継されます。
詳しくは、こちら
◆その後、日本武尊(ヤマトタケル)が「草薙劒」を手に入れ、垂仁天皇が「八尺瓊勾玉」を手に入れ、これらが大和朝廷の「三種の神器」となります。

 

ということは・・・(どこにも書かれていませんが)、ウガヤ王朝が滅んだときに「天叢雲剣」と「潮満玉・潮干玉」は紛失している可能性が高いのです。
また、「天叢雲剣」は朝鮮人に盗まれたという説もありますし、源平合戦の際に壇ノ浦に沈んだという説もあり、どちらにせよ現存していないようです。

 

ただし、それが今もあろうと無かろうと、
◆天叢雲剣・・・・・出雲王朝のシンボル
◆八咫鏡・・・・・ウガヤ王朝のシンボル
◆八尺瓊勾玉・・・・・大和王朝のシンボル
というように象徴的に解釈すれば、
現代の「三種の神器」は、「この三つの王朝の統合と継承の証」であるということになります。
その解釈が最もふさわしいと感じるのは、私だけでしょうか?

 

※文中の記号は出典の場所を示す。M4-12とはウエツフミ宗像本第四綴第12章を指す。

大分県日田市から出土した弥生時代の剣(左)・・・日本刀や出刃包丁のように曲がっていることに注目!同時に出土した矛(右)は真っすぐで明らかに異なる。
大分県日田市から出土した弥生時代の剣(左)・・・日本刀や出刃包丁のように曲がっていることに注目!同時に出土した矛(右)は真っすぐで明らかに異なる。
長野県木島平村から出土した弥生時代末期の鉄剣
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