倭国大乱と、ウガヤフキアエズ王朝の滅亡。

 

前回は、『神武東征は無かった。第71代が九州から吉野山に遷都した。 』というテーマで、

ウガヤ王朝末期の混乱ぶりを書きました。

 

今回は、その続きです。

 

「倭国大乱とは、外国勢力と結託した、タラシヒコ系天皇一族による反乱だった!」

 

大胆な仮説ですが、そう考えるとすべてがスッキリとまとまってくるのです。

非常に複雑なストーリーなので、時系列順にポイントを列記します。
冒頭のイラストを参照しながらイメージしてください。

 


(1) ウガヤ王朝71代臼杵天皇の時代に、九州に天変地異が相次ぎ、これが原因でウガヤ王朝は近畿遷都を目指す。

これが後に「神武東征」と呼ばれた。

 

(2) ところが、近畿にすでにあった「ナガスネヒコ王国」との戦いになる。
ナガスネヒコはニギハヤヒという(日向系とは全く違う)別の神様の系統(つまり別の文明)で、近畿にすでに土着していた。

⇒⇒同じニギハヤヒを信奉する物部氏の祖先か?


(3) ナガスネヒコは新羅に援軍を依頼して、新羅軍も近畿に乗り込んでくる。
新羅としては日本国内に傀儡政権を建てたかった訳である。

⇒⇒記紀にこの記述が無いのは、新羅勢力が書いた歴史書だから?


(4) ウガヤ王朝は、苦戦の末に、この「ナガスネヒコ=新羅連合軍」を滅ぼしたが、第72代五瀬天皇が戦死してしまう。


(5) その息子73代カムヤマトイワレヒコ=ヒダカサヌ=神武天皇は、父の敵を討ち、奈良に橿原の宮を建てて、しばらく近畿の地に落ち着く。

 

-----ここまではウエツフミにも記述があり事実-----
-----ここから私の仮説-----

 

(6) 穴門の国(山口県)に、第三の勢力が発生する。


(7) 名前に「タラシヒコ」が付く景行天皇~成務天皇~仲哀天皇と、そのお后・神功皇后の一派である。

さらにその配下のヤマトタケルと武内宿禰ら。

⇒⇒ちなみに「たらす」とは甘言をもって人を欺くことで、「タラシヒコ=騙し男」という異名は後代の人が付けた蔑称か?あるいは暗号的にマーカーを付けて「違う系統」であることを示唆した。


(8) 景行天皇は、周芳娑麼(山口県の佐波)で蜂起し、まず「西征」を行う。
近畿に遷都して手薄になっていたウガヤ王朝の残党を、豊後の国で一掃することに成功。

これを「土蜘蛛征伐」と呼んだ。
⇒⇒つまり、記紀に書かれている「西征」とは、山口から見た九州征伐のことだった。

⇒⇒もし景行天皇の中心勢力が近畿にあったとしたなら、ここ山口で挙兵した理由が全く不明。

⇒⇒仲哀天皇も言っているとおり「ここから九州を見ても海しか見えない」ので、大分攻めの前線基地としても不適。

⇒⇒つまり景行天皇は、ここ山口の土着の人だった。

>>>詳しくは、こちら

⇒⇒しかも、このときに対応した土着の神夏磯媛=カムナツソ姫(ウガヤ王朝最後の女王?)は、なんと「八咫鏡」を旗印に奉げて登場するのだ、。つまり土蜘蛛族のほうが、正統な皇族である。

>>>詳しくは、こちら


(9) 鹿児島あたりで、クマソタケルという最強の武将を屈服させ、その軍団を味方に付ける。

私は、ヤマトタケルはクマソタケルが名を変えて服従した“薩摩隼人”であると解釈している。
これを「熊襲征伐」と呼んだ。

⇒⇒このとき高千穂を素通りしているので、ウガヤ王朝の関係者でないことは明白。

⇒⇒記紀が薩摩隼人の起源に触れ賞賛しているのはこのため。

⇒⇒ヤマトタケルは、大分を攻めている段階では全く名前が出てこない。つまり景行天皇の独壇場だった。なのに、鹿児島から急に合流してくる。それまで、どこに居たのか?


(10) ヤマトタケルは、一般に考えられているイメージとは全く違い、残忍かつ狡猾で凶暴な最悪の武将である。

つまり日本古来の“武士道”とは、ほど遠い価値観を持っている。ましてや皇室には全く無いキャラである。
⇒⇒記紀によると、兄を殴り殺して簀巻きにした事件で景行天皇に気に入られている。しかも、兄が朝食に起きてこなかったから・・・という理由だけで。この感覚は、とても正常な親子関係とは思えない。しかもそれを正史に堂々と記述する「日本書紀」の編者も、どこかピントがずれている。要するにそういう人たちだったのだ!この本を書いたのは・・・
⇒⇒また、クマソタケルを滅ぼすときは女装して酔わせてから騙し討ちにしている。その他、卑怯な作戦で優位に立つことしばしば。
⇒⇒なお、ウエツフミの最終章41綴にも「玉浦の四郎(たまらのよろ)」という名前で、穴門の国の31歳の極悪非道の若者として登場している。


(11) このヤマトタケルが中心となって、次は東征を行い、近畿に遷都したウガヤ王朝の本体を、関東あたりにまで追い詰めて滅ぼす。

この頃、ウガヤ王朝内部では、東勢力(綏靖天皇を中心とする近畿勢)と、西勢力(兄のタギシミミを中心とする九州勢力)との間で、内紛が勃発していた可能性もある。(タギシミミの反乱)

いずれにせよ、大混乱の最中にヤマトタケルらの第三勢力に攻め込まれた。

これを、のちに「蝦夷征伐」と呼んだ。

⇒⇒このとき岡山に居た別の秦氏一族(ミスキトモミミタケヒコ)も合流しているが、この勢力がタギシミミかもしれない。

⇒⇒このとき東に逃げたウガヤ勢力が、その後、坂東武者=源氏や奥州藤原氏となった可能性もある。だから関東一円にも、ウガヤ王朝の神々を祀る神社が多くある。


(12) このあたりから中国の勢力=秦の始皇帝の残党=秦氏一族が、この第三勢力に接近しはじめる。

あるいは最初からそうだったのかもしれない。

⇒⇒「三大実録」には、仲哀天皇の195年に秦の始皇帝十一代の孫・功満王が渡来して蚕を伝えたとある。

 

(13) 首謀者は、中国勢力の密命を受けた武内宿禰(多分帰化人)と、その共犯者であり、巫女として仲哀天皇に近づいた神功皇后である。つまり現代にいう「ハニートラップ」であった。

⇒⇒仲哀天皇がヤマトタケルの息子であることにも注目。つまり正統な皇族ではなく、薩摩隼人の系統という可能性も・・・


(14) 彼らは「武力による国内統一=九州侵攻」を主張して、仲哀天皇をそそのかそうとするが、仲哀天皇が非戦論者であったため暗殺してしまう。

つまりそれまでの最大功労者であった薩摩隼人を使い捨てにした。(明治維新と全く同じ構造)

⇒⇒天皇が琴を弾きながら突然死んだとき、そばに居たのは神功皇后と武内宿禰の二人だけ。

⇒⇒また「西の熊襲の国は金銀財宝にあふれ・・・」とタラシこんだが、香椎宮からみると熊襲は西ではなく南である。また新羅も北である。つまり彼らは山口に居たと思われる。

さらに仲哀天皇は、「西を見ても海しか見えないので」と反対したが、香椎の西には糸島半島が見えるので、この海とは周防灘のことか?


(15) その後、皇位を乗っ取って天皇に即位した神功皇后と、その背後にいた武内宿禰により、完全に旧ウガヤ勢力との政権交代に成功する。

⇒⇒ちなみに神功皇后は、新羅のアメノヒボコという王子の末裔である。

⇒⇒明治時代のお札や切手に書かれた肖像画をみると、完全に西洋人の顔立ちだが、もしかしたら本当にそうだった?

⇒⇒だから大正時代に皇位が取り消された。

⇒⇒大正天皇はまともな人だったので、この第三勢力が立てた明治天皇(山口県田布施町出身の大室寅之祐という説あり)の残党から敬遠された。

 

(16)神功皇后は、九州を征服した後、関西に侵攻して、近畿一円に残っていたウガヤ王朝の勢力を一掃する。

⇒⇒このときの逸話を応用して「神武東征」という架空のストーリーをでっちあげた。

⇒⇒だから「熊野から迂回する」あたり、両者は共通の題材で書かれている。つまり、神武東征は無かった。>>>詳しくはこちら

⇒⇒そう考えないと、神武天皇がいったん征服し、景行天皇=ヤマトタケルが再び侵略したはずの関西(このときは失敗してヤマトタケルが伊吹山で殺された?)を、なぜ神功皇后の時代になってから三度攻めるのか?全く説明ができない。


(17) 仮に神功皇后=卑弥呼であったとすると、中国に貢物を奉げて金印を受けた理由も明確になる。

「魏志倭人伝」にいう「男子を立てたが治まらず」の男子とは仲哀天皇のことになる。

⇒⇒「神功皇后=壹與」だという説もあるが、いずれにせよ親中国政権だった。

⇒⇒つまり邪馬台国は中国の傀儡政権だったので、その後中国が証拠をもみ消した。


(18) さらに、帝国主義的な侵略戦争を引き起こして「三韓征伐」を行う。
その背後には秦氏一族による「ピラミッド信仰=世界統一思想」がある。

⇒⇒だから神功皇后と武内宿禰は明治時代に“お札”になった。金融業会を独占している世界勢力からみればこの二人は英雄なので・・・

⇒⇒新羅は最初から仲間だったので、侵攻をむしろ歓迎した。だから記紀には「戦わず服従した」と書いてある。


(19) その後、この勢力が万世一系の天皇の系譜に割り込んで来たので、古代史に混乱をきたしている。


(20) 「古事記」「日本書紀」はこの第三勢力が中心となって、ウエツフミを参考に書き直した。
このときにウガヤフキアエズ王朝に関する記録は抹消された。

 ⇒⇒秦の時代に「焚書坑儒」をやった人たちなので、文明破壊は彼らの得意技。というより、古代史や民族意識は世界統一の妨げになるという彼ら独特の世界観による。

⇒⇒「古事記」は万葉言葉=古代新羅語で書かれた朝鮮半島向けの歴史書。

⇒⇒「日本書紀」は漢文で書かれた中国向けの歴史書。だから中国人はそのまま読める。

⇒⇒「ウエツフミ」は豊国文字=古代日本文字=カムカタナで書かれた日本人向けの歴史書。だから抹消された。

 

(21) 同時に、自分たちの出身地が山口であることも曖昧にした。

そうしないと、自分たちが“賊軍”であることがバレてしまうからで、あくまでも正統な皇室の系譜だと偽装した。

いまも景行天皇の「纒向日代宮」の場所は不明だが、私は山口県田布施町だと思う。

⇒⇒この地に熊毛国=南朝だという伝説があり、明治天皇や著名な政治家が輩出しているので。

>>>詳しくは、こちら

 

(22) さらに、この第三勢力の流れをくむ明治政府も、ウガヤ王朝の痕跡を必死になって消した。

 

-----以上が私の仮説-----

 

このように考えると、ウエツフミの記述、古事記の記述、日本書紀の記述、さらに現代史までがひとつにまとまって整合性を帯びてくるのです。

 

この時期は戦乱の時代であったので、歴史的な記述が少なく、古代史上の空白ゾーンとなっています。
中国ではこれらの事件を総称して「倭国大乱」と呼んでいます。
実は、密かに自分たちが仕掛けた「内戦クーデター」だったのですが・・・・・

 

 

>>> 『熊襲とは、熊毛王国と薩摩隼人との連合軍だった。

コメント: 6 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    まま (金曜日, 11 4月 2014 19:26)

    はじめまして。

    わたしはウガヤフキアエズ王朝の時代の記憶を持っていて、それが何のかわからなかったけど、今日、こちらにおじゃまさせていただき、答え合わせができました。
    ありがとうございました。

    まずは、お礼まで。

  • #2

    マツダ (土曜日, 14 2月 2015 09:43)

    日本書紀、古事記を読んでみても残る謎と混乱からいろいろ勉強しなおしました。確たる答えは出ません。最近、書店に並ぶ関祐二氏の歴史本がかなり売れているようですが、私もかなり読みましたが。彼もしっかりした仮説を用意されています。しかしながらそれでも謎は多いようですしまだすっきしません。一方で、このサイトで提示されている仮説は刺激的でまだまだ証拠を揃える必要があるとおもいます。しかし、すべて、今後ますます注目すべき内容かとおもいます。ありがとうございました。
    ナガスネヒコと新羅とのつながりに関して、なにか、印象だけではなく、なにか、確たるものがあれば教えて下さい。

  • #3

    ugaya (土曜日, 14 2月 2015 10:30)

    マツダ様
    どうもコメントありがとうございます。
    ナガスネヒコと新羅の関係ですが、これは印象ではなく、ウエツフミにそう書かれています。
    ナガスネヒコは、自分がニギハヤヒの子孫である御印を見せて、穀物を与えて、新羅を味方につけます。・・・・ウエツフミ宗像本37綴
    これに対し新羅は、50艘の軍艦と千人の軍隊を三木の港に派遣し、ナガスネヒコと一緒に戦ったとあります。

  • #4

    マツダ (土曜日, 14 2月 2015 22:14)

    そうでしたか。私もウエツフミを読む必要がでてきました。自分で確かめたいです。原本を読む知識にかけるので現代語訳に期待します。ウエツフミ現代語訳はあるのでしょうか?教えていただけますか?

  • #5

    ugaya (土曜日, 14 2月 2015 22:55)

    マツダ様
    ウエツフミの現代語訳というのは、書籍とサイトを含めて、私も見たことがありません。
    唯一、原文が公開されている田中勝也氏のサイトがありますが、コピーできないし、リンクも貼ることができません。
    http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumi/
    私はこのサイトを参考に自分で翻訳していますが、ナガスネヒコについては、記紀以上のボリュームで、詳細に書かれています。
    例えば、こんな感じです。(原文を私が画像化して自社サーバにアップしたもの)http://www.jpro9704.cpinet.jp/uetsufumi/nagasunehiko.gif
    記紀との違いは、
    ◆ナガスネヒコはニギハヤヒの末裔ではない。
    ◆ニギハヤヒの神器を盗んだ、本名・登美彦という悪人である。
    ◆新羅をも騙して味方につけ、その勢力を国内に呼び込んで、関西で抵抗した。
    ◆最後は首を吊って自殺したのであり、ニギハヤヒに殺されたのではない。
    少々お時間をいただければ、ナガスネヒコについて新しい記事を書いてみたいと思います。

  • #6

    マツダ (日曜日, 15 2月 2015 00:21)

    やはり田中勝也氏のサイトを自分で読むしかないですね。頑張ります。わからなくなればご教示下さい。ナガスネヒコがニギハヤヒの末裔ではないのは、私もある程度理解できます。登美毘古 登美は奈良にある地名ですので、そのこともなんとなく理解できます。悪人であるということまではもちろんわかりませんが。私は、大阪府太子町に住んでいますので、蘇我系の天皇陵を間近に見ることができます。このサイトでもあります用明天皇陵がそばにありますのでやはり強く古代史をを意識しています。これだけ歴史ある町に住みながらなにも知らないでは情けなく、現在いろいろ勉強しております。これからもよろしくお願いします。