大友氏の繁栄とウガヤ王朝との密接な関係・・・キーワードは「鉱山」

源頼朝の落胤(らくいん=私生児)という説もある大友能直ですが、もともと相模国足柄の出身であり、豊後の国には源頼朝の命令により、守護として赴任してきただけなのです。

(たぶんイヤイヤながら・・・)


つまり転勤族の一時勤務先ということであり、そのうち早々に帰任することを考えていたハズです。

 

ところが、転勤先で思わぬ大発見をしてしまいます。
それは、わが国の成立と、自分の出自にまつわる隠された真実、つまり『ウエツフミ』だったのです。

実は、大友能直は藤原氏の家系でした。

なぜそう断定できるのか?というと、自分が編纂した『ウエツフミ』の序文に署名したとき、
藤原朝臣能直
と書いているのです。(下記の写真参照)


すでに何度も述べましたが、藤原氏の祖先はアメノコヤネであり、ウガヤフキアエズ王朝の右大臣を代々勤めた家系なのです。 

アメノコヤネはニニギの命に伴って天孫降臨し、宇佐地方の豪族の娘ウサツヒメと結婚して、中臣氏の始祖となります。 >>>詳しくはこちら

 

豊の国に伝わるもうひとつの歴史を知って驚いた能直は、「これを保護して後代に伝える」という決断をしました。
これは重要なことであり、この決断が無かったならば、ウガヤフキアエズ王朝の存在は、闇から闇へと永遠に葬り去られていたことでしょう。

 

ところがこの善行とは全く逆のことも実行しています。
すでに書いたとおり「1600人のサンカたちの大虐殺」です。
もし三角寛の記述が正しいとするならばですが・・・・・

 

では、なぜこんな悪行をやってしまったのでしょうか?

それを解くヒントは、
◆その後、大友氏がここ豊の国に住み着いて本拠地としてしまったこと。
◆その子孫たちが、豊臣秀吉や島津氏、毛利氏も脅かすほどの大豪族に発展したこと。
の2つにあると思うのです。

 

ここからは私の推測ですが、結論を先に書きます。

大友能直は、わが国の歴史を覆す重要な記述と同時に、莫大な財産を手に入れてしまったのです。

 

なぜ、そう言えるのか?順番に説明します。

 

まず、能直の子孫の大友宗麟は南蛮貿易に力を入れました。
豊臣秀吉が島津氏征伐のため九州を訪れた際に(彼は豊前に止まって豊後には入っていませんが)、宗麟の築いた「臼杵港」が長崎港よりも繁栄していることに驚いてしまいます。
そして、大友氏は将来自分の脅威になることを確信して、急に手のひらを翻したかのように大友氏イジメを始めます。その具体策が「キリシタン大名禁止令」と「バテレン追放令」でした。
つまり、「耶蘇教はけしからん!」という名目で、大友氏らキリシタン大名の収入源である南蛮貿易を封印したのでした。

 

話が長くなりましたが、このときの貿易の決済代金はどうやって支払ったのでしょうか?
大分県は農産物や海産物は豊富ですが、それが異国人たちを喜ばせるほどの経済的価値を持っていたとは考えられません。
鉄砲や大砲を、椎茸やカボスや関サバと交換していたのでしょうか?

 

そうです、もうお分かりですよね。
豊の国には豊かな鉱物資源も存在していたのです。

この頃、南蛮人たちが欲しがったのは「銀」でしたが、果たして銀山が大分に存在したのでしょうか?
そうです、あったのです!
それが尾平鉱山や木浦鉱山なのです。

 

尾平鉱山は、天孫降臨の地である「祖母山」の中腹にあります。 >>>詳しくはこちら
ニニギの命もここに最初の大宮を作り、そこには豊富な鉱物資源が産出したと、『ウエツフミ』にも書かれています。
もしかしたら、この鉱物資源があったからこそ、ここが天孫降臨の地として選ばれたのかもしれません。

(『秘密の裏話』にあるように、もし彼らが宇宙人で、資源を求めて地球に飛来したのだとしたら・・・?)

 

さらに『ウエツフミ』には、埋蔵されている鉱物資源を発見する方法や、鉱石を精錬して金属を作る方法まで、細かく記載されていたのです。



尾平鉱山にあった

「金山彦姫命」と

豊国文字で書かれた碑文


かつて、尾平鉱山の鉱夫たちは、新しい穴を掘るときは、必ず前日に秘伝の儀式を行なっていた・・・・と、説明されている。

『上記鈔訳』より転載


大分県には、もうひとつの重要な伝承が存在します。
それは『炭焼き小五郎』として知られる『真名の長者伝説』です。
興味のある方は、こちらに詳しく書きました。

 

この伝承によると、祖母山からは「金」も産出していたのです。

金があることは『ウエツフミ』にも書かれています。
この金山の利権を手にした真名の長者は、豊後の国司となるほどの大金持ちになります。

 

もしも、この金山のある場所を、山の民であるサンカたちだけが密かに伝えてきたのだとしたら?
もしも、サンカとはこの鉱山労働者(通称、山師)の末裔だったとしたら?
そして、大友能直がそこに一攫千金の夢を見て、自分だけで独占しようと決断したならば?

 

悲しいことですが、権力を手にするためには「経済力」は必要不可欠です。
例えば、奥州藤原氏が三代に亘って繁栄した背景にも「金山」の存在があったことは歴史的な事実です。

さらにこれは、テレビ番組にもなったほど有名な都市伝説ですが、大友氏の隠し財産がどこかに存在するらしいのです。

「徳川の埋蔵金伝説」でも、その場所を知っていた家臣たちは消されていますよねえ。

 


以上を、もう一度時代順に整理しますと・・・

 

<神話時代>

天孫降臨の地である祖母山には、豊富な鉱物資源があった、とウエツフミに書かれています。

>>>詳しくはこちら

 

<飛鳥時代>

真名の長者が、ここから金を採掘し分限者(ぶげんしゃ)となります。

用明天皇もこの地を訪れ、長者の娘との間に生まれたのが聖徳太子だといわれています。

>>>詳しくはこちら

 

<奈良時代>

木浦鉱山から産出した錫が、東大寺の大仏の鋳造に使われたという説もあります。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/49167647.html

そういえば、奈良の大仏の建立にあたっては、宇佐神宮にお伺いを立てていますよねえ。

もしかしたら、このときに経済的な援助もお願いされた可能性があります。

 

<鎌倉時代~戦国時代>

大友氏による独占と隠蔽の時代。当然、公式な記録は一切残っていません。

 

<江戸時代>

江戸時代には、ここから産出する錫で「寛永通宝」が鋳造されていました。

ということは、江戸幕府がいかにここを重要拠点とみなしていたかが分かります。

当時、鉱山を管理していた岡藩も、そこを外界から隔絶された秘密のエリアとしていたのです。

今でもそうですが、ダイヤモンド採掘現場などでは、持ち逃げされる可能性があるため、鉱山労働者は外出禁止ですよね。この集団がのちに失業してサンカとなった可能性があります。

 

<昭和初期>

戦前は、尾平鉱山は三菱鉱山が経営していました。つまり国策で・・・・・

いまはもう閉山しているため、彼らが何を掘っていたのかは謎ですが、多分この資源が枯渇したため撤退したのでしょう。

そして彼らは撤退するにあたって、鉱山を国庫に返納し、今は国有林という位置づけとなっています。

なぜ、私がそんなに詳しいのかというと、皮肉にもその土地の管理に、私の父親が関わっていたからです。

そして、私自身の出生も、この尾平鉱山と深い関係があるのです。(そのうち公開しますが)

 

さらに、これは特ダネですが、祖母山からは「ヒヒイロカネ」が産出していた可能性もあるのです。

このことは重要なので、また章を改めます。

 


さて、このようにサンカが伝承してきた鉱物資源により繁栄を成し遂げた大友氏一族ですが、最後は豊臣秀吉の台頭とともに滅んでしまいます。(ちなみに一時期、秀吉も藤原姓を名乗っていましたよねえ)

 

私は、大友宗麟がキリシタンに改宗したことと大きな関係があると思うのです。
宗麟がキリスト教に傾倒するようになってからは、八幡奈多宮の娘である正妻の奈多夫人(つまりウガヤ王朝の正統な後継者)とは、信仰を巡って争うようになり、ついに離婚してしまいます。

http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/night-tale/010.htm

ちなみに、八幡奈多宮とは、本来の宇佐神宮であり、ウガヤフキアエズ王朝の守り神であった可能性が高いのです。いまでも宇佐神宮のご神体はいったんここに収められます。  >>>詳しくはこちら

私は、こここそ宗像三女神のうちのイチキシマヒメではないかと思うのですが、現在研究中。

 

その後、宗麟はまるで何かに取り憑かれたように、宇佐神宮をはじめ領内の神社仏閣をことごとく破壊しはじめます。

そうです、明治政府の「廃仏毀釈」と同じですよねえ。

ということは、誰と誰が歴史の裏側で争っているのか?を暗示しています。

それが理解できれば、江戸幕府が鎖国政策を取ったことも納得できるはずです。

 

そして、最後は再びサンカたちが登場し、今度は敵方の島津氏に味方をして、大友氏を滅亡へと導くのです。

 

以上、ざっと見てきたように、大友能直は『ウエツフミ』を秘蔵することにより、大きなお宝を手に入れました。

もしかしたら、大友氏の豊後における繁栄は、豊玉姫や山幸彦をはじめとするウガヤフキアエズの神々からの贈り物だったのかもしれません。

 

消された神々の痕跡・・・「山の神」と祖母山信仰

ウエツフミ序文にある藤原朝臣能直の署名
ウエツフミ序文にある藤原朝臣能直の署名
コメント: 4 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    赤星憲一 (水曜日, 27 5月 2015 17:42)

    私は、偶然地元では大友能直公の墓として思料されている常忠寺のある大野町で生まれました。いま、大野町のお地蔵さまの研究と自分ひとりで観光協会を設立し、黄金伝説を観光の基本にしています。勝手に、聖徳太子の母の生まれたところの里長として、また「うえつふみ」の所有者が大野町土師の宗像家であり、「かがみの王子」の里をつくり活動をしてきました。まだ努力が足りず反省しています。家紋は下がり藤です。

  • #2

    上野散人 (日曜日, 07 2月 2016 18:58)

    初歩的な疑問で恐縮です。大友義直が大分に着任した証拠は無いと、
    大分大学の学者は云っております。これについてどうお考えでしょうか。

  • #3

    管理人 (月曜日, 08 2月 2016 08:27)

    上野様
    私は、「今のところ証拠が見つかっていない」というだけで、それ以上でも、それ以下でも無いと思います。
    その先生に、ぜひ下記の資料を分析するよう、お願いしていただけませんか?
    それは「ウエツフミ」の冒頭にある、大友能直自身が自筆・署名した「まえがき」なのですが、流暢な草書体で書かれているため、私には読めません。下記のリンク、から「国立国会図書館のデシタルライブラリー」にある、「上記鈔訳」を見ることができますが、そのP17(17コマ)にある「能直朝臣自序節録」に何か手がかりがあるかもしれませんので・・・・. http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772039/1

  • #4

    管理人 (月曜日, 08 2月 2016 09:00)

    私のFacebookに、大友能直の出自について書き込みがあったので、貼り付けておきます。
    つまり、神武天皇の配下であった磯城氏から出ているというこです。
    もし事実であれば、この一族が皇室と神道の乗っ取りを画策して、大友能直もそのために大分に偵察に来という可能性はあります。
    だから統治する気持ちは全く無かったかもしれませんが、その子孫が住み着いてしまったということは、やはり大分県には魅力があったんでしょうね。

    『面白い事にウエツフミの編纂者とされる大友能直は、新撰姓氏録によると安寧天皇の第三皇子である磯城津彦命の子孫が十市氏で十市県主から十市首、十市宿禰と姓を替えて、971年(天禄2年)に十市有象・以忠が中原宿禰姓に改め、中原朝臣姓を賜ったことに始まったと有り、ある時期に中原能直と名乗った事もあったそうです。なお、門司氏や三池氏、厳島神主家と同族で杏葉紋です。』