出雲王朝はスサノオが開いた。オオクニヌシはその子孫である。

『ウエツフミ』によれば、出雲の国を開いたのはスサノオの命であるとされています。
しかも、ニニギの命が天孫降臨するよりも、はるか以前の出来事です。
初代がスサノオの命、そしてその子孫がオオクニヌシの命となります。

 


スサノオは霧島連峰に天孫降臨し、そこからいろんな怪物や荒ぶる神々を次々と退治しながら北上して、最後にたどり着いたのが出雲の国でした。

ここで、クシナダ姫と結婚して出雲王朝を開きます。

 

(なおスサノオが最初に退治したのが阿蘇にいた煙神と空張神だと書かれている。つまり出雲王朝の前に、阿蘇王朝が存在した可能性大?またオオクニヌシの時代になってからも菊池に反対勢力があった。)

 

その後、第2代ヤシマシヌミ(国引きを行う)をはじめ、フワノモヂスクヌ、アオハタサグサヒコ、フカブチミヅヤレハナ、アメノフユキヌ、アヂスキタカヒコネ、オオナムヂ、スクナムヂ、スクナヒコ、タケモナカタ、ヤヒロボコナガヨリヒコ、フツヌシなどなど多くの神々が登場しますが、その順序と治世が正確に記述されていません。
ただし、かなり長い間、この出雲王朝が続ていたことが分かります。

 

オオクニヌシの時代になると、おなじみの「国譲りの神話」が登場してきます。
ただし、その内容は記紀とは大きく異なっています。
オオクニヌシは人民が腐って穢れた肉を食することを許していたため、大年の神の天罰が下り、大飢饉が発生します。・・・・・『古語拾遺』に同様の記述あり
オオクニヌシは改心して、自分が開拓中であった地上界を、天上界に返還することにしました。

これが国譲りの神話なのです。
そして、オオクニヌシは天上界に上がって、現在の出雲大社に祀られることとなります。


そこで、つぎに天照大神は様々な神様を地上界に派遣して平定させようとしますが、なかなかうまくゆきません。

 

このときに抵抗していた主な勢力が、タケミナカタが率いる「越の国」であり、タケミカヅチの命、別名トヨフツに滅ぼされます。
この勢力が、『竹内文書』に伝わる富山王朝ではないかと考えます。

 

また、富士山には香香背星之男の長(かかしつつのをのかみ)と呼ばれる勢力がありましたが、これも説得されて服従します。
これが、『富士文書=宮下文書』を伝える一派であった可能性があります。

 

そして最後に天孫降臨する候補に選ばれたのが、天照大神の孫であるニニギの命だったのです。
最初はオシホミミが選ばれましたが、彼は自分の息子であるニニギにこの大役を一任しました。
ニニギの命は、祖母山に降臨し、ここからウガヤフキアエズ王朝の時代となります。

 


もう一度整理しますと、ウガヤフキアエズ王朝が始まる以前には、
◆出雲王朝・・・・・スサノオに始まり、オオクニヌシの時代にウガヤ王朝に合流してから以降も17代続く
◆越の国(富山)王朝・・・・・タケミナカミ
◆富士山一帯の勢力・・・・・カカシツツノオの長
◆その他、地方の荒ぶる神々

 

などが乱立しており、これらを取りまとめて最初に日本国を統一したのが、ウガヤフキアエズ王朝であり、このあとを大和王朝が引き継いでゆくこととなります。

 

以上、『古事記』『日本書紀』とは全く違う歴史が綴られていますが、この『ウエツフミ』の記述が正しいとするならば、日本の歴史は有史以前から長く長く続いてきたことになります。

コメント: 4 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    Misaki-1167 (木曜日, 07 8月 2014 02:37)

    岐阜県高山市丹生川町籏鉾の若田家という旧家に門外不出の秘伝として伝わっていた「飛騨の口碑」を(財)飛騨福来心理学研究所の故山本健造博士が、若い頃に赴任されていた丹生川村小学校籏鉾分校の用務員をされていた若田翁から「いつか公表出来る日が来たら世の中に公表してほしい」と託されました。その口碑の要点を少し紹介したいと思います。とても信じられないと思いますが、我慢して見て下さい。
     日本の始まりは飛騨である。日本は先ず飛騨大陸が海から隆起し頭を出した。そこに最初は青海苔のような植物が出来、小さな生物が進化し哺乳類のような動物が現れ、日本原人も発生した。
    やがて乗鞍の麓の家が本家となりそこから直系命、山下住水分命、山ノフモト住命の分家が出来、直系命からは15代目淡上方様(アワノウワカタ様)、伊邪那岐命、35代目ヒルメムチ(天照大神)が出た。山下住水分命からは愛媛大三島の大山祇命ら子孫が出た。山ノフモト住命からは18代目猿田彦命ら子孫が出た。ヤマノフモトの本家の初代は大淡上方様(オオアワノウワカタ様)といい姓はない方であり、飛騨スメラミコトの初代であり、後に天皇と言うようになった。ヤマノフモトは後に約まってヤマトになった。
     出雲国はこの山下住水分命の子孫が開拓した土地で「意宇国」と言った。元々飛騨王朝の開拓した土地であった。そう、大三島に展開した大山祇命の先祖が開拓したのだ。
    飛騨王朝と出雲国は嘗てより政略結婚で和睦し合いながら国を一つにまとめることで誓約していた。伊邪那美は出雲から飛騨に嫁ぎヒルメムチと素戔嗚命の二人を産んだ。素戔嗚は出雲に婿に行き、ヒルメムチの4男熊野久須毘命も婿入りしたが、変死してしまう。長女多紀理姫は素戔嗚の子大国主に嫁ぐが、大国主の女癖の悪さに耐えかねて、阿遅志貴高日子根命(加茂命)と下照姫の兄妹を残したまま出雲から逃げ戻ってしまった。
     大国主は須勢理姫という腹違いの妹を正妻にし、多紀理姫の子の加茂命を後とりにせず、側室の子事代主を後とりにした。
    そして国内の豪族達の娘達を次々に孕ませ顰蹙を買った。更に、多紀理姫の出戻りの事情を正す為に談判に向かった天穂日命も3年、天若彦は8年も大国主に会えなかった。
    なんと、大国主は新羅に11年も行ったままで、新羅のソ氏の娘や他の多数の娘に181人ともいわれる新羅の子を孕ませていた。出雲や飛騨では大国主の好色醜男ぶりは評判だったが、まさか新羅にまで行ってこ新羅女に子供を孕ませるなど思いもよらぬことだった。
    この事もあり結局、出雲国は飛騨政権に返還させられ、大国主と事代主は幽閉所に幽閉された。
    幽閉所は大国主の交換条件として飛騨高天原の建物のように太い柱を使って立派なものにしてくれと言うことで、高床式のものにした。また簡単に逃げられないように、高層の建物にした。建設は飛騨の匠が当たった。当時木の扱いに匠達は慣れていたし建築技術もあった。
    櫛屋玉が飛騨から来て賄いをし、食事を作った。また5人の監視がつき逃げないように見張った。大国主は幽閉所で障がいを終えた。
    問題は大国主が嘗て新羅の女に産ませた子達が出雲に来て幽閉された父を見たことだった。最初は出雲を統治していた飛騨のヒルメムチの長男天穂日命に従っておとなしくしていたが、後に天穂日命を殺害しそれが飛騨にばれないように隠し通し、後に内密に出雲新羅神崇拝教という新興宗教を興し、飛騨の氏神古神道を新羅神ですり替えていった。またすり替えるどころか神主職を奪い取り祭神を大国主などにすり替えた。
    また飛騨天孫族を暴力で虐殺したり、エタ、エッタなどに陥れ、徹底的に飛騨天孫に報復を加えた。今日全国の神社の祭神が出雲神が多いのはその為である。合同祭祀も多い。
     先に新羅のソ氏に産ませた子と書いたが、それが少彦名=イソタケル、五十猛である。イソタケル、少彦名は穂日命を惨殺した首謀者である。
    天穂日命の子孫である千家を祭祀される立場から祭祀する立場の神官に落とし現在に至るまで地位が逆転したままである。
    千家こそ天照大神の飛騨王朝スメラミコト直系のお家柄であり、天皇直系の由緒ある御家なのです。
    少彦名は短命でしたが、奈良大和を開拓した天照大神の孫の饒速日命の奈良一の宮御諸山を奪い三輪山と改名し大神(おおみわ)神社として奪いました。
    少彦名亡きあとも大田タネコらソ氏新羅人が皇室近親や家来に近づき、側室を天皇家に入れたりして究極の天照大神そのものである「八咫鏡」の略奪に乗り出します。
    10代崇神天皇の御代には饒速日命の勾玉と剣が皇室から盗まれました。そうして奈良大和の開拓者饒速日を抹殺してしまったのです。
    神武天皇が九州平定が終わり橿原入りされ大和の建設が本格化したころ既に出雲では統治していた天穂日命が殺害され大和朝廷打倒という報復の為に飛騨天孫に対する暴力、いじめ、エタに落とす等の報復が出雲新羅神崇拝教という新興宗教を武器に活発化していたのです。
    後にソ氏から蘇我氏が生まれ、用明天皇・皇后・馬子大臣・聖徳太子という総新羅人という政権が誕生してしまいます。
    全国の神社は出雲新羅神で覆い尽くされ、飛騨天孫はエッタ、エタ、サンカに落とされました。中大兄皇子と鎌足の反乱までは新羅蘇我氏の天下だったのです。
    出雲に関しては異状大雑把ですが「飛騨の口碑」はこのように伝えています。
    天孫降臨の真実、奈良橿原大和国建設の経緯についても詳細につたえていますし、三韓征伐、蝦夷征伐、九州・津軽大和国などなど伝えていますが又後日に回します。

  • #2

    管理人 (木曜日, 07 8月 2014 09:55)

    Misaki-1167 さんへ

    いやいや「とても信じられない話し」ではありませんよ。
    『ウエツフミ』にも、もっと簡単ですが、上記のとおりほぼ同様のストーリーが書かれています。

    このあと、大和王朝がどこから出てきたのか?まだ研究中ですが、いずれにせよそれまでにあった古い王朝の痕跡を全て抹消してしまった・・・というのが真実のようです。

    そして、私の推測ですが、新羅神=八幡神ですよね。
    もともと宇佐神宮にあった「八咫鏡」も大和王朝に奪われて、八幡信仰に塗り替えられた。

    多分「飛騨の口碑」も「ウエツフミ」も、多少のニュアンスの違いこそあれ、真実の歴史を伝えているのだと思います。

  • #3

    Misaki-1167 (木曜日, 07 8月 2014 12:18)

    こんにちは。#1で書きましたように、大国主の失態と飛騨王朝との政略結婚による誓約を反故にしたことで大国主が、出雲国を飛騨王朝に返還させられそして現在の出雲大社と後世に呼ばれるようになった「幽閉所」に幽閉され、後に新羅で生まれた大国主の子少彦名らが統治者天穂日命を殺害し出雲を飛騨王朝から乗っ取ったことが分かりました。
    この一般的に「出雲の国譲り」と言われる「大国主と事代主の幽閉と国の飛騨への奉還」という事件の前に、飛騨王朝ではある決定がなされていました。
    3つあります。
    ①国を一つにまとめる。→当時日本には30程の国が出来ていた。中でも飛騨王朝と飛騨の子孫が開拓した出雲が2大国で、その中でも飛騨王朝は圧倒的な軍事力を持っていた。軍事力ではなく和議で共に国造りをすることをヒルメムチ以下飛騨政権は目指し、出雲とは相互縁組で和睦していた。
    ②九州を平定する。→この当時既に九州筑紫や出雲、若狭、富山などに半島や大陸、南方から外国漂着部族が方々で見られた。特に筑紫では鹿児島南端笠沙岬が本拠地の塩土族(インド南端パミール語民族)、大分など山間部の火遠族(球磨族=モンゴル系)、鹿児島南端大隅半島拠点の火照族(隼人族モンゴル系)の3大勢力が覇権を競い三つ巴の争いを繰り返し、日本人は不穏な状況に置かれていた。
    ③飛騨王朝を大和(奈良橿原)に遷都する。→気候変動でそれまで温暖だった飛騨にも大雪が降り、政権維持に支障が出始めた為、先祖が開拓されている畿内に都を遷す。
    以上が高天原の天の安川原(現在の高山市安川通り)で飛騨の民の全会一致の決議として採択されました。
     これにより先ず出雲を飛騨に返還させ、大国主らの幽閉で出雲をヒルメムチの長男天穂日命が統治することにしました。
    そして危急の案件である筑紫平定と大和への遷都を急ぎました。
    この件に関して、「暴かれた古代史・・・二千年の涙」山本貴美子著より引用します。
    引用(p.112) 飛騨王朝の三五代スメラ命の天照大神から遡ること二十代、十五代淡上方様(アワノウワカタ様)の時代には既に将来を見通して三重県の鈴鹿に一族を派遣し、更に鈴鹿から琵琶湖畔、日本海の若狭湾岸の織田にそれぞれ一族を派遣し、他方瀬戸内海の大三島に一族を派遣して、大和はいうに及ばず要所を確保して抑えて、天照大神の時代までずっと長きに渡り飛騨へ連絡を絶やさず仲良くしておりました。そのお蔭で後に筑紫平定に行くことができたのです。
     鈴鹿から琵琶湖の山本山から日本海岸端の織田のことについては飛騨にしっかり口碑を伝えています。(詳しくは「神武以前」「日本のルーツ飛騨」をお読み下さい)
    鈴鹿から大阪の住吉の海岸までは陸路で行き、そこから瀬戸内海の大三島まで海路を使う、その要所要所を一族が護り住んでいました。その重要な所が住吉の海端です。御諸山や住吉は飛騨から大三島へ降りて行かれた山下住(後には大山住・三島溝咋という)の一族が住んでいたのです。
    飛騨王朝は日本の国を一つにまとめるべく、飛騨は山奥過ぎ、更に寒冷化で雪が降るので、大和に都を遷すことに決めたのです。そして天照大神は孫の饒速日に将来大和に都を開くための準備を命じたのです。
    その頃三つの外国勢が筑紫(九州)に来て三つ巴の戦をしておりました。日本の古代は末子相続であったので天照大神は末子である孫の邇邇芸命に筑紫の平定を命じました。
    命を受けた饒速日は邇邇芸命に先立って飛騨から大勢の者を引き連れて都を開く為の準備に大和へ降臨したのです。大和は饒速日が苦労されて開拓された所なのです。
    「先代旧事本紀」に饒速日は斑鳩の峰(哮峯)に降りたとありますが、わざわざ大阪側の斑鳩の峰に降りるはずがなく、饒速日は御諸山に降りたのです。斑鳩の峰に降りたと書いたのは後に出雲思想にかぶれた者が饒速日が御諸山の地に降りたと書くと都合が悪いので哮峯と誤魔化したのです。
    饒速日は大和の一等地である御諸山に住まいを構えている豪族・大和の長の三島溝咋の娘婿に入りました。三島溝咋は飛騨のスメラ命の家から昔に分家した大事な一族の家柄です。
    一族皆が心を一つにして大和を開くために骨折られたのです。・・・引用終わり
    これが飛騨王朝が奈良橿原大和に朝廷を開くまでのいきさつです。そして、筑紫平定を終えた邇邇芸命の孫のサヌ命=神武天皇がその後飛騨位山の先祖の神から飛騨スメラミコト=日本皇統の初代天皇の証の一位の木で書かれた板(現在の笏木)を頂き、奈良橿原大和で天皇の位に付かれたのです。
    神武東征といいますが、実は饒速日命が開拓され準備された大和の地に無事御帰還なされたのが事実なのです。
     この時既に出雲では少彦名らの陰謀が渦巻いているのですが次回に回します。

  • #4

    178年から (水曜日, 15 10月 2014 03:26)

    真実は、ときにより見落とされるもの。
    真相は、ときによりつけたされるもの。

    事の始まりは、意味を成さず。
    事の終わりは、意味を探す。

    すべてを白日のもとに晒すには、すべてを逆さまにせよ。