藤原氏の祖先、中臣氏とは?

ニニギの命が天孫降臨したとき、下記の三神が重臣として付き添って天上界から降臨しています。
(ウエツフミの記述によるものなので、記紀とは多少異なりますが・・・)

 

◆天之児屋櫛眞智の命・・・・・アメノコヤネクシマチノミコト
右大臣コヤネ、別名タネコ(八咫鏡を守って政策立案を担当)⇒ のちの中臣氏 ⇒ 藤原氏の祖先
◆天之太玉神玉の命・・・・・アメノフトダマカムタマノミコト
左大臣フトダマ(八束の剣を守って軍事を担当)⇒ のちの物部氏 ⇒ 蘇我氏に滅ぼされる
◆常世之八心思金の命・・・・・トコヨノヤココロオモイカネノミコト
フトマニという占いを担当したオモイカネ ⇒ のちの忌部氏という説もあるが不明。
 
当初は、この三神も「二上りの大宮」(高千穂)の近くにあった「一つ岳の大宮」(場所不明)に住んでいましたが、ニニギが「大分の宮」に遷都するに伴って大分の地に引っ越してきました。

 

その後、ここから全国にその子孫たちが広がってゆきます。
ウガヤフキアエズ王朝では、その子孫たちが代々この三役を継承し、地方の国司なども務めているからです。

 

さらに、「ホツマツタエ」では

「筑紫にいた天皇に(大分直入への)行幸をお願いしたところ(もう年なので)直入中臣氏(アメタネコと宇佐出身のウサツヒメとの間に生まれた子=ウサマロ)を派遣し、直入物部氏(クシミカタマの子=アクツクシネ)に、これを補佐するよう命じた」
とあり、これが豊の国、直入の郡(現在の大分県竹田市)が成立した経緯であると書かれています。

 

つまり、中臣氏の一族は、九州大分の地から発祥しているのです。

いずれにせよ、ニニギの命が祖母山に降臨した以上、本物の皇族や公家は全て九州から出ていることは間違いありません。

 

このことを裏付けるかのように、中臣氏の古い家系図では「菅生氏」という一族が記録されており、これが竹田市菅生地区の知名になったと考えられます。

 

また、前にも書きましたが、「直入中臣神社」と「直入物部神社」も存在します。 

 

ところが、この大分の地に居た、いわば本家・中臣氏は、景行天皇により滅ぼされます。
このことは、以前にも書きましたので、こちらからご確認ください。

つまり、このときに本家・中臣氏の血筋ははいったん断絶した可能性もあります。

 


 その後、中臣氏の名前が再び歴史に登場するのは、有名な中臣鎌足が天智天皇から藤原姓を名乗ることを許されてからです。

 

その子供の藤原不比等は、日本書紀を編纂したことでも有名ですが、そこには下記のように説明されています。

「アメノコヤネが、神武天皇にお供して宇佐の地を訪れた際に、土地の国司の娘であったウサツヒメと結婚した。これが中臣氏の祖先である。」

ウエツフミやホツマツタエの記述をもとに、神武天皇と無理やりつなげた可能性があります。

初代・ニニギと一緒に天孫降臨したアメノコヤネが、その73代目にあたる神武天皇と一緒に行動したという話には、かなり無理があるからです。

 

この頃から、藤原氏は中臣氏とは全く違う本性を発揮し始めます。

◆もともと戦(いくさ)は得意ではなかった中臣氏が、急に好戦的になって、次々とライバルたちを滅ぼしてゆきます。(冒頭にもあるように戦は物部氏の仕事でした)
◆本来の中臣氏であれば、ウガヤフキアエズ王朝の重臣であった訳ですから、ウガヤ王朝を擁護するはずですが、それと反対のことを行っています。
◆例えば、藤原不比等が編纂した「日本書紀」には、ウガヤ王朝のことが全く書かれていません。
◆信仰的にも「春日大社」や「鹿島神宮」を創建して、タケミカヅチやフツヌシなどの戦の神々を信仰しはじめます。

新羅発祥の八幡神は「春日宮は私の父である」とご託宣していますので、この頃の藤原氏=新羅の工作員という可能性もあります。
◆ウガヤ王朝の重臣の中臣氏であったならば、ニニギの命・海幸彦・山幸彦・豊玉姫・ウガヤフキアエズの命などを信仰するはずです。

 

以上の事実から、中臣鎌足以降の藤原氏は、本家(九州)・中臣氏とは全く関係の無い、別の血筋である可能性があります。

 

だから、最近では「藤原氏は帰化人である!」という諸説があちこちから上がっているのです。

 

私の考えでは、中臣鎌足はタイ・ベトナムあたりからやってきた「弥生人」(ハプロタイプ【O2a型】)ではないかと思います。
鹿を信仰する海洋民族・安曇氏との共通点が多いからです。

つまり、帰化人・中臣鎌足は、自分の出自を天皇家と繋げるために、無理やり中臣氏の子孫であることを捏造した。・・・とも考えられるのです。
このときに、「下がり藤」の家紋も一緒に拝借した?

 

もちろん、九州から発祥した「本家・中臣氏」も、藤原氏と名乗ったことから、歴史が複雑で分かりにくくなっているのです。

例えば、鎌足の次男・不比等は「本家である自分以外は藤原の性を名乗ってはならない」と、意味不明のことを言い出します。

つまり、あちこちでいろんな藤原氏が誕生しはじめて、「本家だ!分家だ!」との争いが生じたということでしょうか?

 

さらに、『宇佐神宮御宣託集』には、興味のある記録が残っています。

716年、宮司の辛島氏が神殿を小山田の地に移転させたため、これに憤慨してか?大隈・日向連合軍が反乱を起こします。つまりウガヤ王朝の残党が蜂起した訳です。

多分この反乱の結果、720年に藤原不比等が暗殺されてしまいます。(通説では病死となっている)

このあたりは正史には全く残っていませんが、中臣=藤原の家柄を横取りした帰化人に対して、正統派からの報復があったのではないでしょうか?

 


さらにその後、この藤原氏が歴史上の表舞台で、朝廷に対して反旗を翻したことがあります。

そうです、「藤原純友の乱」です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B4%94%E5%8F%8B

 

不思議なのは、その「動機」が全く伝わっていないことです。

なぜ、瀬戸内海の海賊を率いて大和朝廷と戦ったのか・・・・・?

単なる私利私欲のためでしょうか?

 

私の推測ですが、この藤原純友こそ、九州から発祥した本家・中臣氏の末裔なのではないでしょうか?

そして、自分たちの家系を横取りした「ニセ藤原氏」によって滅ぼされ、歴史から抹消されて、単なる「海賊の反乱」ということで処理された。

 

このとき、大分の豪族であった大神惟基も加担しているのです。・・・・・『高千穂治乱記』より

つまり、承平天慶の乱とは、旧ウガヤフキアエズ王朝の末裔たちによる、大和朝廷への反乱であった!とみることもできます。

 

そして、近代になって、思わぬところからウガヤフキアエズ王朝の残党たちが、三度目の反乱を起こします。

それが、西郷隆盛による「西南戦争」なのです。

このことは長くなるので、また章を改めます。

コメント: 5 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    Misaki-1167 (日曜日, 10 8月 2014 17:34)

    中臣氏、藤原氏の祖は飛騨王朝の大幹部天児屋命です。忌部氏の祖は布刀玉命です。
    物部氏の祖は、饒速日命と、長スネ彦の妹の三炊屋媛の子の宇摩志摩遅命です。穂積氏、ウネベ氏の祖でもあります。大伴氏の祖は天忍日命、久米氏の祖は天久米命です。ちなみに蘇我氏の祖は少彦名=五十猛で新羅人です。蘇我氏は大国主が新羅女に孕ませた新羅人達の子孫です。用明天皇・皇后、馬子大臣、聖徳太子も皆新羅人が祖です。

  • #2

    ウガヤフキアエズ (火曜日, 16 6月 2015 14:34)

    >思わぬところからウガヤフキアエズ王朝の残党たちが、三度目の反乱を起こします。
    それが、西郷隆盛による「西南戦争」なのです。
    このことは長くなるので、また章を改めます。

    これは、明治維新ですね。

    「西南戦争」は、明治維新を完結させるために、
    西郷が不満士族を引き連れて、士族に最後の死に際を提供したのでしょうね。



  • #3

    初めまして通りすがりです (火曜日, 07 7月 2015 19:41)

    中臣家に渡来人である鏡王女が嫁いだことにより、本来の血筋考え方が大陸色の強いものに変わってしまったのではないでしょうか?

  • #4

    M (木曜日, 27 8月 2015 17:05)

    私の父が大分県竹田市の出身で、ご先祖様が藤原氏だということを知りました。
    中臣鎌足がご先祖さんです。誇らしいです。

  • #5

    (金曜日, 04 9月 2015 05:13)

    これは面白いですね。
    わたしもなぜ藤原が反乱をおこさなければいけないのかと
    思いましたが、本家の中臣が藤原を名乗ったと考えると
    たしかに納得できます。