歴代天皇と主な出来ごとのまとめ

歴代74代の天皇の要約です。

ただし、第55代から第68代は、原文が散逸しているため不明。

これだけ詳細な記録が残されているのは『ウエツフミ』だけであり、これを偽書と決め付けた勢力に対する、重要な反論の根拠となっています。

 

ウガヤフキアズ王朝の歴代天皇一覧表

天皇名と時代 主な出来事 関連記事
【オオケツ王朝】

スサノオに先立ちオオケツ夫婦神が降臨して農業文化などを伝える

稲作を中心とする農業技術はこの時代に開始された(縄文時代後期か?)

その場所に関する記述は無いが、「オオケツ姫の国」とは徳島県のことを指す

また、第34代の即位のとき歌われた歌詞にもこの「オオケツ神」が登場するので、日向族にとっても重要な神だった。

 ★ 
【出雲王朝】

スサノオが霧島に降臨し、北上して出雲に至る

大国主が食肉を許した罰により出雲国は滅び、統治権を天上界に返上

後任を探すが難航(多くの神々が降臨するがいずれも行方不明となる)

大国主はニニギの降臨のために準備調整を行ない政権交代を実現させる

 
【ウガヤフキアエズ王朝】

 ニニギの命が「文明」をもたらしたことから「弥生時代」が始まる。

そして、全国を統治する体制が整ったので、これを「ウガヤフキアエズ王朝」と呼ぶ。

 
ニニギ

九州の祖母山または久住山に天孫降臨する

(文献からは特定不能だが祖母山の北側に展開したことは確実)

「二上の大宮」から「大分の宮」に遷都

他に「直入の宮」「大野の宮」「臼杵の宮」などを置く

 

   

  

山彦

山彦が竜宮城を訪れ、豊玉姫と出会って結婚、潮満玉・潮干玉を持ち帰る

大地震の発生により、一族は高千穂町の岩戸に篭る

海彦・山彦がお互いに皇位を譲り合い、海彦は岩戸に篭る

 
初代・ウガヤフキアエズ

全国に建(タケル)と呼ばれる地方長官を任命

傾山の山頂に埋葬される

  ★★
第2代・ウガヤフキアエズ

この人物の別名が書かれていないが、「カムヤマトイワレビコ」という見解が有力。つまり、第一次東征を行った神武天皇である。

(第二次東征は第73代ヒダカサヌ)

病弱で早期に引退し第3代に譲位した後、宇佐で隠居。

ここで、薬学・解剖学などを研究して人民に周知するため西日本を行幸

猿を使って動物実験を行なうなど、かなり高度な医学ノウハウを伝える

豊国文字(旧字体)が発明され、その後、より簡略化した新字体が登場する

 
第3代・マシラタマカカヒコ

兄の第2代とともに全国を行幸

特に東日本を訪れたので「ニギハヤヒ伝承」として残る

月ごとの年中行事と節句を定める

 
第4代・エミツホアカシ

「高千穂の大宮」を新築させる

加羅支那人の来襲が続発し、九州西南部に上陸して悪事を働いたため

霧島山頂に「厄払いのための神社」を建てる・・・・「霧島神社の由来」

新潟の頚城に「オルシ国の使者」が来航して、食料支援を求めたので援助するが、のちに大挙して来襲し、年貢を強要したので、ついに開戦となる。
柴を積んだ船に火を放ち、オルシの船団を全滅させ、敵の大将が捕虜となったので降参して約三千人が本国に逃げ帰る。
以降、各国ごとに陣地を構えて、外国人の来襲に備える。
この陣地の竣工式に、醜女が面を付けて舞踊を奉納する。(能楽の原型か?)

「ヨギト(夜伽人?)」という民間出身の相談役を任命し、宮殿の近くに配置した。軍事を担当する「物部の上」を任命し、諸国を巡回させて、外国人の来襲に備えた。文化を担当する「文人(あやと)の上」を任命し、諸国を巡回させて、神の教えを伝えた。農業を担当する「種津守の上」を任命し、諸国を巡回させて、 田畑を開墾して人民に支給するとともに、天皇を始め大臣たちも自らの田で耕作した。

人民の年齢ごとの責務を定める。

 
第5代・アメツチアカリナスアカタマ

生まれたとき頭毛が無く、赤い頭だったので、こう命名された。
加羅支那人が来航して、属国となることを請うたので、ハタ織り技術、造船技術、文字などを授けたが、何年経ってもお礼が無かったので、彼らの渡来した場所を「唐津(空着きの意味)」と命名。

オルシ人、二度目の来襲。今回は能登半島の羽咋、佐渡などに上陸したので再び撃退する。このときに浮袋のような船が発明される。

 
第6代・イワボコハナメトリタチ  臨月を8カ月過ぎても生まれなかったので、フトマニで占うと「産屋が良くない」という結果となり、神が豊後水道に「天の磐矛(いわほこ)」を落としたので、その近くで出産。
生まれつき歯があったので、磐矛歯並独立と命名。
 
第7代・クシトヨヒメ

天之八平手活明彦の命を弥嚮男(よさきお、夫であり摂政) とする。

丹波の国の鷹貫に水田を開墾する。

吉備津根の国で供応を受けた御歳小野道の命が、「罪人のようだ」と怒る。

第5代の弟・天津五百玉の命が、遠津海の国(静岡県)で地元の少女を見初め結婚。 その父が「御子は私の娘と豊日の富士=由布岳を守ってください。私は東の富士を守りましょう」と宣告したので、ここを有度という。また鶴が使いに飛んだので鶴見岳といい、この鶴が高千穂の稲を落としたところを美保山という。つまり両国間に何らかの同盟が成立した。

 
第8代・ヒカリトオルワラワセヒメ

生まれたとき体が透き通り、その泣き声がまるで笑い声のようだったので、光透笑波瀬姫と命名。

子供が無く、相良と日向の境に葬られるが、この御陵をめぐって、明治時代に「東京日々新聞」で論争が起こる。

 

 
第9代・チクサヒメ

 第6代の長女が後を継いで即位。御陵は直入(竹田市)の三宅のとな山にある。

 
第10代・チタラシヒメ 弥嚮男は国明磯城沢之男の命だが、子供の頃に熊本で、ミズチ(大蛇)が熊を襲っているのを逃がしてやったのでミズチに逆襲され、これを切り刻んだ刀が「八張の剣」、または「蛇切りの剣」と呼ばれる。  
第11代・マガキルツルギヒコ

体が弱かったので摂政が居たが、庭に火丹鶴が舞い来たので、摂政とともについてゆくと、能登で亀に乗った4人の童が迎えに来た。鶴と亀に導かれて北海道の江差の須浜の港に着いたので、江差山に4人の童を祀った。これはヒルコ(イザナギ・イザナミの最初の子供で別名エビス様)が招いたもので、幸魂・奇魂・ 禍津魂についての教えを伝授される。

全国を巡幸してこの教えを広める。これがエビス信仰の起源であり、外国の神様ではない。

 
第12代・ヤヒロトノヅクリ

12人のお妃に御子が38人居たので、この御子たちを(人口の少なかった)信濃地方や東北地方に配置した。

人口増加対策として、独身男女を積極活用する。

毎年欠かさず春から夏にかけ全国を巡行したので、国中に活気が出た。

またスクナヒコの子孫などを医師として全国を巡回させた。

この頃、造園と池が流行する。

 
第13代・トヨアキラクニオシヒコ

子供が無かったが、側女の奇乙女が孕んだので、その身元を確認すると火之須勢理(海彦)の子孫だが、猿に育てられた捨て子だったことが判明。

御妾に取り立てられ、その子供・火之須勢理奇猿姫が、世継ぎとなる。

この姫は、幼少から大そう男勝りで力持ちだったが、12歳の時に宮崎の国の山の上に大岩を積み上げた。地元の人はこれを「姫屋の岩」と呼んだ。現在の宮崎県延岡市北川町上祝子の「神さん山」のことと思われる。

 ★
第14代・ホノスセリクシマシラヒメ 姫なので、明立天之逆鉾の命を、弥嚮男(よさきお、夫であり摂政)とする。  
第15代・ウスキネヒコ 狭依科の土蜘蛛(渡来人?)を退治。
宮崎県の三宅の小浜(西都原古墳のある場所)を本拠地としていたが、占いにより出産するため臼杵に転居。
対馬に来襲した三韓国人を成敗し、朝鮮半島を支配下に収める。
 
第16代・ウブトマサキ 先代を愛媛の久万山の頂に葬る。重臣たちの記述あり。  
第17代・ウワテルアカリヒメ 即位したという記述のみ。  
第18代・ヨザミサトヒメ 即位したという記述のみ。  
第19代・スクナガタオ 生まれたとき小さかったのでスクナヒコにちなんで命名。  
第20代・アマツアカリスクナオオナヒコ

29人の子供がいた。

信濃の佐久郡で男根女陰の帽子を被った踊りを披露され自ら参加してはしゃぐ。

お后様が筑波の土地を干拓して農地とする。淡路島近辺で人食い魚を退治。

奈良の人民が絹で倭文を織って献上。

四国の大三島に大山津見神が降臨したので「三島神社」を創建したと、その由来が書かれている。4月4日に「あちの祭り」を始める。

 
第21代・アメニキシアカリ 即位したという記述のみ。  
第22代・アメオシヒラキカムタマヒコ 即位したという記述のみ。  
第23代・アメニキシサマツワケクニタラシ 即位したという記述のみ。  
第24代・アメニギシクロハマコ 即位したという記述のみ。  
第25代・トミアキタラシナカオキ 国東半島に、この天皇の名前が刻まれた石碑あり  
第26代・タネカシヒコ 即位したという記述のみ。  
第27代・タケタマ 即位したという記述のみ。  
第28代・アメノイソリエラキノオ いそすさり(アザラシ?)の群れが現れ誕生を祝う  
第29代・カムトヨミ姫 即位したという記述のみ。  
第30代・マロセノオ 直入に桜姫という美人がいた。その住居が黒岳であり、笠守というワシの化身に襲われる  
第31代・タチバナ姫 陸奥で瀬織津彦の子孫である雄勝彦が反乱を起こしたので、天皇自ら2000人の軍を率いてこれを滅ぼす  
第32代・ハナヨリ姫 文机彦を弥嚮男(摂政)とする  
第33代・スガノミヤ姫

大分県・竹田市を中心に善政を行う

馬術が得意だったため「うまし姫」と称され、直入のウマシ=三宅に大宮を構える(現在の用作公園の辺りか?)

蘇生術を行なったと思われる岩屋が竹田市で発見される

 
第34代・ヤチヲカメノオ  「火燿(ほかか)の新宮」(場所不明)を都としたので、「火燿のスメラミコト」と呼ばれた。五つ日の国の人民を重用したとあるが場所不明。その即位式の様子が詳しく述べられている。  
第35代・ハナ姫  第34代が正室のカシキ姫に産ませた御子。このカシキ姫が急病になったとき、薬を調合する様子が詳しく書かれている。未婚のまま18歳で没。  
第36代・ワカテル彦

 「再見(フタミ)」というおそらく日本初の神書の編纂を命じる。

そこには、天照大神などの「神訓り(教訓)」やフトマニも書かれていた。

 
第37代・マツテル彦

馬で国内を行幸したので、中津の人民が御輿を奉納する。

また山口県の「豊浦の宮」で出された煮コゴリが気に入ったので、ここを玉浦と呼び、以後男女の縁結びの膳とするよう命じる。

伊勢の安濃郡のホギ山まで来た時、越の国から使者が到着し「ロシア軍襲来」を告げたので、大雷花雲の命を派遣する。

 
第38代・アマツノリトコ

陸奥の国まで行幸し、離島にくさやの干物らしきものを作る海人族がいることを聞き、大土国幸の命を派遣して、「神津島」や「八丈島」を開拓。

ここに農耕や調味料などの文化を伝える。

大土狭咋の命夫妻が残って初代の国司となる。

 ★
第39代・カムタラシイタラシヒコ

先神の教えに従い、自ら稲を耕作し年貢を停止するが、逆に人民が嘆き悲しんで嘆願。

フトマニで占うと「年貢が多すぎるから良くない。初穂だけを少し受け取れ」と出たので、人民も納得する。

 
第40代・カムタテヒメ 神館之男の命を世嚮男(摂政)とする  
第41代・カムタテヒロハタイソタラシヒコ 高津に宮を構える。晩年は、熊本県菊池の御子の山に隠居する  
第42代・ツルマイヒメ

宮崎県児湯郡にライ病と思われる患者が居たが、その治療法が詳しく書かれている

全国に市場を興こして、公の蓄え物を流通させる。

商人や工人や鍛冶屋も集まり大繁盛

全国に代官を派遣してこの市場を視察させるが、「大成功している」との報告あり

皇子が21歳のとき引退し直入の宮で隠居

 
第43代・トヨタラシオオミナカ

家臣の助言により沖縄を開拓。

三人の大臣に150人のお供、80人の船員、10艘の船で出発するが、現地民がこれを警戒したので老婆に説得させて入植。

三年で美しい国となり「フタナギ国」と名付けたが、のちに中国が「琉球」と改める。

沫那芸国明の命、頬那芸百合香主の命、沫那芸国知の命、佐奈姫の命の4人が中心になって開拓したので、南風原の鶴野に神社が建てられ「葦原神」として祀られた。

 
第44代・オオカシキイブキ 生まれながらに虚弱で、7年で引退し、兄に皇位を譲り、御宝山(霊山)に隠居。  
第45代・ソラツアラソイカラスタケ

この天皇が生まれたとき、カラスが産屋に集まって争って死んだので、家臣は恐れて即位させなかったが、のちに抗議があり、弟のあとを継いで即位。

自由気ままで、正室を持たず、全国の美人180人を集めて大酒を飲んで享楽三昧。

この美女たちを連れて阿蘇の衣尻に行幸したとき落馬して死亡、ここに葬られる。

明治時代に、この墓がウガヤフキアエズの御陵と騒がれ、新聞紙面で論争となる。

 
第46代・カラスコトタリスガオ

この天皇の産屋にもカラスが現れ「カア」と鳴いたので幼名となる

落馬して死んだ兄の跡を継いで即位。

 
第47代・オオワタタラシ姫タケシ

豊鋤彦らが木曽で白熊を退治し、革を刀の鞘にする。

愛媛でクジラを捕獲して住民に与える。

久万山町あたりで、佐久山の大猿を退治。

狭別葦垣足の命を世嚮男(摂政)とし、直入の宮で隠居後、逝去

 
第48代・トヨツカムタラシワケ

1月1日に即位したとあるのみ

 
第49代・トヨタラシヒコ

福岡に行幸する

そのルートは、直入の三宅野⇒速見⇒宇佐⇒中津⇒毛見の国⇒福岡の御井(みい)⇒阿座(あくら)⇒夜須野(夜須郡)

杷木山で楠の大木を切り倒すと、老人が現れて嘆くので「楠の命」と名付けて祀る。

その木は山口県まで届いて、関門海峡にかかる橋となる。

その帰路、別府の鶴見岳の麓で温泉を発見したので、これを掘って入浴すれば体に良いと指示。ここを浜湧き(浜脇)という。

のちに、関西に行幸したとき足を痛めたので、この温泉を運ばせて治療する。ここを有馬という。

琵琶湖で川魚漁を教える。

溢れた琵琶湖の水を決壊させて水田を開く。ここを「野洲処の国」という。

 
第50代・トヨタラシ姫

別名カムタラシワケクニオシノメ 

即位したときまだ20歳だったので、50歳余りの笠取足尼の命を世嚮男(摂政)とする

家臣の妻たちを女官として登用し、その役割を定める。(大奥の原型)

 
第51代・クニオシワケカムタラシヒコ 御子の52代が生まれたとき、いそすさり(海獣)が現れ、赤穂の吉玉を奉納したので、アマツホノエタマヒコと命名する。  
第52代・アマツホノエタマヒコ

◆熊本の菊池氏の祖先と思われるククチワカタケの記述がある。

その妻は、タヂカラの子孫で力持ちだった。なお、入田、荻、判田などの地名がみえる。

◆美人のヤツマ姫に恋をして后にする。その皇子・タキオカシサワビコは、三宅の後宮に祀られた霜凝日子の祖先である(現在の神原神社のご祀神か?)また、その皇子・アマテルウシロオは、大分の御宝山(霊山)に新宮を建てて、皇祖の墓を守った。

◆磁石を使った羅針盤が発明される。

 
第53代・アメヒラキアカリシクニツカ

◆全国に神社を置く。この神社のリストからウガヤ王朝の勢力範囲が全国に及んでいたことが分る。

◆二年かけて全国を行幸する。このとき、栃木県にてイワサクネサクがオオミヅチを退治する。

◆伊予の山中で道に迷い、助けられた高知り星の神から、アマテル、ヨミテル、クニテル、オオナムヂ、スクナムヂの詔を受け取る。(だから全国に神社を置いた)

 
第54代・タカマノハラカカキトヲルクニシリ

◆荷前(税金である穀物)が増えすぎたので、天皇は減税しようと悩む。臣下に大議論が起こり、現状維持を唱えた三柱の大臣は、片目を抜かれ宮崎のカタマ島に流される。ところが今度は、人民が荷前廃止に抗議して涙ながらに訴えたので、「減税」することで決着した。

◆男女ともに成人したら、外国人を追い払うための軍人、薬草を掘る人、牛馬を飼う人等となって貢献せよ。また貴族は農学を学んで農業指導を行なうこと。匠人、役人、商人、漁民、狩人、軍人などはその貴族を賄え、という通達を出す。

 
第55代  原文紛失  
第56代  原文紛失  
第57代  原文紛失  
第58代  原文紛失  
第59代  原文紛失  
第60代  原文紛失  
第61代  原文紛失  
第62代  原文紛失  
第63代  原文紛失  
第64代  原文紛失  
第65代  原文紛失  
第66代  原文紛失  
第67代  原文紛失  
第68代  原文紛失  
第69代・カムタラシワケトヨスキ

次男を阿蘇の新宮の長官にする。

屋久島に加羅支那人が漂着したので、

愛媛・長野・青森・兵庫などに分散して入植させた。

「かぐや姫」の原型とみられる故事あり。

 
第70代・カムコロヅテモノベタケ

お后の矢野姫が難産で、夢枕にニギハヤヒが降臨。

「我を祀ればこの子に幸いを授ける」というお告げにより

奈良県の斑鳩山に祀られる。

 
【紀元1世紀】

南海トラフ超巨大地震発生

第71代の御世に、わが国観測史上最大・最悪の地震が西日本を襲う

(M9クラス)

これが原因で九州は大飢饉となり、神武東征のきっかけとなる

wikipedia
第71代・アマテルクニテルヒコモモカヒウス

大飢饉による食料生産指導のため、皇族は全国を巡幸

この途中、長男のイツセがナガスネヒコに殺害されたため、

兄弟の高倉下・大久米や、息子たちと一緒に近畿に遠征する

(のちに「神武東征」と呼ばれる事件のうち前半)

このとき、新羅軍がナガスネヒコの応援をしたため苦戦し、

息子のイナイイとミケヌイリヌも失う

終戦後、いったん豊の国に凱旋帰国するが、

まだ天変地異が収まらなかったため、占いにより「東遷」を決意(後半)

 

  

第72代・オオワダツヒコイツセ

記紀の「彦五瀬」につながる

ナガスネヒコに殺害されるが、死後に即位(名誉即位)

和歌山の窯山神社(亡くなった場所)に祀られる

 
第73代・ヒダカサヌ

記紀では「神武天皇」と呼ばれるが、ウエツフミにはこの呼称は存在しない。

ただし、その記述内容は記紀よりもはるかに詳しい

実在した可能盛大。

 
第74代・カムヌナガワミミ

記紀の「綏靖天皇」につながる

弟にヒコヤイミミ・カムヤイミミ、別腹にタギシミミ

 
 

ウエツフミの記述はここで突然終了

ウガウフキアエズ王朝は滅亡した可能性大

 
 【大和王朝】

 

 
   第12代・景行天皇による豊の国で抵抗した残存勢力=土蜘蛛族の一掃(日本書紀による)  
     
   

 

 

 


ウエツフミによる古代史概略(サマリー)

◆出雲王朝の成立

霧島に天孫降臨したスサノオは、宗像三女神らとともに北上しながら九州・四国・中国・山陰を開拓してゆきます。

このころ、日本列島には先住民として縄文人たちが住み着いていました。

マガツ神に例えられたこの縄文人たちは、スサノオにより次々と平定されてゆきます。

そして、スサノオが最後にたどり着いた地が出雲であり、ここで、少なくとも6代にわたり繁栄します。

オオクニヌシの時代になって、天変地異が相次ぎ、加えて、外国人による侵略もあったため、オオクニヌシは地上の統治権を天照大神に返還します。


◆ニニギの天孫降臨

そこで天上界では、次の後継者を探し、何人かを次々と降臨させますが、うまくゆきません。

最後に選ばれたのが、天照大神の孫であるニニギの命です。

ニニギが降臨するにあたっては、オオクニヌシが先輩としてすべての準備調整を行なっています。

そのお礼とて「出雲大社」が創建されました。

だから、出雲王朝と日向王朝は、まさに兄弟王朝であり、文化や信仰を共有しているのです。


◆ウガヤフキアエズ王朝の成立

ニニギは、祖母山または久住山に天孫降臨し、まず「二上の大宮」(大分県竹田市周辺)にお宮を構え、そこから「大分の宮」に遷都します。

ここ「豊の国」を起点に、農業を中心とする「弥生文明」を、全国に広めていったのです。

そして、孫の初代・ウガヤフキアエズの時代には全国を統治する体制が整ったので、これを「ウガヤフキアエズ王朝」と呼びます。


◆その子孫たちと繁栄

ニニギの息子は、海幸彦と山幸彦でしたが、弟が皇位を引き継ぎ、ワタツミノ国(竜宮城)から豊玉姫が嫁いできて、ウガヤフキアエズの命が誕生します。

『古事記』『日本書紀』では、日向三代はここで終了し、神武天皇があとを継いだことになっているのですが、ここに意図的な捏造があります。

なぜなら、このあと少なくとも74代(約2000年)にわたり、ウガヤフキアエズ王朝は繁栄し続けるのです。

そして、第73代・ウガヤフキアエズの命が神武天皇であり、第74代が綏靖天皇です。


◆神武東征

最初に「神武東征」を意図したのは、父の第71代・ウガヤフキアエズの命です。

当時(起源元年頃)、九州を中心に南海トラフ超巨大地震(わが国観測史上最高のM9クラス)が襲い、そのあとに引き続いた天変地異で、九州では作物が育たず大飢饉となっていました。

そこで、皇族たちは食糧増産の指導を行なうため、全国各地に旅立ってゆきます。


◆ナガスネヒコとの戦い

この頃、関西の地にはナガスネヒコという大王が繁栄していました。

このナガスネヒコとは、縄文人の末裔であるという解釈が有力です。

神武天皇の兄である五瀬の命は、巡幸の最中に、このナガスネヒコと衝突し、命を落としてしまいます。

そこで、日向族は全員が関西の地にかけつけ、ナガスネヒコの一族と全面戦争となります。


◆新羅軍の参戦

ここで、重要なことはナガスネヒコ軍は新羅軍と結託していたことです。

神武天皇の兄のイナイイやミケイルノは、海軍を指揮してこの新羅の大船団を滅ぼしますが、歴史からは完全に削除されています。

『古事記』『日本書紀』にも、新羅の参戦については書かれていませんが、その理由は、のちにこの勢力が政権を奪って、大和王朝を開くからです。


◆橿原遷都、ウガヤ王朝の滅亡

この戦いに勝利した日向族は、「豊の国」から奈良県の橿原に遷都してきます。

その理由は、九州ではまだ天変地異が続いており、住める環境ではなかったようです。

しかし、この新天地での生活も長く続かず、ウエツフミの記録は第74代・綏靖天皇で、パッタリと途絶えます。

つまり、日向族の作ったウガヤフキアエズ王朝は、ここで滅亡します。


◆倭国大乱

ウガヤフキアエズ王朝を滅ぼしたのは、東北に逃げ延びて現地の津保化族(津軽)や阿蘇辺族(宮城・福島)と合流した、ナガスネヒコの一族でした。

彼らに共通するのはアラハバキ神を信仰する縄文人たちだったということです。

だからこの勢力をアラハバキ族と呼びます。

この勢力が大和の地に返り咲いて、のちに「欠史8代」と呼ばれる、第3代から第9代の天皇となりますが、詳細はほとんど記録に残っていません。


◆大和王朝成立

縄文人の代表であったナガスネヒコ、弥生人の代表であった日向族、その大混乱に乗じて政権を握ったのは、第三者である渡来人たちでした。

具体的には、ユダヤの失われた10氏族のうち、日本に漂着した「徐福」と「秦氏」の二大勢力でしたが、どちらがどう関わっているのかは記録に残っていません。

だから、第10代・崇神天皇は、出雲神道を否定し、天照大神を皇居から追い出したため、その後各地を転々として最後に伊勢にたどり着きます。

また、オオタタネコに命じて「大物主」を中心とする新しい神道体系を構築します。

そして、絶対君主が土地と農民を支配するという「封建国家」が誕生するのです。

さらに、王族の墓はピラミッドに由来する古墳となり、この時代以降は「古墳文化」と呼ばれるのです。


◆まとめ

最初に日本に漂着した「縄文人」

九州に突然変異的に誕生した「弥生人」

そして、のちに中東から大陸・朝鮮半島を経由してやってきた「渡来人」

この3つの民族のDNAが、私たち日本人の血のなかには流れています。

ただし、長い歴史のなかで、混血・同化が進んでおり、ひとつにまとまって現在の「日本人」が形成されているのです。