第71代ウガヤフキアエズ天皇の時代に、大災害がたて続けに発生し、国内は大飢饉となります。
◆即位68年の夏 6月20日
日本国中に大地震が発生。
山が崩れ、島が崩れ、大地が裂けて泥が噴出す。
◆8月初旬
大風が砂を飛ばし、稲が白く枯れる。
◆翌年春
冷たい雨が降り続き、
麦に昆虫(オケラ?)が大発生し、
雲のように取り付いて黒く枯らす。
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この状況を深く憂いた第71代は、ただちにフトマニ占いなどの神事を執り行うと、神が降臨してこう告げます。
「急げ、急げ、人民に食物を与えれば、災いは去る」
⇒紀元元年にはM9クラスの「南海トラフ超巨大地震」が発生しているので、この時の記述と思われる。
なお、この地震はわが国の観測至上最大規模である。詳しくは、こちら。
⇒さらに紀元150年前後には世界的な異常気象=寒冷化が発生しているので、この時期は大飢饉であった。
⇒記紀は、第71代の存在自体を否定しているので、本当の理由であるこの件は削除されたか?
そこで、皇族や重臣たちが、豊の国から全国を行幸して、
草木の根や木の皮、山菜類などを食料として利用する方法を伝授することにしました。
それらを掘るための鋤や鍬やフクシなどの道具を鍛冶屋に作らせて、
新しく建造された船に積んで、
佐伯のワタの浦(現在の畑野浦)に集結しました。
⇒蒲江の江武戸神社には、この伝承が残る。
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⇒当時すでに、鉄器を作るための鍛冶屋が存在していたことが確認できる。
⇒ちなみに上杉鷹山の飢饉対策の指南書『かてもの』と全く同じ発想だが、鷹山もウエツフミを読んでいたのか?
ここに、ウヅサカヒコ(日本書紀では珍彦)と、その6人の息子たち、丹生麿、赤麿、白麿、黒麿、手之麿、差麿が合流して、道案内を申し出て、船の舵取りを任されます。そこで彼は「椎棹の珍彦」という名前を賜ります。息子たちもそれぞれ名前を賜りました。
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⇒豊後水道一帯には「海部族」と呼ばれる水軍集団が存在しており、のちの平家や村上水軍の祖先、あるいは中心戦力と考えられる。詳しくは、こちら。
⇒『古事記』では、棹根津彦としてこの逸話を採用したが、安芸と吉備に15年も居た?という神武天皇が、速吸まで戻って道案内を頼むことの矛盾が指摘されている。無理に「倭の国の造の祖先」と結びつけた可能性がある。
◆第71代自身は、北周りで越の国の新川の門(港)に到着
ここに、蝦夷のタケル(タケルは県知事クラスの役職名)、陸奥のタケル、越のタケル、佐渡のタケルを集めて、国中の倉を開放させ、山菜採取の方法を伝授し、自ら調理法まで教えて、蝦夷には魚を採る方法を教える。
⇒蝦夷は、当時は陸奥の黒川にいたことが分る。
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◆第70代の次男、つまり71代の弟の高倉下の命は、相模のヨロキの港に到着
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◆第70代の三男、つまり71代の弟のウマシウチ=大久米の命は、遠江の荒井に到着
⇒この人物が物部氏の祖先の可能性あり。詳しくは、こちら。
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◆第71代の二男の稲飯の命は、福岡の岡田に到着
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◆第71代の三男の日高狭野=ヒダカサヌは、安芸の多祁里の大竹の港に到着
⇒のちの第73代で、記紀はこの人物を「神武天皇」としている。
⇒記紀では、三男と四男の順序が逆になっている。
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◆第71代の四男の三毛入野の命は、愛媛の宇摩川に到着
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◆第71代の長男=五瀬の命は、備前の津高川の高倉に到着
⇒のちに第72代となる重要人物
五瀬の命が、秋津根(奈良・京都・大阪の内陸部)と草木根(和歌山~摂津の沿岸部)のタケルたちも集めようとしたところ、
吉備の地元の長が申し上げるには、
「しばらくお待ちください。その中に敵がいて殺される!とみなが申しております。また外国人がやってきて悪事をなしているとも聞きます。だから私の家族をやって、まず確かめさせましょう。」
これを聞いた五瀬の命は、
「それはけしからん!もしそうならば、私自身がその者たちから直接聞きたいので、今すぐ行く!」
と、ただちに出発し、摂津の港に到着しましたが、波が大変速かったので、ここを「浪速=難波の国」といい、川を遡って、河内の草香の白肩の川港に着きました。
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この8年ほど前、新羅国の王主・ユグトブブルが、将のケシビビヤム、コウルトトウブらを伴って、
牟婁の三木の港(現在の三重県尾鷲市三木浦町あたり?)に船を泊めて、上陸しました。
⇒名前からして、モンゴル系の部族か?
⇒新羅ではなく「シラヒト」であり白人とする説もあるが、隣国への配慮からか?
秋津根の国(奈良県)のタケルの屋敷を密かに訪問し、いろいろと珍しいものを捧げて交渉しました。
「私どもの国は騒乱の最中ですが、日本は人も多く豊かで平和な国なので、今から毎年、大船小船(に積んだ財宝)を差し上げましょう。」と提案しましたが、
秋津根(奈良県)のタケルは全く信用せずこれを拒否し、同じく草木根(和歌山県)のタケルも拒否しました。
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そこで、新羅国の王主と将たちは、相談のうえ、
「登美の長髓彦=ナガスネヒコは、優れた心の広いお方だ」と聞いたので、
宇陀の国岳(現在の奈良県宇陀市国見岳)まで行って、彼に面会することにしました。
まず、「あなたは何が楽しみですか?」と、尋ねると
ナガスネヒコは、「私は天の神々や国の神々の教えどおりに生活することが楽しい。それ以外には何も無い。」と、まずタテマエで答えます。
すると「人の上に立つ者は、家にこだわったり、衣装にこだわったり、食にこだわったりするのが通常ですが、その楽しみに乗っからなければ、益荒男の心得は分りませんよ。どうぞ私たちの贈り物を受け取ってください!」というので、
「その贈り物とは何だ?」と聞くと
「あなたが、覇精高の上(地方官僚の役職名)と呼ばれているのは、どんな理由によるのですか?」と聞くので、
心の中では「国の神の子だと本当のことを言うのは恥ずかしい」と思いながら、
「あの饒速日=ニギハヤヒの子孫である!」と答えました。
ところが、伊勢の度会の二見の文書によると、ナガスネヒコの本当の祖先は
「八十禍津日の命の三代目の子孫であり、禍津虚張の神の21代目の子孫である、禍津亘理彦の命という。
越の国の亘理に居て、いろいろと悪さをしていたので、第17代ウガヤ天皇(16代という説もあり)に追い払われて、大和の名張の山中(奈良県名張市)に隠れた。登美彦はその子孫なので、宇陀の覇精高の上と呼ぶ。」と、書かれているのです。
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すると、新羅国の王主と将たちは驚いて、
「ニギハヤヒの子孫だという御印はありますか?」と尋ねると、
ナガスネヒコは、斑鳩の峰に祀られていたご神宝の弓矢を盗んで、彼らに見せます。
そこで、彼らはいたく畏まって、ナガスネヒコを拝みながら、
「日本の大君が、なぜこんな所に閉じ込められてトグロを巻いているのですか?
豪邸を建てて、秋津根の百姓どもが作った作物を奉納させて、家族にも与え、この家に奉公させて、反抗する者どもは殺して、自分の思い通りに暮らして、朝晩酒を飲んで、器量の良い女を楽しみとすれば、生きている甲斐もあるというものです。
また国司に逆らうものがあれば、酒を飲ませて殺せばよい!」
とたらしこみます。
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するとナガスネヒコは、「そうだな!」と答えて、
「天皇に刃向かって、戦を起こすとなると、どうやって防ぐ?」と聞くと、
「私どもに八千斛の穀物を支給して戴けるなら、50艘の船に1000人の兵隊を乗せて、あなた様を守りましょう。」
というので、ナガスネヒコが以前から掠め取った八千斛の穀物を渡すと、それを船に積んで帰国し、後日、本当に50艘の船に1000人の兵隊を乗せて、三木の港にやってきます。
⇒「徐福伝説」とも重なるが、詳細は不明。
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ここに、ナガスネヒコは大喜びして、
「我は、天津御子の命と名乗ることにする!」と宣言し、
国中の国司たちを集めて、高倉山に豪邸を建てて、悪事の放題を尽くし始めたので、
秋津根国のタケルが忠告します。
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すると、新羅国の将・コウルドトウブが、
「このタケルをそのままにしておくと、後日あなた様が罪を受けて殺されます。だから酒宴に招待して、毒を盛って殺しなさい!」と進言します。
ナガスネヒコは同意して、秋津根の国のタケル・久々木(菊池)若武の命を、宴席で毒殺してしまいます。
この人が葬られた場所を忍の御山(忍坂の室屋)といいます。
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⇒『古事記』では、忍坂の室屋に住んでいたのは土雲八十建というシッポの生えた怪獣となっており、一緒に食事をしたあと神武天皇の手配した80人の配膳夫に切り殺されます。つまり、『古事記』を書いたのは、秋津根のタケルに恨みをもつ勢力であることが分ります。
⇒この頃、秋津根のタケルは、熊本県益城郡出身の菊池氏であった。ククキはキクチと同意。つまり、以前にも書いたとおり、古事記の作者は熊襲の関係者か?詳しくは、こちら。
さてさて、そうこうしているうちに、五瀬の命が飢饉救済のために秋津根国を訪れてくると聞いて、ナガスネヒコは慌てふためき、新羅国の王主・ユグトブブルに相談します。
すると王は、
「それは、我が軍が殺して、あなたの国とし、私の枝国としましょう。」と答えます。
ナガスネヒコは喜んで、新羅軍に自分の軍勢を添えて、孔舎衙坂の西の坂本(河内郡高安郷坂本)に陣地を張って、待ち構えます。
何も知らない五瀬の命が、青雲の白肩の津を出発して、坂本の草香刀自の家に入ろうとしたとき、突然、軍勢が起こり、雨のように矢が降ってきました。
そこで一行五人は、白肩の川を遡って早足で逃げたのですが、ナガスネヒコ=新羅連合軍が80騎で追いかけてきたので、もう逃げられないと観念し、川向こうから
「おまえたちの神は誰か?」と問いかけます。
すると「ニギハヤヒの子孫である!おまえたちこそ、なぜ天孫であると偽って我が領地を侵すのか?」と返します。
「天津御子はいろいろ居るが、本物ならば必ず御印物を持っているハズだ。それを見せろ!」と言うと、
ナガスネヒコが「天之羽々矢一つと、天之歩靱一つ」を渡してきたので、
それを見た五瀬の命は、
「これは、私の祖先(第70代)が斑鳩の峰に、火明の命=ニギハヤヒを祀ったときのものだ。⇒詳細は、こちら。
おまえの上に投げ返すので、本物ならば行け、嘘ならば帰って来い!」
と言いながら突き返そうとすると、
ナガスネヒコの長男の長髓太郎がしゃしゃり出て、馬に鞍を掛けて乗り、戦装束の鎧を付けて、真っ先に飛び出してきたので、彼に投げたところ、その矢が天まで昇り、反転して、真っ直ぐに兜を射抜いて、胸を貫き、長髓太郎は真っ逆さまに落馬して死んでしまいました。
だからここを白肩といいます。
これを見たナガスネヒコは激怒し、兵を走らせて五人の一行を取り囲んで、四方から攻めてきました。
そこで、一行は十握の剣を抜いて応戦しましたが、ナガスネヒコの痛矢串が、五瀬の命のヒジに当たりました。
これにひるむことなく応戦し、近くに繋いであった舟で浪速まで帰ってきました。
このとき五瀬の命は、
「日の神の子である私が、日に向かって戦うのは罪である。今後は南から廻って日を背にして戦おう!」
といいます。
鳥海に行って、その手を洗った場所を茅沼の海といい、名草戸時=ナグサトジの家でしばらく休養することにしました。
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丹波の多紀の宮で、この知らせを聞いた弟の狭野の命(神武天皇)は、食べていたホカラを落とすほどに大変驚いて、ただちに全国に散っていた皇族たちに知らせを送り、自分は牧馬を捕まえて、鞍も無いままこれに乗って駆けつけます。
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名草戸時=ナグサトジの家で療養して、キズも治りかけていた五瀬の命ですが、ある夜、夕食にお酒を勧められます。
⇒刀自とは、現在でも戒名に使われるように「高齢の女性」を意味する。つまり「名草おばあちゃんの宿屋」の意味であったと考えられる。ここから転じて、酒を飲ませる造り酒屋ということで「杜氏」となった可能性も。
⇒竈山神社の西に名草山という地名あり。
これに酔って、五瀬の命らの一行が寝静まった頃、実はナガスネヒコに寝返っていた名草戸時が、今がチャンスとみて、自分の軍勢で家を包囲します。
周囲は明りも消えて、雨が降り始め、真っ暗で何も見えない中での戦いなので、一行のほぼ全員がキズを負い血だらけ、別雷神眞武の命は二人を道連れにして既に戦死という状況でした。
ここに駆けつけた日高狭野の命ですが、とき既に遅し、五瀬の命は全身を切られ、つぎの言葉を残して、神去ります。
「悔しいことだ。卑しい奴の傷を負って、それに報うことなく命を落とすとは。」
その亡骸は紀州の竈山に葬られましたが、のちに神となって再び降臨し、神のまま第72代天皇に即位します。
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※ウエツフミの記述をもとに、主要な場所をプロットした地図です。あくまでも参考としてください。
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