<ウエツフミとは? >
それは、豊国文字という神代文字で書かれた「神話」であり、
わが国の成立過程を記述した膨大な「歴史書」でもあり、
さらに古代文明の記憶が満載された「百科事典」でもあります。
※ウエツフミにはいろいろな表記方法があるので、このサイトではカタカナで統一します。
<その位置づけは?>
おそらく、かなり高い確率で、ウガヤフキアエズ王朝、つまり日向族たちが書いた『正史』であった、と考えられます。
王朝の滅亡と同時に、本文は散逸したか、あるいは焼却されたか、いずれにせよ失われています。
しかし、その後約二千年間ものあいだ、その末裔たちにより代々秘伝として写本が受け継がれてきたことはまさに驚異であり、おそらく現存する古文書のなかでも、最高クラスの貴重文献であると考えられます。
<その記述内容は?>
『古事記』『日本書紀』との大きな違いは・・・・・
(1) 神話の部分は『古事記』『日本書紀』にそっくりですが、記紀よりもはるかに詳しく書かれています。
(2) 初代・ウガヤフキアエズ天皇に始まり、少なくとも第74代まで続いた「ウガヤフキアエズ王朝」の治世の歴史が書かれています。
(3) その都は、大分を中心に、全国各地に存在したとあります。
⇒ほとんどの天皇が臼杵の産屋で生まれ、大分市の霊山あたりに葬られている。
(4) 記紀にはない、
農業に関する記述
天文・暦に関する記述
造船・冶金・鉱山などの科学技術
食事・健康医療・生活習慣にいたるまで
古代の生活の知恵が満載されていることです。
(単なる歴史書ではなく、古代文明のノウハウが「神の教え」として記述されている)
(5) 記紀にはない、外国からの侵略の歴史が書かれていることです。
(特に加羅支那国やオロシ)
⇒記紀が意図的にこの部分を省略したのは、侵略した側が書いたからではないか?
(6) 逆に、現在の天皇家の歴史が全く書かれていないことです。
(第74代彦、つまり綏靖天皇の即位までで突然終了)
⇒つまり、ここで王朝自体が滅亡したと考えられる。
<その伝来の経緯>
この文献は、鎌倉時代に豊後の国主であった大友能直(初代大友氏)により編纂されています。
そして、大分県内の一部の家系で、代々守り伝えてられてきました。
公けになったのは江戸末期になってからですが、ほとんど一般の人の目に触れることもありませんでした。
>>>詳しくは、
◆明治10年発刊の『上記鈔訳』には、当時の県知事も参加していた!
いずれにせよ、『古事記』や『日本書紀』は、それ以前に存在した『上記(ウエツフミ)』の底本を参考にして、これを簡略化したカタチで、しかも漢字で書かれたことは間違いないようです。
>>>その理由は、こちら。
『上記(ウエツフミ)』自体も、15種類の古い底本をもとに、大友能直が編集しなおしたものなのです。
ひらがなやカタカナ、漢字が使われる以前の古い象形文字です。
『ウエツフミ』の「はしかき」(大友能直の直筆)には、その成り立ちについて詳しく書かれています。
(1) もともと豊国文字は、「真仮名」または「形仮名」と呼ばれ、ひらがなやカタカナが完成される以前の、わが国の標準文字であった。
(2) それを改造して現在のカタカナ(当時の片仮名)を造ったのは、吉備真備である。
(3) ウエツフミの底本は、平清盛にも献上されたが、焼き捨てられた。幸い梶原景時が別本を所有していたので、これをもとに編集し、古代の標準文字である豊国文字で記述された。
>>>詳しい経緯は、こちら。
ホノアカリがここに篭ったときの経緯が書かれていたが、現在は消失したとされる。
>>>詳しくはこちら。
国東半島にある石碑(下記の写真)には、第25代フキアエズ天皇の名前とメッセージが書かれている。
ひとことで要約すれば、「そこを焼いて掘れ!そうすれば霜も溶けるだろう。これは日の神の教えである」
>>>詳しくはこちら。
この石碑には「金山彦媛命」と書かれており、鉱夫たちが新しい場所を掘るときは伝統的な行事を行っていたと『上記鈔訳』に説明があるが、現在は所在不明。
>>>詳しくは こちら。
臼杵城の石垣には幾何学的な模様がいくつか残されているが、豊国文字だとはっきり断定できるものは確認できなかった。
石工の組合のマークではないか?という説もある。
それは、日向族と呼ばれる人たちが、大和王朝に先立ち、九州を中心に作った王朝です。
時期は、ちょうど弥生時代と重なり、推定起源前1000年~紀元後300年くらいの間です。
祖母山周辺に降臨したニニギの命は、最初の都「ニ上の大宮」から、大分(おおきた)の地に遷都します。
それは、「もっと国土を広げよ!」という、アマテラスらからの命令によるものでした。
◆そして、最初に開拓したのが現在の南大分、稙田タウンのあたりです。
◆霊山(りょうぜん、当時は御宝山)に神を祭る神殿を建て、
◆現在の植田(わさだ)、荏隈(えのくま)、廻栖野(めぐすの)、今(いま)あたりを中心に、新しい都「大分の宮」を作りました。
◆もちろん、高千穂を捨てた訳ではなく、ここにあった「二上の大宮(ふたのぼりのおおみや)」とは、頻繁に行き来していました。
つまり豊後と日向、大隈半島まで含めて、ひとつの国家だったようです。
◆このほかに、「臼杵の宮」「大野の宮」「直入の宮」などが大分各地に点在し、特に「臼杵の宮」には歴代の天皇の産屋が置かれ、ほとんどの天皇がここで生まれています。
◆ニニギの息子・山幸彦とトヨタマヒメの間に生まれたのが初代ウガヤフキアエズであり、竜宮城=海洋民族との関係を連想させます。
◆これらの宮を中心にして、全国各地を巡幸していました。
◆特に、スサノオの作った「出雲国」(末代がオオクニヌシとされている)と、「越の国(今の新潟、富山、石川、福井あたり)」とは仲が良かったようで、たびたび訪れて、盛大に接待された様子が書かれています。
◆また、越の国にロシア(おろし)が攻めてきたときには、援軍を送っています。
◆朝鮮半島の加羅支那国からは、たびたび使者が訪れており、ここはウガヤ王朝の属国でした。
◆さらに鳥を乗り物にして、世界中を駆け回ったことも書かれていますが、この辺は「竹内文書」や記紀にある「天の磐船」とも一致するところです。(真偽不明)
◆歴代天皇74代のうち、女帝が非常に多いこともこの国家の特徴ですが、その場合はヨサキオという摂政(夫も兼ねる)が置かれました。このあたりは邪馬台国の女王とはやや異なりますが、議論の多いところなので今はあまり詮索しません。
◆第71代の治世に、九州に天変地異が相次ぎ、これが理由で全国に食料増産の指導に旅立ちます。
このとき偶発的に奈良のナガスネヒコと衝突してしまいますが、その後このナガスネヒコの土地に遷都します。(ナガスネヒコは新羅にそそのかされて反乱を起こした国賊なので滅ぼしたと描かれている)
>>>詳しくは、こちら。
◆そして、第74代彦(綏靖天皇のことと思われる)が、即位したところで、突然記述が終了しています。
つまり、この段階で王朝は滅亡したと考えられるのです。
⇒「ウガヤフキアエズ王朝の勢力範囲は、全国に及んでいた。」は、こちらから。
⇒「初代ウガヤフキアエズが即位したときの勢力範囲」は、こちらから。