月讀命は八幡紳に変えられた!

源氏が熱心に信仰していた「八幡紳」とは、実は「月讀命」であったという可能性が浮上してきました。

 

『平家物語』には、那須与一が扇の的を射抜くシーンがあります。
このとき、那須与一は「南無八幡大菩薩」と祈っているのです。

 

つまり、源平合戦の頃までは、八幡紳は「仏様」だったのですが、いつのまに神社に祀られる「神様」になったのでしょうか?

 

しかも、古事記にも日本書紀にも登場しないこの神様が、いつのまに天照大神に次ぐ、皇室の守り神になったのでしょうか?

 


八幡神が登場した経緯

現在、通説とされているところを総合すると、下記のような仮説が浮上します。

 

(1)九州北部に漂着した渡来人たちが、新羅から八幡紳という神様を持ち込み、これが神功皇后・応神天皇と一体化することにより、突然皇祖神となった。⇒詳しくは、こちら
つまり、神功皇后・応神天皇とは、九州北部に漂着した渡来人である。
この勢力が、徐福らのヤマト王権と連合して、ウガヤフキアエズ王朝を滅ぼし、これに取って代わった。

 

(2)仏教の伝来とともに八幡紳は菩薩様というカタチで広く認知され始め、大神比義という謎の人物が、宇佐神宮のご本尊は八幡大菩薩であると主張し始める。
もともと、ここには月讀命と宗像三女神が祀られていた。

 

(3)写真は、元の宇佐神宮とされる「奈多宮」の御祀神だが、いかにも不自然!
◆なぜ宗像三女神が一体だけなのか? (三人の女神が一体で表現されている)
◆なぜ応神天皇(誉田別)だけが僧形であり、他の2像よりも縮尺がデカイのか?
◆比売大神という神様が、この三体とは別に居たのであり、これが月讀命ではないか?
つまり、女神像が三体でワンセットであったものが、一体を神功皇后としたため、女神像が一体余ってしまい、製作時期もスケールも異なる僧形像が追加された?・・・・としか思えない。

 

(4)神仏分離政策により、八幡紳は仏様から神様に昇格し、全国の八幡神社に祀られるようになった。
明治政府は、月讀信仰に背乗りして、八幡信仰へと上書きして行った。

 


源氏が信仰していたのは月讀命だった

それでは、この八幡神を信仰していた「源氏」も渡来人だったのでしょうか?
私には、どうしても納得がゆかないのです。
源氏が信仰していた「武神」とは、新羅の八幡紳ではなく、別に居たのではないか?ということです。

 

この謎を解くため、九州の古い神社を廻ってみて、ある重要なことに気づきました。
それは、「もともと源氏が信仰していたのは、月讀命であった」ということです。
つまり、月讀命が八幡紳に差し替えられた痕跡が、あちこちに残っているのです。

 

その状況証拠は、下記のとおりです。

 

(1)月讀命とは、ウエツフミによれば「ツクユミの命」であり、あえて漢字を充てるなら「月弓の命」なのです。
それは、三日月の形が弓に似ているところから来ています。
つまり「月弓」とは、弓矢の象徴であり、武運を左右する「いくさの神様」(多分女神様)であったということです。

 

(2)月讀命に関する記述は、現在ではことごとく抹消されていますが、もともとは強い武将として活躍していたのであり、天照大神と二人三脚で日向の国を開拓した英雄だったのです。
だから、神武天皇が東征したときの旗印も「日(天照大神)」と「月(月弓大神)」をシンボル化したものでした。

 

(3)神という字も、現在では右側は「申」ですが、もともとは「示」+「冐」(上が日で下が月)でした。
この月讀命の活躍が、後世になってから、末弟の(どちらかというと泣き虫でかきん坊の)「スサノオ」の実績ということに差し替えられたようです。
ちなみに、スサノオのシンボルは「地球」です。

 

(4)もともと月讀命が祀られていた神社は「矢形神社」「弓矢神社」などであり、弓矢を連想させる名前が一般的でした。
この「矢形(やかた)」が、秦氏によりヤハウェを連想させる「八幡(やはた)」に変えられた可能性大です。

 

(5)大分県豊後大野市周辺に残る、月讀命を祀る主な神社は下記のとおりです。
◆上津神社
◆浅草神社
◆矢形神社
◆西寒田神社
つまり、これらの神社だけが、ご祀神を差し替えられることを免れたのであり、その他の八幡神社はことごとく神功皇后・応神天皇に塗り替えられています。
このときに明治政府が使ったトリックが「合祀」という手法でした。

いくつもの神社を一か所に集約して、本来の由緒を不明にしてしまうというもので、その被害は甚大です。

 

そして、この月讀神を厚く信仰していたのが、豊後藤原氏とその末裔である「源氏一門」だったのであり、この一族から「豊後大友氏」が登場します。

つまり、源氏一門が信仰していたのは月讀命であったということです。

 

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コメント: 25
  • #1

    siraki (木曜日, 18 8月 2016 07:55)

    本当に情けないです。こんなデタラメの想像は
    結局日本人は自分の 魂と国の 魂に
    自害行為とまったく同じな結果をもたらすでしょう。

    紀記で 正統性を認める
    天皇には三種類系統があります。
    新羅と百済そして 加羅(韓)です。

    言い換えれば 紀記の 天皇と言う(のは)
    全部新羅王百済王 加羅王 です。.

    我家は 大新羅 神武天皇 直系として新羅の 応神天皇に対しても
    詳らかに聞かせることもできるが。.

    正直。. こんなに分析力と実力が不足な人に
    秘密の深い話をしてくれることはできないです。

    少しだけ知らせてくれたら 韓国大姫大目は
    新羅の 応神天皇の 妹です。

    宗像は説明しなければならないことが多くなるのでここでは略します。

    源氏の先祖は新羅の 応神天皇ではないです
    しかしすべての日本人はここに拘束されるしかないです。

    源氏の先祖は新羅王の他の系統で例えば 清水寺の
    千手観音です。

    月読命というのは 木花咲耶 すなわち 大弁辰狗邪韓国を言う単語です
    (kono、というよく 近や 己能で表記したりする韓国語の 大です)月読というのは 音借をしただけ 月と関係はないです。韓国語で 大弁辰狗邪韓国の
    意味が何なのか悟ったら 月読命という単語の意味が分かるようになりますね。.

  • #2

    siraki (木曜日, 18 8月 2016 11:26)

    男性としての 月読は百済の太子王を言うこと。.
    それが 百済の太子 少名

  • #3

    千葉一二三 (木曜日, 18 8月 2016 20:19)

    SIRAKIさん、そんな言い方しなくても。笑

    わからないなかで、調べた結果で貴方が知識豊富なのかもしれませんが、木花咲耶さんから、月読さんには、なかなか、結びつけるには、難しいかと、思います。優しくコメントしてほしいですね。

  • #4

    siraki (木曜日, 18 8月 2016 21:29)

    千葉一二三氏 それでは連結のために歌を歌うが歌って見ます。
    "難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花"

  • #5

    千葉一二三 (金曜日, 19 8月 2016 09:39)

    ありがとうございます。

  • #6

    siraki (金曜日, 19 8月 2016 10:50)

    千葉一二三さんにだけこっそり耳打ちだが。
    百済王子の 月読と 大雀命の回転門です。

  • #7

    出雲小社 (土曜日, 20 8月 2016 14:01)

    siraki先生は相変わらずですね。ものすごく博識?なのでしょうが?ここでのブログを非難するのはお門違いです。前にもいったと思いますが、あなたは退場ですね。どなたかにも言われていましたが、自分が一番正しいというのは、そういった主張はご自分のブログで堂々とされるべきですね。うんざりします。お国柄ですか?いくら博識なあなたでも正しい論拠文献が正しいかどうかは数千年前ですから「誰にも分かりません」、ここではどうだろうか、確信に迫ってきただろうか、の研究成果です。決めつけ「吾が一番」は国民性なのですか?しばらく休養してください。ご自分のブログの充実をされてください。

  • #8

    いち読者 (日曜日, 21 8月 2016 06:48)

    出雲小社様
    siraki様の肩を持つつもりではありませんか、siraki様のご意見もそれなりに面白いと思います。
    siraki様ももう少し丁寧なお言葉でコメントしてくださればありがたいのですが(^^;

    退場か否かは管理人様のご判断にお任せしましょう。

    管理人様はホームにご意見、批判等はお受けすると明記されていますので。

    穏やかに行きましょ(^^)

  • #9

    出雲小社 (日曜日, 21 8月 2016 12:01)

    いち読者様、管理者氏は最近ではsiraki氏にはコメントはされていないと思います。無視されているのか、ぐうの音もでないのか、分かりません。私としては少し場が違うのでは?と思います、siraki氏は。「なんだ管理者氏は何も知らないではないか。こんな解釈もできないのか。朝鮮が一番なのだ」といってばかり、私なら無視し、コメントとしては選択できる方式にして、載せないでしょう。いや、載せるべき、反論は自由とされているのだから、穏やかにも意見ですね。でも、管理者氏は反論コメントはしないですね。私もコメントしてもらえるようなコメントは書いていないので、ないですが、siraki氏には何かしらあっても可笑しくはないですね。以前はしていたかな?反論を受け付けている言葉の割には可笑しいかな。これも自由でした。
    穏やかに、穏やかに。

  • #10

    いち読者 (日曜日, 21 8月 2016 18:53)

    出雲小社様
    御丁寧にありがとうございます。

    穏やかに。

    このサイトのいちファンとしてせつに願います。


    siraki様に質問なのですが、

    祟神天皇は「伽羅」系渡来集団の辰王で、応神天皇は祟神王朝に婿入りした百済の王子「昆支」であると、歴史研究家の石渡信一郎氏が唱えてますが、この説についてはいかがでしょうか?

    管理人様

    個人的な質問に貴重な場をお借りし申し訳ございません。
    他に方法が無く、この場をお借りしました。
    お許し下さいませ。


  • #11

    siraki (日曜日, 21 8月 2016 23:03)

    いち読者氏

    皆さんも見当をつけるが 神武天皇が
    紀元前660年に日本を建国したことではないです
    したがってその時間を埋める必要があります。

    幾多の 天皇の 名を見ながらその時代に
    その 名の 天皇が実際に存在したと思えば
    だめです。古人らの 頭を軽んじてはいけないです。すごいトリックを使っています。

    崇神天皇と言う(のは)百済の王子 竹葉瀬を意味するのだが。.
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E8%91%89%E7%80%AC
    wikiではとても赤裸裸に説明をしておいています。.

    『日本書紀』仁徳天皇53年5月条によると′新羅に派遣され′新羅が朝貢しないことを問責したという。その途上では′白鹿を獲たので天皇に献上したのち新羅へ向かったと記される。また′のちに新羅と戦った上毛野田道の兄という。

    こんな変な説明の意味が分かりますか?
    百済の王子で新羅を征伐しなさいと送ったら新羅と手を握って
    百済王に対する反逆をはかったという意味です。

    そうだから
    応神天皇は祟神王朝に婿入りした百済の王子ではなく反対に
    新羅の 応神に婿入りした 百済の王子の 崇神天皇と言うのです。

    崇神天皇に対する 紀記の説明は派手だが
    事実は難しい時代でした。風雲児で坊っちゃんで生まれて
    一生を 戦場で暮しました。

    そして百済の王子 竹葉瀬係は (百済の 大王) 天照大神と
    大物主神に対する 祭の義務があります。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%9F%8E%E5%85%A5%E5%BD%A6%E5%91%BD

    『日本書紀』[原 2]によると′崇神天皇48年に天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと′後の垂仁天皇)に勅して′共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため′それぞれの見る夢で判断すると伝えた。豊城命は「御諸山(みもろやま:三輪山)に登り′東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見た」と答え′活目尊は「御諸山に登り′四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。その結果′弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし′豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣されたという。ここでは 活目尊を言います。

    百済の 大軍が 反乱軍を討伐するために入って来ました。
    情勢が不利になれば永遠のようだった同盟にも割れ目が生じて。.
    新羅の王子の 応神は海で 東で逃げて
    百済の王子の 竹葉瀬は陸地で 奈良に入って行きます。

    それが百済の王子の 月読命 または皆さんが
    仁徳天皇だと呼ぶ百済の太子王の 物語 です。

    補足)
    志貴御県坐神社
    http://www.genbu.net/data/yamato/siki_title.htm
    には 主祭神 大己貴神だとなっていて変だと思ったが 同page 下記の
    新撰姓氏録」大和国神別に志貴連は神 饒速日命の孫日子湯支命の後裔とする。当社は この名族によって奉斎されたものと推定される。.という 節を見て安心.。
    すなわち百済の王子 竹葉瀬の 出自が百済の 大王の 神 饒速日命と,皇御孫の命
    (大己貴神は新羅王)

  • #12

    siraki (月曜日, 22 8月 2016 08:39)

    http://akon.sakura.ne.jp/jinja/yung.html

  • #13

    日向小次郎 (水曜日, 24 8月 2016 14:50)

    既にお気づきでしょうが百済と新羅は古代ヘブライ人が日本にくるまでに建てた途中経過の国です。
    だからすぐに滅び後に他民族に背乗りされました。地理的にも冬が厳しく快適な場所ではありません。

    ヘブライ語でクダラ・シラギは雪の玉という意味
    (Heb.),כֶדֻר־סהֶלֶג,KDVR-ShLG,kedur-sheleg 〔球-雪〕雪の玉(雪だるま) 
    (Heb.),כֶדֻר,KDVR,kedur 球、玉、ボール:クダラ〔百済〕
    (Heb.),סהֶלֶג,ShLG,sheleg 雪:シラギ〔新羅〕

    古代ヘブライ人にとっても冬の国のイメージだったのでしょう。後に快適さを求め南下を目指します。
    ヘブライの王族が古代日本にきた途中の国が百済・新羅だとわかりやすい例です。
    ちなみにこれは古代朝鮮の歴史記である百済本紀にも「始祖は沸流(フル )」と書かれており
    解夫婁(ヘブル)=ヘブライ人という意味です。始祖ですから当然祖先の事です。

    日本の天皇家はこのヘブライ人が渡来する前に既に存在しています。

  • #14

    出雲小社 (金曜日, 26 8月 2016)

    Siraki先生以外にも質問以外のコメントで断定論を披露するお方がいて何だろうと思います。その内容自体に根拠が乏しいのに堂々としているのはなぜでしょうか。管理者氏にどうでしょう?これはどうでしょう?とコメントされた方がいいと思います。ご自重ください。

  • #15

    通りすがり (土曜日, 27 8月 2016 16:23)

    shirakiはわかりやすい連投荒らしなのは誰にでもわかりますが他にも目立ってきましたね。
    わざわざ大を小に置き換えて出雲小社と名前で煽る点は
    小日本と言って喜ぶ中国人を連想させますね。
    この2人に共通しているのは粘着中であり管理人さんにああしろこうしろと指図をしている点ですね。
    荒らしの特徴の1つです。

  • #16

    日本魂 (月曜日, 03 10月 2016 05:05)

    南朝鮮人の何でも韓国起源説はコンプレックスに苛まれた朝鮮民族病である。属国としての歴史しかなく、何一つとして独自の文化を形成できなかった民族の劣等感は、朝鮮人のDNAに刷り込まれている。だから悪気もなく息を吐くように嘘をつく。
    これが朝鮮人です。

  • #17

    マコト道 (金曜日, 21 10月 2016 13:31)

    精神から概念、概念から言葉、言葉が積み重なって文化、社会を生む仕組みがある。だから現象は「精神そのもの」。
    その精神は、個々が「内側を研磨しない限り」、決して昇華しない特性がある。詰まり、メッキは効かないのだ。化け切れない物が「この精神」なのだ。

    未だに「背乗り」は継続している。神社本庁などに巣食いながら、各地の神社乗っ取りを仕掛けている。

    元々はシュメールであり、葦原中国からの繋がりであるにも拘らず、根を尊ばぬどころか「背乗り」するとは何事ぞ!、鬼界カルデラ爆発の意味が、まだ分からんか?、元々の人とは「マコトの民」ぞ!、ミコトぞ!「言、心、事(行)」が合致してる民の事ぞ!、穢れまくった成れの果てが「背乗り」では、世も末ぞ!。火水(神)に祀ろうとは、背乗りの事ではないぞ!、利用する事でもないぞ!、感謝の流れこそが宇宙の仕組みぞ。その流れが集合する龍の「出入り口」で、ゴミ溜め作るとは何事ぞ!。穴詰まれば「生きておれんぞ!」。

  • #18

    マコト道 (金曜日, 21 10月 2016 14:28)

    背乗りが増えたが…
    中国(ナカコク)とは、尊い御霊の集合する場所ぞ、御霊の中の御霊、最も優れた御霊が集まる場所ぞ!。アマノミヤのある所ぞ!。アマノミヤのある場所こそが中国ぞ!。メッキの魂が交ざる様な場所ではないぞ!。穢れた魂の置き場所はないぞ!

    流れの澱みが腐れば、鉄砲水の浄めがある。土足での歩きは、宇宙の仕組みが分からぬ愚か者の歩みぞ!、感謝の分からぬ愚か者の歩みぞ!、獣の歩みぞ!

    レッテル貼りとは攻撃ぞ!、蔑称とは騙しぞ!、獣の軸ぞ!、ご都合主義ぞ!、利己主義ぞ!。思いやりの対極にある思考ぞ!、偽物ぞ!

    穢れた言葉を使う者が集まっても「宇宙の仕組み」から見れば、特異な空間しか作れん。自然淘汰は当たり前ぞ!。ミコト(三コト)を備えた者が集まってこそ、マコトの答えに辿り着く事が出来る。獣が人になってこそマコトの道が見えて来る。人型だからとて人では無い。人になってこその「人」。人と「人で無し」の概念を持ってこそ、初めて人化が促進される。人と「人で無し」の混同こそが混沌の本質。人と人で無しの「思いやりを持った選別」の概念を手にする事こそが、混沌の暗闇に「整頓の隙間」を誕生させる事が出来る。混沌に光りが射し込む理由となる。

    地球にも、人と人によって、本物の大きな和「大和」を誕生させる事が出来る。

  • #19

    ぽぽちゃん (日曜日, 29 1月 2017 14:51)

    中国のアマノミヤって何をさしてますか?教えて下さい。

  • #20

    朝鮮人の嘘 (土曜日, 10 6月 2017 13:59)

    虐げられた属国としての歴史しかない朝鮮人にはコンプレックスしかない。朝鮮半島にまともな歴史など何もない。その空虚感を埋めるために、嘘に嘘を重ね、嘘の上塗りをし続けたのが朝鮮人である。朝鮮人の言葉など何一つ信じるに値するものはない。

  • #21

    (火曜日, 06 2月 2018 11:22)

    逆だと思いますよ。八幡信仰は、姫氏で、倭の皇祖神。皇族です。任那を作ったのは姫氏だと言われています。御所の建築様式、儀式の様式が八幡系でありますから。

    新羅系ではないです。新羅は原始キリスト教だと言えます。また、高句麗系でもないです。高句麗系は騎馬系や、古墳系でした。百済系でもないです。百済系は仏教ですので。

  • #22

    櫻霊止 (木曜日, 20 9月 2018 09:56)

    素晴らしい!
    よく調べ上げたと思います。
    福岡の筥崎宮も、御祭神は神功皇后だったと思いますが、
    でも、居るのは月讀命です。
    何故?って思ってましたが
    謎が解けました。

    ちなみに筥崎宮の参道の延長線上には
    壱岐の月讀信仰発祥とされる箱崎があるのですよ。

  • #23

    mars (金曜日, 15 11月 2019 09:40)

    月詠さんが消えてる理由がはっきりしてすっきりします。
    秦氏との関連もそれで考えると納得しますね、何しろ「同じ水系」に神社と遺跡が有りますから。
    お稲荷さん並にいっぱいある八幡さんですが、水辺「にも」多いです、普通に考えたら金比羅さんでいいような場所に八幡さんでしかも古いものは妙な作りが多い。

  • #24

    たぬき (火曜日, 14 4月 2020 23:49)

    宇佐神宮の社家、宇佐公康氏の宇佐族の伝承。

    宇佐族は渡来する以前の太古より月神、月の女神を信奉する故に、
    月に住む兎に因み、自らをウサギ族と号したのがウサ族に変化した。
    宇佐神宮の主神は、月の女神/月読尊。

    古事記の編纂に際して、豊国の宇佐族に関する事柄が訳有って(所謂邪馬台国の卑弥呼=都万(物部)豊(宇佐)連合王国の女王で宇佐神宮の媛巫女の豊玉媛命が魏の属国(宇佐宮には魏の軍旗が八幡翻った事が八幡宮の原点)となり、結果的に大和と出雲王国を制圧して平定。このシナの属国だったことが問題とされて)一切が削除された

  • #25

    たぬき (金曜日, 07 8月 2020 21:53)

    そもそもの話。宇佐族が太古より唯一信奉した神が月の女神/月読尊‥。
    (尊は神。命、奉祀する姫巫女(荒魂、明御神)。
    巫女は奉祀する神と同等、同一に考えられ崇拝される対象で有り、民衆は王より巫女の言動に靡き従った)

    月神を信奉する故に自らも月に棲むと言うウサギに倣い「ウサギ族」と号したのが後に「ウサ族」に変化した。

    当然ながら、彼ら宇佐族が信奉し、奉祀する神は月の女神、月読尊に他ならず、宇佐族の神宮の主神も月の女神、月読尊である事は宇佐神宮の社家、宇佐公康氏の宇佐王家伝承を待つまでも有りません。

    因みに、宇佐族は出雲族がインドからシベリア経由の北回りで日本列島に漂着した4千年前には既に全国的な拡がりで繁栄していたとは宇佐公康氏の伝承本や元出雲王家の伝承からも一致を見ています。
    宇佐族は出雲族をその信奉する神々の一柱のサルタ彦大神に因み、サルタ族と呼んだ事も記されいます。

    この宇佐族=ウサギと出雲族=龍蛇神の原型の一つであるインドの川ワニ(クビラ→金毘羅神)から、

    素ウサギとワニのお伽噺(神話)と成ったらしい。

    ウサギ族がワニ族に圧迫、圧倒されて支配領域を狭め北九州地方だけの豪族と成った。
    しかし、出雲王国は宇佐王家を話し合いで出雲王国への参画を促し了承を得て宇佐王家の北九州地方が出雲王国の支配下に入った。

    その証に出雲王国の親王、アタカタス(神門臣家)が宇佐に下り、宇佐王家の王女(跡取り媛で宇佐神宮の姫巫女と思われる)と婚姻して創設したのが
    「宗像王家」。

    古代の人は九州を人の形に考えていたらしく、
    北九州を「胸や肩に当たる地域」と考えて「胸肩王家」と号したのが胸方(形)や宗像に変化したらしい。
    (鹿児島半島や大隅半島は両足。)
    宇佐王家は先述の通り、女神月読尊を信奉しますが、
    出雲王国に参画するに際してその条件である出雲王国の国教、《幸(さい)の神》信仰を受け入れました。
    幸(さい)の神信仰は、現在の神道の根幹と血肉を成す大事で日本人の思想習俗文化に多大な影響を与えました。
    3柱の家族神と眷属の龍蛇神から構成されて、
    主神はクナト大神。女神で后神の幸(さい)姫命。御子神のサルタ彦大神。
    僅か3柱の家族神が人々のあらゆる祈願、事柄を全て担当しました。
    この時代(〜古事記の以前)には「八百万神は居なかった。」
    天照大神は幸姫命の神格の一つの太陽の女神に過ぎません。


    名義上は出雲神族(王族)の宗像家=出雲王国の分家ですが、
    実態は出雲も宇佐も母系社会だった事から宇佐王家そのもの。
    宗像のアタカタスの生んだ三姉妹が後世に所謂、宗像三女神。
    出雲王国は宗像王家(=宇佐王家)を重要視しましたから、
    長女の多岐理媛は出雲王国の第七代のオホナモチ(主王)の天冬衣命(富家)の正后と成り、
    次女の多岐津媛(多吉媛。/神屋楯媛命、高津媛命)は第8代のオホナモチの八千矛命(神門臣家)の正后と成りました(イトコ夫婦)。

    市杵島媛命がビミョーかつ重要な御立場。
    この時代、八千矛命の御代に秦人の徐福が秦の始皇帝の勅を奉じて2千人の少年少女ら(海童)と共に出雲王国に渡来。
    秦の始皇帝の云々は方便で徐福は出雲王国を乗っ取り自ら王と成る野望を秘めて居ました。
    ソレは直ぐに顕となり、前代未聞のクーデター、テロ事件を起こして
    八千矛王(神門臣家。多岐津媛の夫君)と少名彦(副王)の八重波津身王(富家。多岐理媛の御子)のお二人を配下を動かしほぼ同時に暗殺(洞窟に幽閉して餓死させた)

    しかし、出雲王国は直ぐに巻き返しをはかり、賊集団は鎮圧平定されて徐福には殺害命令が発せられると居場所を失った徐福は配下や妻子を置き去りにしてそそくさと秦国に逃げ帰りました。
    秦の始皇帝にポーカーフェイスで再び謁見した徐福は
    出雲王国での失敗はおくびにも出さず、またしても舌先三寸でよく囀り、再び秦の始皇帝を詐欺して
    3千人の少年少女らを強制的に捕獲。彼らに軍事訓練を施すと彼らの中に身内親戚一族を紛れ込混ぜて再度の渡来をしました。
    今度は佐賀の吉野ヶ里を本拠地と定めて帰化定住。

    前回の出雲王国ではホアカリを自称しましたが極悪非道な大罪人として全国手配されて居ましたからホアカリは不味いため、
    ニギハヤヒを自称。

    北九州を支配する宗像王家に言いより、マンマと市杵島媛命と婚姻してホホデミ命(物部王家の祖)とホヤ姫命を生みました。

    ここで、市杵島媛命はニギハヤヒが2人の姉や出雲王国の仇敵であるホアカリ=徐福である事を全く知らなか事が伺い知れます。

    後にその事を知って市杵島媛は大変苦悩なさった事は想像に難くありません。

    この一事を、天照大神(出雲族である市杵島媛命の比喩)がスサノオ(徐福や物部の比喩)に大宜津媛神(字面は多岐津媛と酷似)の様子見舞いの話、
    または、天照大神(同じく市杵島媛命の比喩)が月読尊(宇佐族の比喩。市杵島媛は宇佐族の姫巫女で惣領。配下に命令した事に)に保食神(出雲の女神の神格の一つ)の様子見舞いをさせる話に成ったかと思います。