神武天皇は二人居た!

第2代ウガヤフキウアエズの命・カムヤマトイワレビコ
第73代ウガヤフキアエズの命・ヒダカサヌ

この二人が、意図的に混同されて、

一人の「神武天皇」として伝わっています。

 

そして、それを粉飾したのは、

藤原氏と物部氏であることも分かってきました。

 

この記事は、前回の「宇佐には第2代ウガヤフキアエズの大宮があった!」の続きです。
まだ読んでいない人は、まずこちらからどうぞ。


第2代・イワレビコが消された理由

それは、思金氏の娘が生んだ御子だったからです。

 

ここから、お話は複雑になってゆきますので、よーく読んでください。
ただし、これはあくまでも『ウエツフミ』の記述に基づきます。

初代・ウガヤフキアエズには、正室・若玉依姫以外に、2人の側室が居ましたが、いずれの御子たちも、みんな早死にして、なかなかお世継ぎが生まれなかったのです。

そして、待望の日継御子を産んだのは、なんと身分の低い女官であった富津姫(トムヅヒメ)でした。

 

ここに「大番狂わせ」が発生してしまったのです。
この方の父親は、思金鳴志眞弓の命、つまりオモイカネの子孫だったからです。

 

このとき、正室の若玉依姫は、海神・オオワダツミ系統の出身で、それを支えていたのが中臣氏。

 

そして、側室であった二人、つまり多多良姫木綿多多良姫は、大物主の子孫で、それを支えていたのが、物部氏でした。

⇒話はそれますが、「多多良姫」の名前でピンと来た方は、かなりの古代史通ですが、神武天皇(イワレビコ)の正室ということで伝わっているヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)は、実は正室ではなく側室だったのです。
しかも二人いて、二人ともお世継ぎを産むことができませんでした。
それが、なぜ正室とされたのか?
その理由は、最後まで読めば分かります。

 

つまり、初代ウガヤフキアエズの「後継者問題」をめぐって、中臣氏、物部氏、思金氏の三臣たちが、熾烈な権力争いを繰り広げていたということです。

もしかしたら、初代ウガヤフキアエズの御子たちが次々と早世したのは、誰かの陰謀によるものかもしれません。
第2代自身も、生まれたときから虚弱体質で薬を常用していたとありますから、もしかしたら命を狙われていたのかもしれません。

 

そして、最後に「外戚」の幸運を掴んだのは、思金氏でした。

 


第3代マシラタマカカヒコの誕生

当然、中臣氏物部氏が快く思うハズがありませんでした。
悶々と不穏な空気が漂うなか、やっと正室の若玉依姫が待望の男子を懐妊します。
これが、第3代・マシラタマカカヒコでした。

 

ときすでに遅し、第2代・イワレビコが即位したあとのことでした。

 

ここに、中臣氏はやおら勢力を復活させ、「外戚」としての指導力を発揮しはじめます。
その結果、つぎのとおりの采配が実行されました。

 

◆第2代は早期に引退して上皇となる。(実際に14年で退位)
◆第3代を後継者として即位させる。(海神系の正当な後継者)
◆天皇と上皇は、それぞれ東日本と西日本を分割統治する。
◆そのため、第3代を奈良に常駐させ、東日本統治の拠点とする。
◆上皇は、現在の宇佐神宮のある場所に遷都し、西日本統治の拠点とする。
⇒詳細は、こちら

 

これで、再び中臣氏を外戚とする元の体制へと軌道修正することができました。
そして、このときから思金氏は歴史上から忽然と姿を消しているのです。
つまり、滅ぼされたか、あるいは信州に左遷されたとみる説も有力です。

 

そして、権力を掌握した中臣氏と物部氏は、それぞれ西日本と東日本に宗教祭事の拠点を置きます。

それが、下記の2つの神社だったと考えられます。(この部分は推論)

◆西日本・・・・宇佐神宮に宗像三女神(と豊玉姫?)を祀り、中臣氏が祭儀を行う。

◆東日本・・・・大神神社に大物主を祀り、物部氏が祭儀を行う。

 


神武東征とは?

さてさて、もうお分かりでしょう。

 

「神武東征」と呼ばれているのは、実は第2代と第3代が揃って東日本を開拓するために、奈良に造られた新しい仮宮へと遷都したことだったのです。(紀元前660年)


これが、第73代ヒダカサヌの「第二次東征」と混同されて、ひとつの物語として伝わっているのです。

 

そして、西日本を統治した第2代が「神武天皇」と呼ばれ、東日本を統治した第3代が「ニギハヤヒ」と呼ばれたようです。

これで、「富家文書」が伝える「神武天皇とニギハヤヒが一緒になって奈良に攻めてきた」という記述とも一致します。

ですから、この最初の東征は「イワレビコ東征」と呼ぶのが正しいのです。

 

【考察】ウエツフミでは、第2代が西日本を、第3代が東日本を、それぞれ分割統治したとあるが、話の流れからは、これも逆転して伝わっている可能性が高い。つまり海神系の第3代は宇佐神宮から西日本を、思金系の第2代は大神神社から東日本を統治したとみるほうが自然。

 

そして、その約700年後の起源元年頃、今度は第73代ヒダカサヌが、ナガスネヒコと戦って、奈良の橿原宮に遷都してきます。

こちらのほうは、「ヒダカサヌ東征」と呼ぶべきでしょうか?

 

これら2つの事実が混同されたのは、記紀の作者がウガヤフキアエズ74代の歴史を全て削除してしまったからに他なりません。
つまり、第2代と第73代を同一人物とみなして、中間をすべて省略して記述してしまったということです。

 

さらに、物部氏は自分の祖先であるヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)を神武天皇(第2代+第73代)の正室として潜り込ませることに成功しました。

あくまでも歴史記述上のフィクションとしてですが・・・・。
ちなみに、第2代の正室は若玉依姫であり、第3代の正室は上照姫、第73代の正室はイスケヨリ姫です。
これにより自分たち一族の正当性を証明しようとしたのでしょう。
異義を唱えるであろう思金氏は、もう居ませんでした。

 

そういえば、中臣氏はアメノコヤネの子孫、思金氏はオモイカネの子孫であり、いずれも天孫降臨族の由緒正しい子孫なのですが、物部氏だけはその来歴が不詳なのです。
私の推測によると、軍人から這い上がってきた隼人の一族であり、関西で反乱を起こしたヨスセリの子孫だと思われますが、その始祖を海彦だとすることにも成功しています。(ウエツフミはこれを否定⇒詳しくはこちら

 


ウガヤフキアエズ王朝が消された理由

それにしてもなぜ、ウガヤ王朝74代を、歴史から抹消してしまう必要があったのでしょうか?

 

そのヒントは、ここに登場していないもうひとつの勢力、それは豊日の国に展開していた山の神・オオヤマツミを頂点とする大神氏一族です。

のちに、この勢力が仏教の世界では「山王権現」と呼ばれ、神道と習合して現在の「山王様」となります。

(私の独自解釈ですが、山王様の正体は大山咋神=酒造りの神ではないようです。詳しくは、こちら

 

彼らは、治山、冶金、建築などのテクノロジーを伝える技術集団として、天皇家を支えてきました。
本来であるならば、この勢力が「出雲王朝」時代からの正当な後継者であるハズなのですが(ニニギもオオヤマツミの娘・コノハナサクヤ姫をもらっていることはご存知のとおり)、どういう訳か、この勢力も『ウエツフミ』とともに歴史から姿を消しています。

 

このことを裏付けているのが『海彦・山彦の神話』であり、海神系の海彦が辞退して、山神系の山彦が即位しているということです。

そして、バランスをとるため、海神系から豊玉姫が迎えられました。
ここで一度、海神系天皇から山神系天皇への政権交代が起きているのです。

そして、この山神系天皇の時代は、第73代ヒダカサヌまで続きました。

 

つまり、豊日(または日向)に残った天皇家は、山神系で大神氏と直入中臣氏の連合勢力が支えた、

宇佐に移った天皇家は、海神系で藤原氏が支えた、
奈良に移った天皇家は、大物主系で物部氏が支えた、
とみれば、
大神氏が書いた正史が『ウエツフミ』であり、

藤原氏が書いた正史が『日本書紀』であり、
物部氏が書いた正史が『古事記』である。


 という結論になります。

 

本来ならば、これら「山神」「海神」「大物主」の3つの勢力に支えられてこそ、天皇家はその実力を発揮できるのですが、第三の勢力である「山神」は、現在はひっそりとその姿を潜めているのかもしれません。

 

このことを裏付ける伝承が宇佐神宮のご託宣に残っています。

「祖母山の神は政治や権力にいや気がさして引退し、宇佐の神に天皇になることを勧めた。これを阿蘇の神が補佐することとなった。」

 

あるいは、海神系の藤原氏と大物主系の物部氏が結託して、山神系を故意に隠蔽したのでは?という疑惑も生れます。

 

これまでは、天皇の系列だけを追いかけて古代史を見てきた私ですが、その天皇を産んだ母親にスポットを当ててみることで、意外な勢力関係が浮かび上がってきました。
つまり天皇家の歴史とは、外戚争いの歴史であると見ることもできます。

 

それにしても「げに恐ろしきは人の心」であり、どろどろとした「権力欲」が、歴史を歪曲させてしまったのであれば、誠に残念なことです。

 



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コメント: 1
  • #1

    siraki (金曜日, 05 8月 2016 18:49)

    山神 (新羅神)
    海神(韓神)(和珥)(新羅神)
    大物主(多布留)(百濟神)