古代弥生人気質

最近、なにかと縄文人がもてはやされて、弥生人の肩身が狭くなっているので、「ウエツフミ」の記述をもとに、弥生人とはどんな人たちだったのか?を再現してみます。


ひとことで言えば、とっても日本人らしい良い人たちでした。

神々が決めた制服?

縄文人のきらびやかなファッションに比べて、弥生人の服装は質素そのものでした。
それは、神々が、厳しい掟である「神訓(こ)り」を出していたからです。
単に着る物だけではなく、ヘアースタイルやお化粧、アクセサリーにまで及んでおり、「男女別に垂らす帯の長さ」まで細かく決められていました。
多分これは、集団作業である農業を効率的に行うための「作業服」のようなものだったのでしょう。
そして、規則正しい生活と厳しい上下関係は、まるで「農業生産工場の従業員」を連想させます。

 

肉食禁止が弥生人の特徴

仏教とよく似ているのが「肉食の禁止」でした。
特に四つ足はご法度で、「穢れているから絶対に食べるな!」とアマテラス自身が言っています。

穢れたものが体に入ると、自分までも穢れて、精神作用に影響が及ぶ、つまり「気が狂う(精神エネルギーの波動が乱れる)」と考えられていました。
牛や馬も飼われていましたが、あくまでもトラクターやマイカーの代わりで、これを食べることはありませんでした。ただし、寒い地方では、体を温めるため、隠れて肉食をしていたようです。
この点、ホツマツタエでは、「四文字の動物は食べてもよいが、三文字と二文字の動物は食うな」と矛盾することを説いています。つまり、「ウエツフミ」を書いた民族と「ホツマツタエ」を書いた民族とは異なるか、あるいは時代が違うようです。

 

逆に、動物の殺生はOK?

蛇(ヘビ)やムカデやイノシシは大嫌いで、意外にも「見つけ次第、叩き殺せ!」と教えています。

穢れているので、放置しておくと、その穢れが自分にも移ると考えていたようです。
だから、「蛇神信仰」は、弥生人に関しては絶対にあり得ません。
さらに、「殺生禁止」や八幡神社で行われる「放生会」などの行事も、多分弥生人発祥ではありません。

神々も自ら耕作

アマテラスやスサノオさえも、自分用の田畑を所有して、農作業に従事していました。
この伝統は、第73代神武天皇までは確実に続き、「耕作しないことは天の罪」だと言っています。

 

年貢不要の理想的な社会

だから、税金や年貢を徴収する必要はありませんでした。
なぜなら、天皇家が一番裕福な農家だったからです。
逆に、収穫の秋になると、農民たちが自分の作った作物を自主的に「奉納」してきて、皇居の倉が一杯になるので、たびたび「荷前停止措置(年貢奉納禁止令)」が出されました。

この措置に、人民は泣いて悔しがったとあります。現在とは逆ですよねえ。
そこで、余剰作物を有効に活用するという観点から職業軍人である「物部人(もののべど)」が誕生します。つまり、職業の無かった人を雇用してこの余剰作物で賄ったのです。
なお、物部氏という氏族はありませんでした。
初めて税金を課したのは、第10代・崇神天皇です。だから、この天皇は徐福本人か、あるいは渡来系の天皇ではないかと言われています。

 

天皇家に対する考え方

弥生人には、王とか帝とか君主という考え方はありませんでした。
天孫族は、「天から降りてきて、いろいろ教えてくれたありがたい神様の子孫だから」と、ごくあたりまえに尊敬していました。だから当時は、「スメラミコト」とは呼ばずに、「天つ御子」と呼んでいました。

つまり、感謝と尊敬が天皇制を支えていたのです。そこには武力による強制は全くありませんでした。

天皇家が武力を振るうのは、人をさらったり、穀物を強奪する「八十マガツ」に対してのみでした。
天皇と人民は対等であり、天皇に対して人民が意見することも自由で、神武東征の際に(みんな疲れているのに)天皇だけがお神輿に乗っていることを批判した老人は、神武天皇の個人教授に大抜擢されました。

 

身分制度

ただし、生まれの違いによる身分制度はありました。大きく分けると下記の3つです。

◆天つ御子たち・・・高天原からやってきた神々の子孫たちです。

◆大御宝族(おおみたから)・・・天孫族に付き添って降臨してきた皇族や貴族たちということでしょうか?

タケル(県知事クラス)や国司(クズ)、村主(スグリ)などの重要な地位は、彼らが独占していました。

◆美しき青人草・・・なぜか一般の平民は「草」に例えられ、定住させることを「植える」と言っています。

この青人草たちが、それぞれ職業を持ち、社会を分担していました。(職能による垂直分業で、江戸時代のように上下の区別は無い)

 

女帝に対する考え方

お世継ぎが女性しかいない場合には、必ず男性の「世饗男(よさきお)」という摂政が選ばれます。

この摂政は正式な「夫」であり、夫婦そろって公務を行うことが大前提でした。
だから、ウガヤフキアエズ王朝は女系で支えられていたという解釈は間違いです。
つまり、邪馬台国の女王・卑弥呼と、ウガヤフキアエズ王朝とはかなり異質なものがあります。
また、男帝が皇后を選ぶ際には、必ず天孫族の血を引いていることが条件でした。他の部族から嫁いだ場合は、側女(そばめ)という位置づけ止まりです。つまり近親婚がかなり進んでいたようです。

 

フトマニ占い

重要な政策は「フトマニ(太占)」を参考に決められていました。

桜の木を焼いて占ったようですが、鹿の骨を使ったという記述はありません。

上記のように四つ足は穢れたものと考えられていたので神事には使われませんでした。
巫女体質の一般女性に神が降りて神の言葉を伝えることもありましたが、神事の進行役はあくまでも中臣氏や忌部氏出身の男性でした。つまりシャーマンらしき女性は居なかったのです。

 

素直な心で、すぐ反省

良くないことが起こると「これは自分のせいであり、天に対する罪だ」と、素直に反省します。
つまり、マイナスエネルギーを他人に転嫁することなく、自分の心の中で消化しようとします。

まず「スミマセン」と言ってしまう現代の日本人とよく似ていますよねえ。

また迷ったときは、自分の良心に聞いてみて判断します。この「素直な心」を尊重する伝統は、聖徳太子から松下幸之助に至るまで、脈々と引き継がれています。

 

いくさに対する考え方

「降参した者は許し、逃げる者は決して追いかけない」
つまり、自分の優位な立場を利用して相手を徹底的に追い詰めることは、ありませんでした。
この点が、大陸あたりからの渡来人とは決定的に違っており、彼らのように「根絶やし」にすることはあり得ません。
逆にいえば、この「武士の情け」的なフェアな態度が、敵の逆襲を許してしまうという弱みでもありました。
ちなみに、「情勢有利」を味方に密かに伝えるための合図が「八本の旗を揚げる」ことであり、ここから「八幡紳」が生まれたものと思われます。

 

領土問題と所有権意識

そもそも作物が豊富に採れていたので、無理をして自分の田畑を広げる必要はありませんでした。

また高齢化などで耕作できなくなった場合には、他人が代わって耕作する制度もありました。
のちに「十七条の憲法」の中で、聖徳太子が述べている内容は、ほぼ弥生時代の伝統をそのまま条文化したものです。つまり聖徳太子は「弥生復古主義者」だったと言ってもよいでしょう。だから「和を以て尊しとなし」から始まっているのです。
逆に、異郷の地まで攻めて来て作物を奪い取った渡来人たちとは、祖国が不毛で、食べるものが少なかったからだとあり、「何度も食料を与えたのにお礼も無い」と怒っています。

 

犯罪に対する考え方

犯罪人に対する刑罰は非常に厳しく、例えば強盗を働いた者に対しては「両目を繰り抜いて子取り男にする」というものでした。

当時は、人口増加が重要な課題でしたので、犯罪人といえども「種付け馬」として生かされたようです。
ただし、その子供は他人に預けられ、15歳で成人するまでは実の親とは接触を禁じられました。つまり教育権をはく奪して悪い子が育たないようにしたのであり、これを「子取り男・子取り女」といいます。

 

重婚や不倫に対する考え方

なんとか人口を増やしたいと知恵を出し合った重臣たちの提案で、「夫に先立たれた後家さんについては、(まだ子供を産めるので)積極的に対外試合を認めよう」ということになりましたが、これがフリーセックスと勘違いされて伝わっています。
あくまでも一夫一婦制が大原則でした。

女性の嫉妬が不倫を妨げる最大の原因であることは、現在と変わりません。

 

結婚相手を決める方法

当時は「夜這い婚」だったと、誠しやかに語られていますが、実態はもっと複雑でした。
まず、男性が夜中に好きな女性の寝室の入り口から、自分の履物を片方だけ投げ込みます。これがプロポーズの合図でした。これを受け入れた女性は、翌晩、自分の履物の片足だけを寝室の前に出しておきます。これでカップル成立で、お互いに男女の履物を片方ずつ履いて、みんなに知らせました。ところが対馬で、2人の男性に履物を渡してしまうトラブルがあったと書かれており、誰でも良いという訳ではなかったことは、現在の女性と共通ですね。

 

尊敬する人は?

「年をとっている者がいちばん偉い」と考えていたようです。

だから、功績のあった人には「名誉年齢」がプラスされます。「魏志倭人伝」か何かに「彼らは実年齢を知らず」という記述があったと思いますが、年を数えられないのではなく、この名誉年齢で「私は120歳だからスゴイだろう」と、自慢していたようです。

 

怖いものは?

外国人の侵略が、最大の関心事だったようです。

だから歴代の天皇は、みんな外国人対策に頭を悩ましています。特に、九州の西側から上陸するボートピープルが多かったので、第4代は、この侵略者対策として「霧島神社」を創建しており、これにイザナミ・イザナギが賛同して賜ったのが「天の逆矛」です。
のちに、渡来人たちが「こここそ天孫降臨の地だ」と主張しているのは、逆にその通りなのかもしれません。

 

好きなものは?

なんといっても食べることが最大のレジャーだったようで、天皇が行幸した際には「○○で、○○が出された」という記述が多いことが特徴です。

一般庶民についても、皇居や神社の正面には大きな「食堂(ホクラまたはホカラ屋)」が置かれ、ここで、神々と一緒に食事をしながら、お神楽を楽しむというイベントが催されたようです。

当時のお神楽の盛り上がり方はハンパではなく、神武天皇の橿原宮の新築祝いのときには、お神輿が勝手に走り始めて、7日8晩みんな担いだまま走らされたとあります。

 

日本の伝統行事は弥生起源

お正月は15日くらいまで、毎日行事が続きます。ちなみにお正月とはニニギの命が天孫降臨した日です。

さらに、毎月ごとにその季節のお祝い事があり、「雛祭り」や「子供の日(もともとは菖蒲の節句)」なども、弥生時代からの伝統行事でした。

また、お祝いごとがあるときは、各家庭の玄関先に季節の花木を飾った「門松」のようなものが立てらました。

最近、「日本の伝統行事は中国由来である」という解説が目立ちますが、逆に中国人勢力が、いかにここに力を入れているかという証拠です。

 

健康オタクの弥生人

当時から、病気にならないための方策がいろいろと考えられ、実行されています。
例えば、第33代女帝は「毎朝体を動かせ!」とまるでラジオ体操のような指導をしています。
さらに「お茶」も、もともと日本にあった習慣で、栄西が唐から輸入したものではありませんでした。

温泉療法や、焼砂療法、ヨモギによるお灸など、薬草に関するノウハウも充実しており、「漢方」とは違うレシピが詳細に残されています。神武天皇の長男・タギシミミも、オオナムチ・スクナムチから徹底的に教育されて「薬師」になっています。

 

全ての技術ノウハウは神から授けられた

最後に重要なことですが、縄文時代が終わって、弥生時代が始まったのは、八百万の神々がやってきて、最先端の技術とノウハウを伝授したからです。
「ウエツフミ」には、それを伝えた神様の名前がすべて明記されています。
つまり、「先住民である縄文人が徐々に進化して弥生文明を作りあげたのでは無い!」ということです。
さらに、「弥生人が侵略してきて縄文人を追い払ったのでは無い!」ということも、ご理解いただけたでしょうか?

最後に残る疑問は、「いったい彼らはどこからやってきたのか?」なのですが、これは、みなさんのご判断にお任せします。

 


以上の事実をもとに創作されたSF神話!

『天孫族の地球コロニー計画』

併せて、お楽しみください!