猿田彦は縄文人だった!

そして弥生人のアメノウズメと結婚したので、日本初の縄文人と弥生人のカップルが誕生した。

このときの引き出物「炭500薦」は、猿田彦が縄文人だという証拠である。


<要 旨>
猿田彦は、弥生人である天孫族を迎え入れた縄文人の代表だった。
その功績により、ニニギの命は、アメノウズメを妻として賜わり、ここに日本初の弥生人と縄文人のカップルが誕生した。
そのお礼として、猿田彦がニニギの命に贈呈した「燿り炭」の製造方法こそが、猿田彦が縄文人であったことの証拠である。
だから、弥生人と縄文人の融和の象徴として、猿田彦はのちに「道祖神」と呼ばれる「道引きの神」となった。
その後何者かが、この蜜月関係を嫉妬して、猿田彦神を意図的に抹消した。

 


猿田彦はアメノウズメと正式に結婚していた

ウエツフミには、記紀が削除した重要な記述があります。
なんと、猿田彦とアメノウズメは結婚して正式に夫婦となっていたのです。

 

ある日、ニニギの命が「猿田彦はどうしておる?」とお尋ねになると、
アメノコヤネ(藤原氏の祖先)が、「その猿田彦が申しますには、『アメノウズメは私を至顕させた女神であります。だから私に賜わりたい!』と、望んでおります」と言うので、
ニニギはこう答えました。
「猿田彦は、私の前に立って道引き(ちびき)をした神である。だから請われたとおりに、夫婦にするのがふさわしいだろう」
また、猿田彦に対しては、直接こう命令します。
「汝は、我を道引いたように、人民が国から国へ移動する際の道引き(ちびき)をして、川や海も案内し、いろんな良い知らせをもたらしなさい」

そこで、猿田彦とアメノウズメは、祖母山の頂上に登って、周辺の住民に「結婚宣言」を行い、新婚旅行のため夫婦揃って日本各地を行幸して廻ります。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=9&sno=9

 

従いまして、日本初の新婚旅行は坂本龍馬=お龍夫妻ではありませんでした。


のちに道祖神となった猿田彦

ニニギの命の言葉どおり、猿田彦は「道引きの神」となり、のちに「道祖神」と呼ばれて、人民が道に迷わないように建てられた「道案内の石碑」つまり「庚申塚」となってゆくのです。
さらに妻のアメノウズメは、お神楽を司る神様として日本各地に祀られ、芸能人などからも信仰されるようになりました。

 

 

ところが、この夫婦神は記紀の作者からは徹底的に敬遠されたようで、
◆結婚したという事実は削除され、
(猿女と呼ばれるようになった理由がこれで消失)
◆アメノウズメが淫乱な仕草で誘惑したとねつ造され、
◆夫の猿田彦は、ヒラフ貝に挟まれて溺れ死んで(住吉三神を連想させる)海の神になった。
・・・と、滅茶苦茶な解釈が展開されています。

 

現在では、猿田彦は由緒不明の神様となっていますが、おそらくのちの大和政権が、縄文人と弥生人の蜜月関係を嫉妬して、猿田彦神を抹消しているものとしか考えられません。

 

つまり、「鉄の武器で縄文人たちを駆逐した憎き渡来系の弥生人」というイメージを定着させて、縄文人と弥生人を対立させるのが目的だったものと思われます。
本来は、「鉄の武器で日本人を駆逐した」のは、徐福や秦氏などの渡来人たちなのですが・・・・。

 


猿田彦=縄文人説の根拠

さてさて、問題はこのときに「引き出物」として、ニニギの命に贈呈された品物です。
それは、500薦の「燿り炭」、つまり灯り用の木炭だったのです。

 

ウエツフミには、その製造方法が詳しく記述されています。
それによると、どうやら土に掘った穴状の窯で炭を焼いているのです。
これが私の予想通り「縄文式炭窯」であったならば、猿田彦とは、天孫族である弥生人を迎え入れた、縄文人の代表であったことになります。

 

<ウエツフミによる「燿り炭」の製造方法>
猿田彦は、祖母山周辺の地元住民にこう命令します。
◆榊、オガタマ、桂は、神聖な木なので、切らずに神に捧げよ
◆真っすぐな木は柱となるので、家を建てる際に使え
◆曲がった木や、使い物にならない木を切って七尺の長さに揃えよ
◆山土の赤土を七尺掘って、これを九つ、樽状に掘り抜き、
◆ここに木を隙間なく詰めて、土で上部を何層にも塗り塞ぎ
◆大窓と小窓を造る
◆上に小窓を繰り抜いて、その小窓ごとに上の木を除去して、西風が入るようにし、
◆この小窓から、木の枝一束に清らかな火をつけたものを、上から投げ込み
◆しばらくたつと火が盛んになり、また火が衰えて、荒火となってくるので
◆三日したら、土で火を塞ぐと、燿り炭ができる。

 

上記の記述からはこんなイメージの樽型の窯だったようです。
上記の記述からはこんなイメージの樽型の窯だったようです。

すると86か所の炭窯から、500薦の炭ができたので、これを牛馬で運んでニニギの命に献上すると、命は喜んであちこちで自慢します。
つまり、天孫族には炭焼きのノウハウが無かったようなのです。

 

ましてや、最近チマタでは「猿田彦は天狗である」「インド人である」「秦氏である」などというトンデモ解釈が横行していますが、渡来人が炭を焼いたとは思えませんので、これも猿田彦人気に水を差すための混乱作戦と思われます。


さらに、猿田彦は大山津見の孫ですから、大山津見ファミリー全体が縄文人系であった、と考えても不自然ではありません。

だから「国つ神」という扱いになっているのです。

 

すなわち、海洋民族であり航海と稲作が得意だった弥生人たちが、山の生活、特に木材の利用方法に関して優れたノウハウを持っていた縄文人たちとコラボすることにより、日本独自の文化が形成されていったものと考えられます。

 

そして、弥生人を歓迎をもって迎え入れた猿田彦は、神様となっていまも日本人の心に生き続けているのです。

 

>>>猿田彦のさらに詳しい足跡は、こちらから。

『ウエツフミに見る猿田彦の足跡』