沖縄は、弥生時代に日本人が移民して建国した。その後、中国に占領され「琉球」となった。

またまた「ウエツフミ」から、驚くべき記述が出てきました。

 

第43代・豊足大御中(トヨタラシオオミナカ)天皇の時代といいますから、私の推定では紀元前400年から600年ごろの弥生時代初期に、日本人により沖縄本島が開拓されて「フタナギの国」と名付けられましたが、のちに漢に征服され「琉球」という呼び名に変えられたとあるのです。

 

その証拠として、

『南風原(はえはら)の鶴野(つるの)という場所にお宮を建てて、最初に開拓した日本人4人を「葦原神」として祀った。(鎌倉時代の)今も、春になると祭りが行われる。』

と書かれていますが、このお宮も、多分中国勢力によって撤去されていることでしょう。

【原文はこちら

 

どなたか、沖縄在住の方や、現地に詳しい方は、ぜひコメント欄から情報をお寄せください。

 

さらに詳しい記述は、下記からどうぞ。

 

 


沖縄開拓に関するウエツフミの記述

ウエツフミ【第32綴】第23章より、筆者が現代語訳

 

天之羽槌活衝(アメノハツチイケツキ)の命という人が居ましたが、年齢200歳※にもなったので、隠居して諸国を漫遊することを楽しみとしていました。

※当時は功績に対して名誉年齢が与えられたので実年齢とは異なる

 

ある日、第43代・豊足大御中(トヨタラシオオミナカ)天皇と会ったとき、こう申し上げます。

「私は先日、諸国漫遊していて見つけたのですが、海中に大きな島があります。これは日本の最南端の島です。

住民は多いが、みんな岩穴や平穴や木の下に住み、着る物は山草を乾して叩いて柔らかくして自分の体型に合わせて編んで着ています。

また食べ物は、木の実やケモノを食べており、男女とも外見がそっくりなので判別できません。年をとった男だけはヒゲがあるので分かります。

朝昼にかかわらず食べ物を奪い合って争いが絶えません。親子のケジメもなく、哀れなので、天皇様どうか哀れみをお恵みください。」

 

そこで、天皇は思金燿綱の命、太玉世幸彦の命、児屋活鳥別の命の3臣※を召して、事情を説明して「その島を慈しむように」と告げます。

※天孫降臨に付き添ってきたオモイカネ、フトダマ、コヤネの子孫

 

そこで三臣が「それはどこにある島ですか?」と聞くと

天之羽槌活衝の命が、

「それは宮崎(奇日別)※の種子島の南方、百里ほど離れた島です。」

※当時は、大隈半島までが奇日の国(宮崎県)だった。

というので、天皇と三臣は協議して、沫那芸国明(アワナギクニアケ)の命と、頬那芸百合香主(ツラナギサゐカヌシ)の命の2人を派遣することに決めます。

 

そして、この二柱の上に

「汝らはその島を拓いて、人民を慈しみ、ケモノに頼ることなく※、農民となる道を教えよ」と、宣告します。

※弥生人は、ケモノを忌み嫌っていたので。詳しくは、こちら

 

そこで、この二柱の上は、職工、鍛冶屋、農民ら150人率いて、漁師80人に、大船10隻分の畑作物を積み込ませ、

また、二人の妻子や親戚も同行させて、

裁縫道具、機織道具、調理道具、布や糸まで積み込んで、

合計200人、大船10隻で、

宮崎の大隈※の佐多港から、

※当時は、大隈半島までが奇日の国(宮崎県)だった。

春2月3日に出航して、

その夜のうちに屋久島に到着、

翌々日、5日の朝から北風がしきりに吹いて荒れ始め、追い風で出航したので、翌日の夕方には加計島(奄美の加計呂麻島)に着いて、そこから本島に上陸した。

 


ウエツフミ【第32綴】第24章

 

ここで、全員上陸して、現地人に声をかけようとしましたが、島人はその様子を垣間見て、みんな山に登って、石礫を投げて抵抗してきました。

 

そこで、沫那芸国明(アワナギクニアケ)の命と、頬那芸百合香主(ツラナギサゐカヌシ)の命の二臣は、「これは我々がやって来たことを恐れ畏んで、そうしているのだ」といい、「とても哀れなので、ここは老翁と老婆をやって、ていねいに説得させて、現地人を10人ほど連れて来なさい」と命令します。

 

そこで、大原の翁・夏実四郎五郎(年齢88歳)と、その妻・(年齢83歳)が、絹の着物を着て、竹杖にすがって、よろめきながら山の上に登って、現地人に話しかけました。

 

現地人は二人をみて安心したようで、女子供たちが、この二人の衣装を引っ張ってしきりにうらやましがる様子が見えたので、二人の翁が話しかけますが、言葉が通じません。

 

そこでこの着物を上げようという仕草をすると、喜んだので、その少年少女20人ほどを連れ帰って、二柱の上の前で、この子供たちの言葉を聞いて、現地語で返答させました。

食べ物を与えると嬉しそうに食べ、食べ終わると拝んできました。

さらに着物を与えると、その着方を知りませんでしたので、本土人が着方を教えると、それを学んで着物に帯を結んで装いましたので、全員が喜びました。

 

そこで、二柱の上は「全員に着物を与え、食べ物を食べさせよ」というと、この少年少女が帰ってあとの人に報告したので、全員がやってきて御前に蹲りました。

 

「汝らの住む家を建て、雨風を凌ぐ場所を造ろう」といい、ナタやカマなどの道具を与え、山の木を切る方法を教え、切らせて、草屋を作って、そこに住まわせて、また大工や炊事の方法を教え、山野を拓き、水田や畑を作り、蚕を飼い、麻を育て、その糸から布を作る方法を教え、裁縫、大工、鍛冶屋、種の保存方法までもことごとく教えました。

※この記述から弥生時代の人たちの暮らしぶりが分かります。

 

だから、ここを「南風原(はえはら)」といいます。

 

ここから始めて、周辺の島々も開拓して、約3年で美しい国になり、食べ物争いも無くなり、立派な農民に育ちました。

 

だから、この国を「フタナギの国」※といっていたのですが、現在(鎌倉時代に)、「琉球」というのは、のちに漢国(原文ママ)の付けた名前だといいます。

※フタナギはこの国を開拓した二人の名前アワナギとツラナギから来ている。

 

この二柱の上とその子孫たちは、長くこの国に滞在して、13年後に帰国します。

 

沫那芸国明(アワナギクニアケ)の命の御子である、沫那芸国知(アワナギクニシリ)の命と、その夫人・佐奈姫の命は、この国に永住して、この国の幸いを守る神となり、その子孫たちが代々「フタナギの国」の地方長官を務めました。

 

だから、本土からやって来た

沫那芸国明(アワナギクニアケ)の命

頬那芸百合香主(ツラナギサゐカヌシ)の命

その御子・沫那芸国知(アワナギクニシリ)の命

その妻・佐奈姫の命

の4柱を、

南風原(はえはら)の鶴野(つるの)という場所にお宮を建てて

「葦原神」として斎き祀っているのは、こういう由来によるものなのです。

 

(鎌倉時代の)今も、春の祭りにこのお宮で「歓迎のお祭り」が、行われるということです。

 


また、この沖縄開拓に先立って、第38代・天津祝詞子(アマツノリトコ)の命の時代に、大土国幸(オオツチクニサキ)の命を派遣して、「神津島」「八丈島」を開拓したという記録もあります。

ここに大土狭咋(オオツチサクイ)の命夫妻が残って初代の国司となりました。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=32&sno=1

 


結 び

さてさて、私は沖縄の歴史には詳しくないので、事実を紹介するだけに留めておきますが、この詳細でリアルな記述は、とても創作とは思えません。

 

そして、本土からの移民が沖縄を開拓したのならば、沖縄の人たちが日本人(特に弥生人)と全く同じDNAを持っている理由も明白になってきます。

 

さらに、この記述が正しいとすれば、「琉球王朝」とは中国による傀儡政権であった可能性が高くなってきます。

 

2016年の現在、普天間の米軍基地の辺野古沖への移設問題をめぐって「沖縄独立論」まで登場していますが、くれぐれも早まったことをしないでください。

 

なぜならば、「ウエツフミ」が説くように、沖縄の人たちは由緒正しい「日本人」なのですから。

 


コメント: 2 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    michi (金曜日, 15 1月 2016 18:49)

    とても素敵なお話です。神代文字に関心がありますので、たぶんかなり真実に近いと
    思います。どうぞこれからも、真実の歴史を書いて下さい。

  • #2

    赤星憲一 (土曜日, 16 1月 2016 11:04)

    以前、うえつふみには、勝連半島の伊計島の記述があり、感動しました。
    私の友人の赤嶺年信さんが昨夜、横浜にいる連絡があり、うらやましく思います。
    私も、横浜に行って、藤島さんに会いたいなあ。
    大野、竹田地方に「りゅうきゅう」という魚料理があります。
    また、赤嶺姓は沖縄と豊後大野市に多く、とても繋がりを感じます。
    琉球王朝の家紋と豊後大神氏の家紋は三つ巴で同じです。