神武東征は無かった。第71代が九州から吉野山に遷都した。

ウエツフミによると、第71代ウガヤ天皇の時代に天変地異が相次ぎ、それが理由で九州を離れ、近畿地方の吉野山に遷都したと書かれています。
記紀にある「神武東征」は、この故事をもとに大和王朝側が編集しなおした可能性が高いのです。

 


第71代ウガヤフキアエズ天皇 (別名:天照国照彦百異日臼の命) の治世に、天変地異が頻発し、それにより発生した大飢饉により日本国は大混乱します。

大地震により地割れが多発し、大風による砂嵐で稲が白く枯れ、虫害により麦も黒く枯れたと書かれています。

 

そこで71代は「これはすべて私の責任である」と反省し、フトマニ(太占)による占いを命じます。

 

すると、先代のお后である玉敷姫に神が降臨して、
秋津根国(現在の奈良県+京都府)と草木根国(現在の大阪府+和歌山県)に、新しい宮を造るべし!」

というご宣託が下ります。

 

第71代はただちに遷都を決意し、船団を仕立てて宮処替えに出発します。
まず、浪速の港に到着し、そこから座摩(いがずり)の宮⇒ 生駒山 ⇒ 坂本 ⇒ 葛野の宮という経路で吉野山に至り、そこに新しい都を作りました。
それ以降は、ここが日本国の首都となります。

 

この東遷の途中で、息子の第72代五瀬(イツセの命)が、有名なナガスネヒコとの戦いで命を落とします。

 

孫の第73代彦狭野(ヒコサヌ)または日高狭野(ヒタカサヌ)つまりカムヤマトイワレヒコは、これを聞いてただちに近畿の地に馳せ参じ、父の敵であるナガスネヒコを滅ぼします。

 

この第73代こそが神武天皇であると記紀は伝えていますが、どうやら全くの別人のようです。

 

その論拠となるのは・・・・・、

◆ウエツフミでは、ナガスネヒコは、(神器を盗んで)自らをニギハヤヒの子孫と偽り、新羅と結託して彼らの軍勢を利用し、五瀬の命を(2度にわたる)騙し討ちで戦死させた、極悪非道の謀反人として描かれています。
(ご存知のとおり、記紀ではナガスネヒコはニギハヤヒの正統な末裔であるとして、その存在が正義か悪かよくわからない謎の人物として描かれていることとは対照的です。つまりこのナガスネヒコと大和王朝のあいだには強い絆があったこと、逆にいえばウガヤ王朝の宿敵であったことを連想させます。)

 

◆そのナガスネヒコを滅ぼして、奈良における勢力を確立したウガヤ王朝の英雄であるカムイヤマトワレヒコのプロフィールが、のちの大和王朝側の歴史編集者に大いに気に入られて、神武天皇のモデルにされた・・・というのが私の解釈です。

 

◆例えば、ここまで「○○の命」と日本語の名前で呼ばれていた天皇が、急に「神武天皇」というような漢字表記に変わります。

 

◆さらに、ウエツフミによると第74代ウガヤフキアエズの命も存在しているのです。
第74代神渟名川耳(カムヌナカワミミ)の命が誕生し、即位しますが、その治世については全く記述がありません。

名前から明らかに綏靖天皇のことと思われますが、ウエツフミは、突然のようにプッツリと【41綴】で終了しているのです。

ここに大きな政変が起こり、それを記述するヒマも無く、ウガヤフキアエズ王朝は滅んだと考えられます。

 


では、いったい誰がアウガヤフキアエズ王朝を滅ぼして、大和朝廷の基礎を作ったのでしょうか?

 

残念ながらウエツフミには何も書かれていません。

 

ただし、ウエツフミの巻末には、重要な2つの記述があるのです。
◆ひとつはニギハヤヒが磐船山に再び降臨したこと。(何のための2度目?)
◆もうひとつは穴門の国(あなとのくに、現在の山口県)で、不穏な勢力が蜂起したことです。

 

ウエツフミの記述はここで終っていますが、この2つのうちのどちらかが大和王朝となって、ウガヤ王朝を滅ぼしたという可能性は充分に考えられます。

 

以上から推論すると

◆ウガヤ王朝末期には、九州拠点と近畿拠点の二ヶ所に勢力が分散してしまい、国力が大いに衰退した。

◆この大混乱(俗にいう倭国大乱か?)に乗じて、下記の勢力のうちどちらかが、ウガヤ王朝を滅ぼした。

◆ひとつは、穴門の国(山口県~北九州)で蜂起した熊毛族。

※山口で蜂起した勢力が大和王朝となったとする私の仮説はこちらから。

◆もうひとつは、ニギハヤヒの神を担いだ、ナガスネヒコの近畿地元勢力。

※七十数代にも及ぶウガヤ王朝の歴史の中で、第72代五瀬(イツセ)だけが神として祀られているのは、ウガヤ王朝にとっての大功労者であったから。つまりナガスネヒコとの戦いに勝利して東征を実現させた英雄だった。しかし、その後この勢力に逆襲されてしまったのかも・・・・?

 

あとは後代の研究を待つしか無いようですね・・・・・残念ながら。

 


その後、私はあるひとつの仮説に至りました。

興味のある人は下記から・・・

>>> 『倭国大乱と、ウガヤフキアエズ王朝の滅亡』

コメント: 3 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    Misaki-1167 (木曜日, 07 8月 2014 18:48)

    山本健造著「明らかにされた神武以前」から抜粋します。
    抜粋・・・大三島の大山祇命と薩摩の塩土翁(シオツチノコジ)とを混同した「古事記」
    国学者は大山祇命を山の神と早合点していたようですが、昔は山に住んでいたところの、海の支配権を持つ船団の統領だったのです。
     前にも少し述べましたが、九州の南端の薩摩半島の彼方から(私はインド南端のタミール語民族と推定)船で流れ着いて、笠沙の岬を本拠地として住み着き、船を多数持っている塩土翁を海神と言いました。この海神の娘に豊玉姫と玉依姫がありました。「古事記」は豊玉姫を「わに」に仕立てています。
     そこで、九州の山間部には、北満よりウラジオストックの近くを通過して渡来したと思われるモンゴル族が勢力を張っていました。その首長が火遠理命であり、この火遠理命と海神の娘豊玉姫が結婚し、この海神の助けにより、九州の大隅半島から鹿児島辺りに勢力を持つ隼人(琉球から来たと推定されるモンゴル族)を攻めたのです。
    前にも述べました如く、皇孫邇邇芸命の一族は、これを仲裁して兄弟盃をさせ、皇孫に対して子として仕える盃をさせたのです。そして、邇邇芸命の子の鵜萱葺不合命は玉依姫を妃に迎えたのです。 
     この出来事と大三島の大山祇命の娘木花咲耶姫と邇邇芸命が結婚されたこととが、長い間に混同されて、笠沙の海岸にいた豪族の塩土翁を大山祇命にして、木花咲耶姫をこの海神の姫と思いこんでしまったのです。
    飛騨の山に住んだ命、即ち大山祇命と、南方から志麻土を越してきた塩土翁とを混同したのが、とんでもない間違いを起こしたのです。
    薩摩半島の野間崎へ上陸された皇孫は邇邇芸命と伝えられているが、実は鵜萱葺不合命だったのです。命を喜んで迎えたのは大山祇命ではなくて塩土翁であり、木花咲耶姫ではなくて玉依姫であったので、政略結婚だったのです。「古事記」が編纂される頃までに年月が経ちすぎて、二つの事件が混同されて伝えられたのです。「古事記」に誤記されたので、笠沙宮や金峰の吾田辺りにあった鵜萱葺不合命と玉依姫の遺跡が、邇邇芸命と木花咲耶姫に塗り替えられたのです。「古事記」時代の人は単純で、木花咲耶姫が火の中で三つ子を産んだというような有もしないことを信じるあたりが滑稽でするこの玉依姫の子が神武天皇になるのですから、塩土翁は大船を沢山持っていて御東遷を応援され、部下が大三島に定住して、大山祇命の子孫と共に水軍を興すようになるのです。
    以上、抜粋終わり

  • #2

    Misaki-1167 (金曜日, 08 8月 2014 02:46)

    【飛騨の本家へ出雲を返す】
    「出雲へ遣わした天穂日命と櫛屋玉命から、大方三年も経つのに何の連絡も来ないので、心配をして若彦を出雲へ遣わされた。その若彦からも何の知らせもないので、今度は女三人にこっそり様子を伺ってくるように命ぜられたんじゃ。ところが女三人の内一人が矢に撃たれて殺されたので、女二人がその矢を持ち帰って、報告して矢を見せると、髙木命が、髙木命というのは、天照大神(ヒルメムチ)の息子の天忍穂耳命の妻の親で、天照大神の大事な相談役をしておった人で、その神が持ち帰った矢を見て、『これは間違いなく私が若彦に与えたものだ』と言ったので、若彦の裏切りがハッキリして、裏切ったものをこのままにしておいてはならぬと、強い強い男三人を出雲に遣わして、昼寝をしている若彦を弓矢で撃ち殺したんじゃ。若彦は飛騨に妻も子もおりながら、出雲の大国主の娘下照姫に妻子のあることを言わずに結婚しておったのじゃ。下照姫とその兄の阿遅志貴命(加茂命)は、若彦が高天原の飛騨を裏切った為に殺されたことも知らないので、若彦の髪と骨を捧げ持って飛騨の入口まで来て、噂を聞いて若彦の正体を知り吃驚して、これでは恥ずかしゅうて晴れて飛騨へは行けんと、こっそりと飛騨の若彦の親にだけ知らせて美濃で葬式をすることにしたんじゃ。
    ところが若彦の親だけこっそりと行けばよかったのに、本妻も子供も美濃に行って、あの頃の葬式は喪屋というちょっとした小屋を作ってするんじゃが、阿遅志貴命はあほらしいと言って小屋を縛ってある縄を刀で切って、足で蹴飛ばして、飛騨から行った親や子は泣くし、まぁえらい葬式じゃったと大評判じゃった。皆が心から皇統命様に素直に心からお仕えするのに、若彦の裏切り事件は大変な評判だったんじゃ。若彦の親は天津国玉命という偉い御方で荒城の奥の方に住んでいたが、恥ずかしいと言って富山か新潟か、若彦の妻も子も皆連れて、どこへ行ったのか姿を消してしまったんじゃ。親や妻子は気の毒だったのぉ。その後、建御雷命が二十人程の家来を連れて出雲へ行かれて談判し、大国主と事代主は総本家である飛騨の皇統家に出雲をお返しになったんじゃ。そして大国主と事代主は飛騨の匠が建てた幽閉所に幽閉されたのじゃ。」老翁は瞑目しながら、また語られたのでした。
    【邇邇芸命九州へ経つ】
    「九州を調査するように遣わされた三姫が、猿田彦命に案内されて帰って来たのは八年も後のことじゃった。三姫の報告は『越の人(外国の人)達は、おとなしい日本の人達が食べ物を小屋に蓄えていると取ってしまい、取られまいとすると、よう切れる刀で切り殺し、家を焼き、孕み女を連れて行って腹を切って子を出し、女にはどんどん孕ませ、反抗する者は片っ端から切り殺して、子供や孫をどんどん増やして、今にも東の方へ攻め込む気配である』ということで、ヒルメムチ様の夢見の通りであったのじゃ。
    何度も何度も安川原で相談があってのう、既に九州を平らげに行く準備が出来ておったから急いで出発することになったのじゃ。
    天照大神は、天忍穂耳命に急ぎ筑紫へ発つように命令されると、天忍穂耳命は『私は年を取って体が弱くなってきたので、どうか私の子の邇邇芸命をお遣わし下さい』とお願いされると、天照大神は邇邇芸命を呼ばれて『我々の命はあわやま(淡山)乗鞍岳に生まれて今日に至っておるが、九州へ上がってきて悪さをしている人々は大陸で生まれた人々であって、大自然の中から生まれた尊い命である。であるから、悪さを正して仲良く出来るようにじゅんじゅんと諭して仲良くして行く、こういうことが代々の皇統命が行われたことであり、天が下しろしめせ(治めよ)と代々教えられてきた道である』と、邇邇芸命に親しく教えられて、急ぎ筑紫へ発つように命ぜられたんじゃ。邇邇芸命が皇統命となられて、飛騨中の若い者がそれぞれ妻を連れてのう、飛騨だけでは少ないので美濃やそれから前に降りていた大河内、茨木、田中直、山本、山下、その他の名前は忘れたが、その人達の子供や孫も大勢連れて、伊勢の猿田彦命が船を準備して折って八岐まで迎えに来てくれていたので、たくさん舟を連ねて筑紫の高千穂に行ったんじゃ。そして天照大神の命令を良く守ってじゅんじゅんに諭して九州を平らげて、邇邇芸命の孫に当たるサヌ命(神武天皇)がまた帰っておいでになったんじゃ。しかし飛騨は山の奥であるから、日本中を治めるには大和が良かろうと、邇邇芸命が筑紫に行く前に約束しておったから、大和まで帰って来て都を開いたんじゃ。サヌ命が今の大阪の所から上陸しようとして戦になってな、サヌ命の兄の五瀬命が弓矢に当たって死なれたんじゃ。それで紀州の方に回って大和に入られたんじゃが、天照大神から身の証明のために戴いた十種神器は、サヌ命の十種神器と饒速日命の物と全く同じであったので、大事な総本家の皇統命であり、長い間待っていた御方であることが分かったんじゃ。ところが饒速日命の妻の兄の長スネ彦が言を左右にして軍を引かないので、長スネ彦を縛って東北の方に流してしまったんじゃ。饒速日命や大河内、田中直、茨木、その他多くの方々が土地を拓いて筑紫から皇統命が帰って来られるのを間ってられたんじゃ。こうして大和にに都が開かれて、日本がまとまって来たんじゃ。」
    以上「飛騨の口碑」より抜粋しました。

  • #3

    Misaki-1167 (日曜日, 10 8月 2014 17:17)

    「飛騨の口碑」に残る長髄彦と神武天皇の小競り合いの真実。
    神武天皇の軍が大和に入ろうとして浪速に上陸しようとした時に、互いに何者か相手が分からず戦った時に、天皇の兄五瀬命が流れ矢に当たり戦死されたことを知り、神武天皇と饒速日命は互いに、嘗て飛騨を降りるときに天照大神から授かった十種の神器を示し合って、どちらも天照大神から皇統を授けられた邇邇芸命の直系が神武天皇であることがはっきり分かると、饒速日命は大変喜び、「この日の為に大和を開き待っていた」と申されたのです。しかし、饒速日命を君とし、その御子の宇摩志摩遅命(物部氏の祖)を大和の将来の王にする予定でいた長スネ彦はがっかりしたのです。饒速日命は、神武天皇の兄五瀬命を殺した長スネ彦は自分の妻の三炊屋媛の兄でもあり、相談の結果、長スネ彦は斬り殺した事にして、その家来全部(「東日流外三郡誌」には六千四百人とある)をこっそりと舟に乗せ日本海の黒潮に乗せて奥州に隠して、新天地を開拓させられたのです。神武天皇も暗にそれを認めて追うことなく許されたのです。
     この辺りの事情は飛騨の本家に伝えられ、「飛騨の口碑」として代々若田家に秘伝として伝えられていました。
     長スネ彦も元は飛騨に先祖がある大山祇命(山下住水分命)の子孫であり、天照大神の遠い先祖からの分かれであり、元々親戚の間柄だったのです。