真名野長者伝説と聖徳太子、ウガヤ王朝の密接な関係

臼杵や三重町に伝わる、「真名野(まなの)長者伝説」ですが、ここではその内容を理解していただいているものとしてお話を進めますので、初めて聞いたという方は、下記からまず概要を復習しておいてください。

Wikipediaの記述 「真名野長者伝説」

「考察 真名野長者伝説」

 


この物語を要約しますと・・・、

(1) 「真名野長者」は、もともと貧しい炭焼きだったが、都からやってきた謎の「玉津姫」と結婚したことから、金(Gold)を入手して大金持ちになる。そして娘「般若姫」を生む。
(2) 「用明天皇」はお忍びで臼杵までやってきて、地元で美人と評判の娘「般若姫」と結婚する。
(3) そして、生まれたのが孫「玉絵姫」であり、「聖徳太子」の異母兄弟である。
(4) 娘「般若姫」は、夫の「用明天皇」に会おうと海路近畿を目指すが、途中で嵐にあって遭難する。
(5) そこで「真名野長者」は娘「般若姫」の悲劇を悲しんで、臼杵に石仏群を建設した。

 

これだけを読んでも、そこには、何の起承転結も、何の感動もありません!
ただの「天皇のお手つき事件」ということで終ってしまいます。
あるいは、長い長い女三代にわたる悲劇の歴史であり、これを読んだ人はガッかりしたことでしょう。

 


では、なぜ臼杵と三重町の人たちは、この伝承を大切に大切に現代まで伝えてきたのでしょうか?

 

その理由とは・・・、

「そこには隠されたもうひとつの真実があった」からなのです。

 

実は、生まれた孫とは、女の子「玉絵姫」ではなく、男の子であり、それが「聖徳太子」だったのです。

 

つまり、聖徳太子は「用明天皇」と「般若姫」との間に生まれた私生児なのでした。

(あくまでも地元に伝わる伝承ですが・・・)

 


では、なぜそのことを隠す必要があったのでしょうか?

 

◆ひとつには、聖徳太子の本当の母親の「般若姫」が、片田舎の成金の娘で、その出生が卑しかったことです。
◆宮中では、どこの馬の骨かわからない「聖徳太子」が、いきなり大きな権力を奮い始めたことに、不安感と危機感と覚えたに違いありません。
◆あるいは聖徳太子自身が、自分の出自を恥じて秘匿したのかもしれません。

 

◆さらに大切なことは、「聖徳太子」を天皇家に送り込んで、仏教による国家安泰を推し進めようとしたのは、滅ぼされたはずの「ウガヤ王朝の神々」だったからです。
だから聖徳太子と臼杵との関係を曖昧にしておく必要がありました。
でなければ聖徳太子が潰されてしまいます。
◆現代になってからも、この「出自の曖昧さ」が攻撃対象となって、「聖徳太子は実在しなかった」などというプロパガンダが繰り広げられていますが、日本国を弱体化させるための(主に外国人による)アンチ=ブランディング戦略です。気をつけましょう!

 


では、ウガヤ王朝の「神仏習合プロジェクト」とは何だったのでしょうか?

 

◆ウガヤ王朝を滅ぼした大和王朝は、どちらかといえば好戦的で、侵略戦争を仕掛けて富を独占し、さらに「絶対唯一神」を信仰する人たちでした。そうであったからこそ、日本を統一できたのですが、悪く言えばユダヤ人に似ていますね。
◆だからライバルたちを次々と武力で服従させてゆき、朝鮮にまで出兵して、後代になってからは「大化の改新」という大混乱を招きます。つまり、そのままでは日本国を滅亡の危機に導く恐れがあったのです。

 ◆しかも古代天皇家の功績により、日本全国の統一はほぼ終っており、次の大目標は「国家安泰」だったので、そこに向けた新しいイデオロギーが必要になったのです。

 

◆ご存知のように、昔から日本人は八百萬の神の国であり、争いを好まず、富に固執せず、和を尊ぶ国なのです。これは、DNAのなかに刷り込まれた日本人固有の美徳であり、持ち味であり、強みなのです。

 

◆そこで、このことを憂慮した、「ウガヤ王朝の神々たち」は、仏教こそ日本人に適した「政治思想」であり「人生哲学」であると考えて、その導入と普及を決意します。
つまり、それは宗教ではなく哲学であったため、すんなりと「神道」と習合したのです。

(今でも「困ったときの仏頼み」はあり得ないでしょ?つまり仏様は、運命を司る神様とは思われてないのです。でも死ぬときはなんとなく仏様のほうが心強いですよねえ。みごとな使い分けが日本人の特技です。でも近代になって再び「神仏分離政策」を実行したのは誰ですか?ここに2つの大きな勢力が常に表れては消えていることを実感してください。そのうち詳しく・・・)

 

◆例えば、物部守屋が大分まで攻めてきたとき(577年)、どこからか「山王様」が現れて撃退します。

このとき、山王様は「天竺、唐土、日本の三国を守護している山王様とは我のことなり!」と告げています。つまり、山王様は仏教にも関係していた、あるいはお釈迦様の生まれ変わりである可能性が高いということです。

そして、この山王様は、真名の長者の守護神であり、いまでも深田の里には「日吉神社」があります。

詳しくは、こちら

 


そして選ばれた「特命全権大使」が、聖徳太子でした。

 

◆そのためにまず、ウガヤ王朝の生みの親であり守護神である「豊玉姫」が、「玉津姫」と名を変えて降臨し、選ばれたDNAを保有するターゲット「真名野長者」に近づきます。
◆そして、無欲の「真名野長者」に、金は価値のある鉱物であることを教えます。
◆もともと「真名野長者」は炭焼きとして祖母山系に入っていたので、尾平鉱山に金や水晶やレアメタルが産出することは知っていましたが、それがお金に変わることは知りませんでした。

しかも、祖母山は豊玉姫が祀られている聖地です。


◆「真名野長者」は、ふもとの三重町に大規模な精錬所を開き、この事業で大金持ちとなります。
◆ちなみに、現在でも三重町から佐伯にかけて、「炭焼きや狩人などから身を起こして分限者(ぶげんしゃ)になった」という伝説を持つ人たちが実在します。つまり「山の幸」を活かすことを知っていた人たちです。(そういえば豊玉姫の夫は山幸彦ですよねえ?このことは重要なのでまた改めます。)

 

◆そして、次の仕掛けが、娘「般若姫」という絶世の美人の登場です。
◆テレパシーにより臼杵まで呼び寄せられた用明天皇は、「般若姫」に一目ぼれしてしまい、愛の生活に溺れます。
◆その結果、超人=救世主である聖徳太子が誕生します。
◆聖徳太子は神々のDNAと天皇家のDNAのハイブリッドであり、生まれながらにして古代からの人類の叡智をすべて引き継いでいたのです。

 

◆宮中に戻って天皇に即位した用明天皇は、自分の私生児であり、実は神の子である「聖徳太子」を、重く取り立て、仏教の導入と普及に努めさせます。
◆そして、その志は妹・推古天皇から、のちの聖武天皇・光明皇后へと引き継がれてゆきます。

 

◆この仏教導入政策に賛成してそれを助けたのが、百済系の渡来人であった蘇我氏と、かつて祖先がウガヤ王朝の右大臣(政策担当)を務めた、藤原氏です。
この藤原氏、なかなかしぶとくて、君主が誰に代わってもしっかりと生き残ってゆくだけの処世術を持っていました。だから当時めきめきと台頭してきた蘇我氏と、古代勢力であるウガヤ王朝との融合をめざし、「神仏習合政策」を実行しました。だから平安時代になってからも栄華を誇るのです。
◆逆に、この政策に反対したのが、かつてウガヤ王朝の左大臣(軍事担当)であった物部氏です。古神道に固執した物部氏は、蘇我氏と対立し、のちに滅ぼされてしまうことはご存知のとおりです。

 


臼杵石仏群の本当の由来とは?

 

◆さて、このようにして権力を得た「聖徳太子」は、仏教普及政策を次々と実行してゆきます。
◆同時に、自分の母親の里である豊の国への恩返しも忘れませんでした。
◆そして、祖父である「真名野長者」に出資させて、臼杵に創ったのが現在の「臼杵石仏群」なのです。もちろん現在のような形になったのは、ずっと後代のことですが。
◆それは、あえて例えるならウガヤフキアエズ王朝の「メッカ=聖地」にあたります。

◆ここ“深田の里”には、聖徳大使の石像や、真名野長者夫婦の石像、さらに小五郎が実際に使っていた炭窯の跡もあります。

◆さらに、近隣の坂ノ市には用明天皇建立とされる万弘寺があり、実際に天皇がここを訪れた証拠として「用明天皇御腰掛石」があり、法隆寺そっくりの大伽藍跡なども確認されています。

◆臼杵の城下町には、聖徳太子を祀る「太子堂」と呼ばれる「三重塔」で有名な、龍源寺もあります。

◆だから、いまでも浄土真宗のお寺では、聖徳太子の肖像が必ず飾られることになっているのです。

 


内山観音の本当の由来とは?

 

◆そして聖徳太子の父と母が出会った地、三重町には「内山観音」を建立し、ここには「千体薬師」を奉納しました。

http://www.yado.co.jp/kankou/ooita/taketa/utiyamakannon/utiyama.htm

http://www41.tok2.com/home/kanihei5/oita-uchiyama.html

◆この「千体薬師」は圧巻で、一度見た人は必ずといっていいほど驚きと感動を覚えます。

つまり、ここにはかなりの資本力と最高レベルの技術力、さらに壮大な思想体系が投入されていることが分かるはずです。

◆現在、この地には天台宗の「蓮城寺」が建っていますが、天台宗が伝わるのは用明天皇の時代から約100年後なので、あとからこの地に乗り込んできた可能性大です。

ここにもウガヤ王朝抹消の痕跡が見られます。

◆ただし、ひっそりと目立たない脇社には、今でも「聖徳太子」の坐像が安置されています。 

◆そして、山上から三重の町を見下ろす巨大な観音像は、実は「内山観音」と名前を変えられた「豊玉姫」だったのです。

内山観音の聖徳太子
内山観音に祀られた聖徳太子の像
コメント: 3 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    狩生裕志 (木曜日, 22 8月 2013 18:21)

    実に面白い!

  • #2

    Misaki-1167 (木曜日, 07 8月 2014 17:52)

    先ず、中西正矢氏の著書を紹介します。中西氏は「飛騨の口碑」の優れた分析をされている方々のお一人でいらっしゃいます。
    「図解 神話の証明」http://p.booklog.jp/book/60039/read
    「古事記は出雲が書いた」http://p.booklog.jp/book/57868/read
    これに「飛騨の口碑の内容がかなり出て来ます。
    是非皆さんのご一読を期待いたします。
    飛騨王朝が天照大神の時代に①国を一つにまとめる②筑紫平定を急ぐ③飛騨から大和に都を遷す、以上三つが決まり先ず出雲の飛騨への返還がなされ、饒速日が奈良大和の開拓に降臨し、邇邇芸が筑紫平定に向かったことは既に書きました。
    邇邇芸の孫のサヌ=神武天皇が大和で初代天皇となり飛騨政権は飛騨から大和に遷り、大和朝廷が発足したのですが、①の国を一つにまとめるということに関して大問題が起きていました。大国主は飛騨との縁談の縺れと裏切りの為に飛騨政権に「出雲を取り上げられ、幽閉された」のですが、後になって大国主が嘗て新羅に渡り11年間で181人ともいわれる新羅人の子供を産ませました。
    その子達が出雲に来て最初は統治していた天穂日命に従っていたのですが、ある時穂日を殺害し、釜茹でにし挙句にその死体を煮て喰らいました。そして亡骸を泥池に捨てたのです。これが出雲の水葬の始まりです。そしてそれを飛騨にも飛騨大和朝廷にも隠し通したのです。上辺は穂日の子孫を政権の表に立てていましたが、実際は彼ら新羅の子達が握っていました。大和朝廷が出来た頃既に穂日は殺害されていたとみられます。当時飛騨は出雲の件が一段落し、今度は奈良開拓や九州平定に沢山の軍や民が必要だったため、出雲から軍を引き揚げ手薄になってしまいました。少彦名らはそれに附け込んで穂日を殺し再度出雲を自分達の国にしてしまったのです。
    そして出雲新羅神崇拝教とでもいうべき新興宗教で民衆を引きつけ、全国の飛騨の氏神様を大国主や少彦名=五十猛などの神に変えました。
    以下、山本貴美子氏の著書「暴かれた古代史・・・二千年の涙」から引用します。
    引用・・・
    物部氏の敗北は天孫の痛手
     日本に仏教を取り入れるか否かの時、蘇我氏は賛成しましたが物部氏は反対しました。物部氏=饒速日と長髄彦の妹鳥見屋姫との子宇摩志摩遅が祖、は根っからの天孫で古神道なのです。日本には古より古神道があるのですから外来の仏教を取り入れることに反対したのです。遂に蘇我氏と武力衝突しそして物部氏が負けてしまったのです。その時負けた物部氏一族は、命からがら散り散りになって逃げました。
    その一部は故郷の飛騨にも逃げ込みました。飛騨の山奥で物部守屋(モノノベノモリヤ)を諸屋(モロヤ)に替え、物部穂積(モノノベノホズミ)を八月一日(ホズミ)に替えて世を忍びました。更に山奥に逃げ込んだ物部穂積が小泉となって、世を忍び山から山で生き延びました。その人々がサンカと言われる方々の一部です。サンカは物部氏の流れをくむ人々の他、他の天皇の別れや平家の落人が混じっていると推測されます。物部氏が大和で負けたことは天孫にとって大きな痛手でした。
    飛騨の山奥に逃げ込んだ物部一族の分かれが、暫く時を稼いだ後に現在の高山市に出て錦山に先祖を祀りました。そして諸屋、守屋、守野として子孫が現存しています。高山市長は守野氏です。この物部氏一族こそ天照大神の孫の饒速日のお血筋なのです。
    そして、日本に仏教が迎えられることになったのです。
    仏教の伝来は西暦五百三十八年、二十九代欽明天皇の御代です。蘇我氏は元々新羅神崇拝教の出雲の人なのですが、新羅神崇拝教が大和一の宮を乗っ取ったのは10代崇神天皇の時です。物部守屋が殺されたのは三十二代崇峻天皇の御代ですから二十二代経っているのです。新羅神崇拝教の蘇我氏が積極的に外来宗教を取り入れることに賛成したということは、この頃になると新羅神崇拝教が一時の熱狂的信仰から熱が覚めている様子がうかがえます。
    二十八代宣化天皇の御代になると蘇我稲目が大臣にまでのし上がって来ます。蘇我とは出雲のイソタケルのソである事を強調して「我はソであるぞ!」と「ソ」であることを強調して名乗っているのです。出雲のソ氏一族は宗教で大和の一の宮を乗っ取り、いよいよ今度は政治の表舞台へ、大和朝廷の政所の最中枢である大臣にまでのし上がって食いこんで来たのです。
    稲目は引き続き二十九代欽明天皇の御代に大臣を務め、その勢いは強く、娘の堅塩媛を天皇の側室に入れて大兄皇子(後の三十一代用明天皇)や豊御食炊屋姫尊(後の三十代敏達天皇の皇后で後の三十三代推古天皇)他が生まれます。
    更に稲目の娘で堅塩媛の同母妹の小姉君を側室に入れて泥部穴穂部皇女(用明天皇の皇后で聖徳太子の母)泊瀬部皇子(後の三十二代崇峻天皇)が生まれます。
    先に書いたように三十一代用明天皇は蘇我氏の孫であり、皇后も蘇我氏の孫です。つまり天皇も皇后も母が蘇我氏の出身です。その間に生まれたのが聖徳太子なのです。更に時の大臣は稲目の子の蘇我馬子です。大和朝廷の最中枢をどっぷり蘇我一族で占めているのです。蘇我氏は政治の中枢に入り込んだのみならず、馬子の代になると用明天皇、皇后、大臣のポストを蘇我一族で握ったのです。
    以上引用終わり
    このように出雲は大和朝廷の中で政治の実権を握りました。
    恐らく九州の熊襲や出雲に大量の新羅人の渡来を手引きし、大和朝廷乗っ取り=日本乗っ取りが続いていたものと思われる。そして暫くなりを潜めていたが、明治維新でロスチャイルドにより、息を吹き返し、今日の暴挙が続いているのは間違いないと推察できます。

  • #3

    赤星憲一 (日曜日, 07 2月 2016 00:05)

    映画監督の阿部勉さん(男はつらいよ、吉野ケ里編などで後藤久美子を採用したの映画の助監督)が、「うえつふみ」に関して、古代ロマンとして面白いと私に1分で観光地域おこしのCMを作る指導をしていただきました。
    本日、映像担当の技師と内山観音でロケをしました。
    これから、聖徳太子は用明天皇と玉世姫の私生児という設定で撮ります。